あやめの散歩道 ~モノ・ギャラリー~

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 私は職業柄、政治的な内容はネットでは発信しない。いや、ネットは信じていないので対面でしか誤解を生みそうな話はしません。

 さて、森会長の女性差別ともとれる発言を聞いて違和感をおぼえました。その違和感を5日間考えて、やっと結論が出たので、書き留めておこうと思います。

 違和感の原因はおよそ3つ。

 一つは、これが政治家の発言ということ。政治家は国のために議論や討議を重ねてきた「会議のプロ」であるはずだということ。もちろん政治家は選挙のために有権者に耳障りの良いことを言いそれを裏切る専門家という一面はあります。しかし裏切る原因は私欲より制度や官僚の抵抗など実現不可能性要因は無数にあります。そんな現実を理解してでもなお、「女性が話は会議が長引く」発言は会議を和ませるための方便としては誰得でもないと思います。そもそも、会議は長引くものです。そうしないために司会者がいて、要点をまとめます。発言者の意見が趣旨が不明なら、要点を明確に端的に話すように指示すればいい。知識の差による質問が多いなら、結論に必要な知識は簡略な質問を求めるなり資料を配布して数時間後に再度会議を招集するなど対応をすればいいのです。「会議のプロ」のはずなのに、そんな会議しかしていないということは、国会や委員会などは、MCのいない討論会で何も生産しない、声の大きい人の勝つ、ディベートにすらならない子供の喧嘩だったのではないか? そうだとしたら国会議員などにこの国は任せられない。

 二つ目は、謝罪会見。見た限り謝罪はしても何が悪いか自覚していない印象でした。どうせ辞めろの大合唱になるだろうし実際にそうなった。しかし、委員会委員でもない部外者に言う権利はない。というより今回は言ってはならない。違法なら裁判で判決するべきだ。このまま世論に流されて辞めてしまえば今までと何も変わらない。時間が過ぎて忘れたころにまた同じようなことが起きる。私の職場も含め、学歴や性別、身体能力(障害)や親の職業で普通に差別されている。差別と区別を同一視する社会人は私も含めて多い。それが問題なのに個人を批判して何になるのだろう。そうならないために、今回は何が問題でどれくらいの人が無意識にそう思っているのか、現状を把握して解決策を検討しなくてはならない。そうでないと後任者はほとぼりが冷めるまでは差別意識を持ちながら心の裏に隠すだろう。再発防止を検討せずに批判ばかりする。それでは何も解決しない。委員会が何が悪くて再発防止のために何を講じ何を発信するのか、そこに価値があるのではないだろうか。世論が辞任させては何も変わらない。黒人差別が半世紀たっても問題として再燃するように。

 最後は、森氏といい麻生氏といい、実力は想像するに素晴らしい方だと思いますが、50代の私には理解できない。ということは今の20代には私のことは理解できないのかもしれない。職場の若者には既に私は老害なのかもしれない。コロナや今回の騒動が落ち着けばオリンピックができると思いたい(立場上)。しかしパラには興味はあるがオリには元々興味がない私には、森会長の発言には興味はなかったし、女性差別なんて身近にゴロゴロ転がっている。コロナで友人がコンビニのパートを首になった原因が男性のほうが辞めさせやすかったからと聞いている。今、みんながいろんな理由で困難に向かっているのに、国会議員のような社会的な強者は、いまだに平時のような感覚で発言できるんだという違和感。

 私は公務員なので、今年の給料は昨年より少し減ったくらい。でも残業は減ったし、今年の人事院勧告は去年の民間給与に比例して激減する。退職金は10年前の半減は確実。しかしSNSで発言すると、もらえるだけましと反感を買うだろう。日本人は他人の不幸話が大好きだ。森会長の発言を直感的に批判する。コロナ自粛の不満も相まって不織布マスク以外を感情的に批判する。夏には熱中症予防のためにも不織布マスクは危険だと言われていたのにもかかわらずだ。そして、どうしても不公平な方法しかないのに給付金等に賛否する。

 まるで今の日本人は子供ばかりだ。自分の思いがすべて正しいと強引に他人を責める。いろんな意見に耳を傾ける余裕がなくなったのだろうか?

 しかし、その子供の言葉は、すべて正しい・・・私はそう思う。正義は個人の心の中にあり、100人いれば100の正義があるのだから・・・