松尾芭蕉が元禄2年(1689)の元日に詠んだ歳旦吟。

「元日は田毎の日こそ恋しけれ」

芭蕉が更科に旅したのは前年の中秋8月15日(陰暦)。

5カ月後の新年の朝日を、当地の「田毎の月」と同じように観賞する気持ちで拝んだのです。

朝日が田毎の月のように田んぼ1枚1枚に映っている光景を想像したかもしれません。

実はこの句が、更科での月見が芭蕉文学の到達点「奥の細道」につながる大きな弾みになっていたことをうかがわせる重要な句です。

芭蕉が師と仰いでいた平安時代の僧、能因法師や西行が訪ねた東北地方の歌枕の地を中心に歩くのが「奥の細道」。

その出発は、この句を作ってから3カ月後の元禄2年3月下旬、江戸からでした。

2カ月前の1月下旬には、郷里の三重県伊賀上野の知人、猿雖にこの句を盛り込んだ手紙を次のように送っています。

「去年の秋はさらしなの里姨捨山に旅をしました。木曽路を通って人生の危うさを知り、姨捨山で慰めがたい気持ちを体験し、あわれも見尽くしました。しかし、年が明けてもなお旅に出たい心地がしてしょうがありません」

芭蕉はこのように振り返った後に、

「元日は田毎の日こそ恋しけれ」

の句を一句だけ添えています。  

続けて、塩竃の桜、松島の月など東北地方の歌枕の地をなんとしても訪ねたいなどと「奥の細道」の旅の構想を明かしています。

猿雖は広く商いをしていた富豪で、芭蕉の実家に物心の支援をしていたということなので、

「迷惑をいろいろ掛けているけど。私はこんなことを目指しています」

という芭蕉の近況報告と言えます。

新しい年のはじめですから、大事な人には一層自分の本心、目標を明らかにしたと思われます。

また、この手紙の構成は、更科への旅をして覚悟が固まった、肉体的には苦しい旅だったが、月の都を体感できて自信が持てたと披露しているようにも受け取れます。

どうして自信が持てたか。

それは更科への旅の収穫をある程度、表現し切れたという思いがあったからではないかと思います。

芭蕉は更科から江戸に戻った8月末ごろ以降、旅の収穫をさまざまな表現で形に残そうとしました。

その一つが「更科姨捨月之弁」です。

俳句とその句にまつわるエピソードなどをつづった文章で構成されていることから、俳文と呼ばれる表現形式です。

芭蕉の直筆で掛け軸に表装されたものが2004年の「第21回さらしな・姨捨観月祭」に合わせ、芭蕉が訪れた長楽寺で公開されました。

400字詰め原稿用紙1枚程度の中に、芭蕉は当地に旅してその哀れ深い景色に感動して涙を落とし、

「俤や姨ひとりなく月の友」
「いざよひもまだ更科の郡かな」

という句を得たことを簡潔に示しているのですが、文末をご覧ください。

「貞享5年」となっています。

貞享5年は1688年、この年は9月30日に元号が変わって「元禄」になるので、江戸に帰ってそう時間がたたないうちに書いたことになります。

またこの時期は、1年で最も空気が澄んで月がはっきり見えるころで、「後の月」と呼ばれる9月13日の夜の句会では次の句を詠んでいます。

「木曽の痩せもまだなほらぬに後の月」


体を相当こき使ったのでしょう。

当時、旅は命がけでする時代でした。

体重は減ってしまって体調はまだ、もとには戻らないけど、十三夜の月をみながら、更科の旅の懐かしんでいるようです。

こうした言葉をつむぐ作業をしながら、芭蕉は一方で、「更科紀行」の執筆を進めていたと思われます。

未完成の草稿がいくつか伝わっています。

「芭蕉の更科紀行の研究」(赤羽学著)

によると、最初の草稿は江戸の門人岱水が、芭蕉が書きなぐった紙を保存しておいたもので、元禄2年の正月以前、つまり、

「元日は田毎の日こそ恋しけれ」

の句を添えた手紙を猿雖に出す前に書かれた原稿だということです。

これを推敲した草稿が、芭蕉の故郷、三重県伊賀上野で1967年に発見された直筆のものです。

所蔵者の沖森直三郎さんの苗字を取って「沖森本」と呼ばれています。

岱水が保存しておいた草稿より巻末の句の数が多いことなどから第二次草稿とされ、奥の細道に出発する前までに書いたとされています。

こうした作業を経て芭蕉はほぼ意を伝えられる文ができたと思い、せいせいとした気分で奥の細道に出発したかもしれません。

芭蕉は「奥の細道」の旅の後の元禄4年ごろに最終稿を仕上げたとされ、それが現在、完成稿として通用しています。

芭蕉直筆の「更科姨捨月之弁」は縦約29㌢、横56㌢の大きさで、現在は神奈川県平塚市の隆盛寺が所蔵しています。

同寺の宗派である日蓮宗の学僧、元政上人を芭蕉が連句に詠んだことがある縁からだそうです。

写真は「元日は田毎の日こそ恋しけれ」の句に画を添えた芭蕉直筆の掛け軸です。