犯人が捕まった。
カップを持つ手が震えている。
リモコンを手に取りテレビのボリュームを上げる。
駅名が表示される。自然と涙が流れる。
いつの間にかニュースは終わってCMに変わっていた。
「ピロン」
メールだ。
携帯を見る。ユイ君だ。
ニュースを見て知らせてくれていた。すぐに返信を送る。
全身の力が抜けていくのがわかる。
椅子に座る。
この苦しかった日々がやっと終わった。
恐怖に押しつぶされないように平常心を装う葛藤の日々。毎日自分に言い聞かせていた。大丈夫、警戒していれば何も起こらないはずだから。そう思い込むことで恐怖と現実との心のバランスを保ってきた。今、それが崩れ始める。無駄だとわかりつつも奮い立たせ守ってきた気持ちを解放する。
もう構わなかった。
今の私には泣くことが必要だったから。
思いっきり泣いたからか
気持ちが少し落ち着く。
葵が学校へ行った後で良かった。
時計を見る。そろそろ出掛けないといけない・・急いで鏡の前へ立つ。化粧が滲んでいた。目は真っ赤た。まぶたも腫れている。私は深く息を吐く。
また鏡を見てしばらく考えてから
携帯を手に電話をかけた。
>>>携帯を置く。良かった。
大丈夫と笑っていう彼女の瞳の奥には、いつも不安がいっぱいだった。そんな不安を少しでも紛らわせるようにボクは声をかけ寄り添ってきた。だからこそ知っている。恐怖と戦いながら、毎日気丈に振る舞って過ごしていることを。弱さを見せずに恐怖も見せずに我慢してきた彼女を。そして今その緊張感から解放され、崩れ落ちてゆくその姿を想像できるから。
ボクは携帯を開け、
急いで打ち込み送信する。
これでいい。
今は雪の気持ちを落ち着かせる必要がある。その役目はボクでないことは十分にわかっていた。彼女が今求めるものが何なのかボクが一番分かっているからだ。
悔しさがないといえば嘘になる。
でも大切なのは彼女の気持ちだ。彼は雪が求めないことはしない。これまでの雪の様子と行動でそれがわかる。ボクの役割と彼の役割は同じだった。だが、今回のことで雪が彼に求めるものと、ボクに求めるものが違うことは明らかだ。
なぜか怒りや敗北感はない。
それはきっと彼だからだろう。いや間違いなく彼だからだ。誰かを排除するわけでもなく、人よりも前に出るわけでもない。それはすべて雪のために彼女の望むように行動しているからだ。好きという気持ちは今でも負けないが、
雪の心だけは完敗だった。
雪の幸せを望むからこその行動であり、ボクの自尊心の強さを示すためでもあった。決して負けを認めるわけではない。
もし彼女を泣かせるようなことがあれば、その時は
ボクは許さない。
>>>「ピンポーン」
玄関のインターホンを見る。
そこにはユイ君が立っていた。
私は驚いてドアを開ける。
彼は優しい目でわたしを見つめていた。
そして両手を伸ばし一歩前へ歩いてくる。
ゆっくりと
その両腕でわたしを抱きしめた。
突然の出来事にわたしは戸惑う。
だが彼の腕の中に身を寄せその温もりを感じたその時、もうないはずの涙がどこからともなく溢れだした。身体中のすべての緊張が溶けていく。胸に顔をうずめ握りしめる。
時が止まっていた。
温かくて、優しくて、安心していた。何もかも、すべてを忘れてしまいそうになる。もう何も考えていなかった。ただ、ずっとこうしていたいと願うこと以外は・・・。ずっとこの温もりを感じていたい。
そう、今
シールドが外れる。
十数年にかけて身にまとってきた多数のシールドの1つが、また外れた。
好きという感情がそれを溶かしていく。
どれぐらい経ったかわからない。
息をするのを忘れてしまうぐらいに、泣きすぎて息が苦しかった。
彼はずっと黙ったまま、私の背中を優しくさっている。
わたしは
握りしめていた両手を離し彼の背中へ回す。
…ただそうしたかったから。
いつも抱きしめてくれる彼をわたしも抱き締めたかった。その仕草に驚きわたしの顔を覗き込むように見る。恥ずかしさを隠すため下を向いたままギュッと抱きつく。
>>>泣きはらした彼女は、
息をするのがやっとだった。
落ち着かせるように背中をさする。
呼吸が落ち着き始めたその時、
彼女手が、俺の背中へとゆっくり動く
抱きつく。
驚いて彼女の顔を見る。
下を向いたままで表情が見えない。
更にしがみつく。
その行動に嬉しくなり、俺は強くそして優しく抱きしめ返す。
彼女が俺を受け入れた瞬間だった。
これまで、何回も彼女を抱きしめてきてた。
でもそれは、俺が勝手にしていることで
拒絶されてもいい、ただ彼女を支えたいそれだけだ。
彼女から抱きついてくるなんて想像もしてなかった。
可愛くて愛おしかった。
すると今度はゆっくりと顔を見上げる。
目が合う。
ずっと見つめたままだ。
俺は硬直していた。
その瞳が何を求めているかわかっていたからだ。
だが、今緊張の糸が切れている彼女の自尊心が戻った時のことを考えると、俺は動けなかった。今の彼女を傷つけずに行動する方法はこれしかない。
ゆっくりと近づき額にキスをする。
