皆さんこんにちは。昴です。
今回は、東日本大震災時の経験談をします。
(ふと思いついただけ)
知ってる方も多いと思われますが、今は都会に住む私も中2までは仙台に住んでおりました。仙台といえば東北1の都会ですが、私が住んでいるところは山に囲まれたとても綺麗なところでした。中2までということは、5年前まで。ということは、私は東日本大震災はもろに影響を受けました。・・・といっても、どうやら関東圏も物凄い揺れだったそうで。影響は広範囲ですね。その中でも私の話をしていきます。
震災の前の日。
所属するバレーボール部の顧問から部員に
「明日大事な話があるから。」
と言われ、私はとても怯えていました。
けれど、次の日に地震。当時のバカな私は部活に行こうとしました。
まぁ、もちろんお母さんに止められましたよね笑
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という話が私的に一番好きなのですが、具体的な話をしていきます。
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震災当日、私の中学校は卒業式でした。
無事に卒業式を終え、卒業生を見送りした私は親友と一緒に家に帰ります。
その日、なぜだか寄り道して帰ることになり、
いつも通って帰る山じゃない方の山をぐるっと周って帰ることになりました。
だいぶ時間をかけて親友と楽しく就く帰路。
、、その途中で、地震が、、、きませんでした。
もしこの時に地震が来ていたら、私たちは無事でいられたでしょうか。
遠回りして私たちが通った場所の家々は崩れ、そこにある小学校も倒壊。
私の中学の外にあるバレーコートにプレハブ小学校がたち、
校内に中学生だけでなく小学生がいるという光景。
(なぜ、広すぎて端っこまで行ったことのない校庭ではなく、
私たちが普段から使っているバレーコートにプレハブを建てられたのか。
不満に思った話はまた別の話です。)
親友と家に一旦帰ってからまた遊ぶ約束をし、
家についてリビングに座ってメールをガラケーで打ってる時。
地震がきました。
2人くらいがすっぽり入る机の下に潜り、メールを送信し、耳を塞ぐ私。
食器棚の皿たちの音。隣にある大きな本棚から落ちてくる本たち。
玄関にある高そうな壷が割れる音。どんどん落ちてくる物。
その時は恐怖しかなく、叫び声をあげた私。
揺れが収まり、拍子抜けしていた私に聞こえた第一声。
「すばるー!何叫んでんの?ww」
・・・は?
一緒に住んでいる母の兄から言われた一言。
驚きを隠せない私でした。
何叫んでるのって、怖いからに決まっているでしょうが。
その時はこの人頭どうかしてると思いましたが、
今思えば怖がってる私に笑わせようとしてくれたのかな、、
なんて。
その時、家にいたのは母の兄・おばあちゃん・犬のマロンと私の3人と1匹でした。
母は仕事中。父は小4の頃から東京に単身赴任していたので、東京にいました。
地震が来てからすぐに父と母に連絡を取り、
家族全員の生存確認が取れ、そのことをまた父と母にメールしたところ、
次のメールからもう連絡が取れなくなりました。
そう、奇跡的に回線が混む前の一瞬でバラバラの家族全員の安否が取れ、
それを伝えることもできた私。素晴らしいですね。
そのあとは、家の片付けを黙々としていました。
その間になぜか出かける母の兄。多分職場に行ったんだと思います。
普通の警備員なはずなんですが、なぜ出かけて行ったのか今でも不明です。
私の叫び声を笑った母の兄は、揺れている時、マロンの命を守ったらしいです。
マロンは母の兄の部屋にいるのですが、
(私が小学校低学年の時に、勝手に母の兄がペットショップから買ってきた犬なので管理は全て母の兄に任せてある)
地震が来た時にマンガ本が落ちてきてマロンに直撃するところを、
覆いかぶさって自分に直撃させて守ったという誇らしげな母の兄。
夜になり、ライフラインも全滅していたので、
おばあちゃんと二人、ろうそく一本で毛布を被りながらしりとりをしていました。
どのくらい時間が経ったかわかりませんが、やっと帰ってきた母。
と、その時
「ポーーーーーーーーー」
という音が聞こえて来るではありませんか。
そう、皆さんは聞いたことがありますか?
私の地域ではよく来ていたのですが、これは石焼イモを売るトラックの音です。
まさか、こんなライフラインの絶たれて真っ暗な中から聞こえて来るとは。
母が急いで焼き芋を3つ買ってきてくれ、暖房の効いた母の車の中で食べる私。
寒さと余震の恐怖で凍えていた私を優しくほぐしてくれました。
あの時の焼き芋の味は一生忘れません。
そして次の日。
先に話した通り、部活に行こうとする私を止める母。
世の中がどのようになっているかテレビもつかないのでわからない私たちは、
ひとまず公民館に行ってみることに。
入ってみると、各新聞社の新聞がパネルに貼って展示してありました。
そこで、津波がきたことを知った私たち。
母の実家や親戚が、ちょうど津波が来た地域にたくさんいました。
とても心配になりましたが、今は自分たちのことで精一杯。
後からわかったことですが、
皆さん奇跡的に無事だったということでしたので良かったです。
その後の日にちは、生きるのに必死でしたね。
私の地域だけダムが違うだかなんだかで、水だけすぐに復旧しました。
近くの公園にはたくさんの人が給水しに来ていました。
鍋パーティーとかするときに使うミニガスコンロや、石油ストーブの上を利用して、
美味しいご飯を作ってくれる母。
その母を横目にラジオを聴く私。
石油ストーブでこたつをあたため、
その中に水の入った大量の2リットルペットボトルを置きお湯を作って、
ビニール袋に穴を開けてお湯を入れ自作シャワーで体を洗う日々。
3時間も4時間も雪の降る中、一人でガソリンスタンドやスーパーに並ぶ日々。
(母は「すぐ行くからちょっと先に並んでて」と言って、私を先に行かせ、
もうすぐ順番来るんだけど、とメールすると来る鬼畜さ。
原発の汚染物質が仙台にも来るって言われて怯えながら
寒い中ずっと待ってた私の純粋さを返してください。)
父が東京から支援物資を持ってきてくれ、だいぶ潤った私の家。
山形のおばあちゃんの家に避難しにくると、
ライフラインが全部あり、感動した私たち家族。
(その時に私の家に親友が安否を尋ねにやってきたらしい。
あの時は避難してました。すみません)
そういえば、テレビのCMもずっとACが流れてましたよね。
あれ、、、そういえばいつライフラインが全回復しましたっけ。。
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思ったより地震が来た後の記憶がありませんでした。あれ。
またなんかあれば付け足していきます。
自分の中でまた見返せるように。
その地震が来た年の冬に転校した私。
なんだか、被災した小学校と中学校が合併したとか、すごい被害があった地域とかで東京でテレビをつけるとたまに出る私の故郷。
中学校には私が転校したと同時に、たくさんの著名人がきたらしいです。
とても行きたかった。見たかった。転校しなければよかった←
あ、もっともっと書きたいことが出てきたのですが、本日はここまでとします。
長々と閲覧ありがとうございました。
今日も1日 keep smiling