表現方法の違い。


同じことしてるのにいや~こんなに違うものかと。見え方と見せ方と。


「幸せ!ハッピー!ありがと!大好き❤️」


って書けばいいんでしょうけど、やっぱり私は書けないし書かないと思う。


パリピの如しテキストが湧いて来ないのでその源流は流れてないんだと。


「モヤモヤするのは羨ましいから」

理論あったんですよ一時。数年前。

目の前のあの人の姿はあなた!みたいな。


いや、いいと思うもんはフォローすっぞ、と。

インスタのフォロー傾向ごっちゃ煮の闇鍋やぞと。


やってた時あった。

ヒラヒラのふわふわの服着てた。


今一着も残ってない。

時たま出てくると「着ないな~」ってやっぱり思う。可愛いんだけど。断捨離対象。

お気に入りで何年も着てる服あるような人間なのに。

今はやっぱりビックシルエットとかブラックコーデとかマーチンのゴツイ靴とか、いいなぁ~ってなってモードかシンプルになりがち。


「女性性」ってなんだろうか。

こういう格好して、陰キャで、適齢期にある子どもだ結婚だの発信もせず、道端の感情の石ころにつまづいては深く思考を沈ませている。


器用さとはかけはなれた効率の悪さに辟易するときも大いにある。


ただ私は、プリキュアの愛の戦士のような物語は書けないのだ。

「ハッピー!ラッキー!プリティ!」

と、声高らかに愛のビームも振り撒けないし、道端の感情の石ころをブルドーザーでガンガン均して「突き抜けよう!」ともできない。


それだけが決して正義ではないし、正解ではない。


私とお付き合いしてくれる人たちの良さは私がわかっていればじゅうぶんだし、

私の良さを誰か一人でも認めてくれていたら本当それこそありがてー、だ。


感情の石ころも眺めていると「はぁ、そうだったんだ」と未だに発見を与えてくれる。

そうやって進む道を開拓しながらゆっくりじっくり歩いてる。

亀の歩み。



anniversaryはホテルじゃなくてバルでもいいし、ツーショットがなくて豚ちゃんの模型だけしか残ってなくてもいい(おしゃれ感ゼロ