彼女は恥ずかしそうに顔を埋め抱きつく。
更に優しく抱き寄せる。そして、
もう一度キスをした。
どれくらい経ったかわからない。
急に彼女の手が緩み俺から離れる。
そして恥ずかしそうにこっちを見て微笑えみながら言う。
「入って・・」
俺は頷く。
靴を揃えて歩いていくと彼女はコーヒーの準備をしていた。
椅子に座り後ろ姿を見つめる。久しぶりに来た彼女の家、何も変わっていない。
コーヒーを入れ終えカップ差し出す。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
少し濃いコーヒーが喉を流れる。
「どうしてわたしが家にいるって知ってたの」
「杏子さんからメールがあったんです。今日、雪さんお休みを取ったからと」
「そう。。でも、会社大丈夫?」
「大丈夫です。土曜出勤の振替を使ったので配しないで下さい。あの、今日は予定ありますか」
「いいえ。ないけれど、どうして?」
「ドライブでもどうかと思って。」
「行きたい!」
「車下に停めています。どこに行きたいですか?」
その時、玄関の鍵が開く音がした。
俺は驚き思わず身を乗り出す。
こっちへ歩いて来たのは千佳さんだった。
俺たち二人を見て、きゃ!と驚く。
「びっくりした!なんで二人いるのよ!」
交互に見てから鍋を持ってキッチンへ歩いていく。
私は慌てて言い訳する
「今日おやすみ取ったの」
「なんで体調悪いの?
ユイ君いるから違うわね。
なーにデート?これシチューだから冷蔵庫入れておくね」
「うん、いつもありがとう」
「それで何してるのよ。」
「これからドライブ行こうと思って。千佳も一緒に行かない?」
「行かないわよ、やっとの休みだもの。これから爆睡よ。それより、ネクタイ返した?」
「あっ、忘れてた」
「傘も返したの?」
「あっ、それも忘れてた。」
「まったく、あの日も傘持っていってって言ったのに忘れたでしょう。私が連絡入れなかったらびしょ濡れだったでしょ。」
「えっ、連絡って?」
「私が陸君に伝言をお願いしたの。会社の住所もメールしてね」
俺は黙ったままその会話を見守る。
彼女は僕を見て千佳さんを見る。
「わたし、てっきり・・・」
「てっきり?何? ユイ君が勝手に会社の前で待ってる訳ないでしょう。それより忘れずに返すのよ、じゃわたし帰るから。またねユイ君。」
「はい、また。」
俺は返事をする。
「あっ、待って千佳。これ持っていって・・・」
千佳さんを追いかけて行く。
戻ってきた彼女は
テレビ台の引き出しからネクタイを取り出し手渡す。
「あの日も、あの時もありがとう。
傘も玄関に置いてあるので。
わたし着替えてくるね」
そう言って部屋へ駆け込んでいく。
俺は彼女の慌てた様子が可愛くて仕方なかった。
テーブルの上のカップを洗う。
ネクタイをリュックに入れて彼女を待った。
>>>>>
キョロキョロしている陸を見て合図する。
気がついたようだ。
「悪い、遅くなった」
店員を呼びビールを頼む。
「ストーカーは捕まったんだろう」
「捕まったよ」
「よかったな」
「色々ありがとな」
「それで?雪さんにあのこと聞いてみたのか」
「いや、聞いていない。けど、あの事故の事は調べてみたよ。どうやら、雪さんを迎えに行く途中でトラックと衝突して亡くなったらしい。」
「そうなんだ。お前雪さんが結婚しているの知ってたんだろ?」
「ああ、可能性としてはあると思っていたから。」
「雪さんは昔のこと覚えてないのか?」
「たぶん覚えていないと思う。雪さんの口から一度も聞いたことがないし。あえて俺も聞かないから。たぶん忘れているんだと思う」
「そっか仕方ないよな、覚えているお前の方がおかしいんだよ。」
「覚えていて何が悪い。」
「三歳か?」
「五歳だよ」
>>>>>
彼女と初めて会ったのは図書館だった。
よく母親と図書館へ本を借りに来ていた。あの日俺は迷子だった。いつの間にか母親とはぐれて図書館内をウロウロしていると女性が話しかけてきた。
「どうしたの?お母さんは?」
「さがしてるんだ」
「じゃぁ、私も一緒に探そうか」
「うん」
「私は雪、お名前は?」
「ボク、ゆい」
「ゆいくん幾つ?」
「5さいだよ」
「そっかー、お兄ちゃんだから泣かないのね。ゆいくん偉いね」
お姉さんは手を出す。ぼくはその手をつかむ。
「お母さんどこかな?」
お姉さんのカバンに付いているキーホルダーをみる
「それ、かっこいいなー」
ぼくはゆびさす
「あっ、ちょっと待ってね」
袋に入った同じキーホルダーをカバンから取り出し、ぼくに渡す
「どうぞ」
「え、いいの!ありがとう」
ぼくはすごくうれしかった。
「おねえちゃんすきなひといる」
お姉さんは笑って答える
「いるよ」
いまはいいよ。ぼくこどもだから
「ふーん、じゃぁぼくがおおきくなったら、ユキと結婚するからまってて」
お姉さんは驚いた顔をしたあと、微笑んでしゃがみ込む。
「ゆいくん、私おばあちゃんになってるよ」
ぼくだっておじいちゃんになるもん!
「そしたらぼくもおじいちゃんになるから」
お姉さんは笑う
「わたし、おばあちゃんになって結婚してるかもしれないよ」
ママがつよくおねがいしつづけると、どんなこともかなうっていつもいってるもん。
「だいじょうぶ。おおきくなったら
ボクがぜったいユキみつけるから。
これ、なくさないから。おねえちゃんもなくさないでね。」
彼女は笑ってぼくの頭を撫でた。
「でもさ、大学二年の頃だよな再会したの。三年くらい前か?」
「あー、三年前だ。」
「気がついてないのか?」
「あぁ、たぶんな。でもいいんだ、今はそのままで。もし忘れていたとしたら、それはそれでいいと思っている。大切なのは今の俺と彼女だから。」
「そうだな、やっとここまできたからな。」
俺はうなずく。
そう、やっと彼女の隣に立つことができたんだ。この関係を壊したくないし、壊されたくない。彼女が覚えていない事は重要ではなかった。
「そういえば、アメリカからさくらが帰ってきたって。お前どうしてるかって聞いていたらしいぞ。そのうち連絡くるんじゃないか」
「そうなんだ。」
素っ気なく答える。その様子に呆れて
「お前には関係ないことだと思うけど、あんまり突き放すなよ。同級生なんだからさ。」
「わかってる。」
「あの時さくらがいたから、今のお前がいるんじゃないのか。」
「わかってるよ、感謝してるし悪かったと思ってる」
「まぁそれはもういいとして、とにかくあんまり邪険にするなよ」
俺は黙っていた。
>>>>>
あの頃の俺は途方にくれていた。
そんな時に俺に声をかけてきたのが、さくらだ。嫌がる俺を半ば強引に映画に連れて行ったり食事に誘ったりと、世話を焼いていた。始めのうちはうっとうしかったが、いつの間にか隣にはさくらがいた。大学で噂になり始めた頃、彼女は好きだから付き合って欲しいと言った。心が揺れなかったと言えば嘘になる。
そんな時、図書館で雪さんに再会した。
俺の心は高鳴った。
もう雪さんしか見えていなかった。
付き合えないと伝え彼女の元から去った。その後彼女がどうなったかは知らない。俺は自分のことで精一杯だったからだ。それから二年後、彼女は留学していると友人から聞いた。そのまま会うことなく卒業した。
>>>>>
平穏な日常が戻ってきた。
朝起きてカーテンを開く。
普通であることの幸せを感じていた。
コーヒーの香りも、満員電車の空間も。
バックから社員証を出すこともにも。
些細なことすべてに幸せを感じていた。
幸せって毎日周りにたくさんあるのに
それが普通になり段々と埋もれていくんだと知る。
きっと私もこの幸せが普通になる日がくると思うけど、それはそれでいいとも思う。なぜなら、それは誰もが当たり前のように持っている幸せだから。
明日、ユイ君に会う。
わたしの心は弾んでいた。
毎日のようにメールでやり取りしていても、一度知ってしまった温もりとその声が麻薬のように私を惹きつける。
まるで月が太陽を求めるように。
今は前ほど考えないようにしている。
考えても答えは出ないから。それなら、何も考えずにこのままでいたい。逃避かもしれないけど、今の私の日常に彼がいるのは確かだから。彼から逃げるのも、自分から逃げるのも、もうやめた。
彼が離れていかない限りはこのままでいたい。
私のわがままかもしれないけど。
それでも、これだけは今の私でもわかる。
わたしは、
彼が好き。
釣り合わない二人。わかっている。
それでも、今わたしは彼を必要としている。彼の前に誰かが現れるまででいいから、許してほしい。
少しの間だけ。
わたしに、彼をください。
引き付け合う二つの心臓は
どんな試練にあっても揺るぎないだろう
二つは常に惹きつけ合うからだ
目には見えないが触れることはできる
なぜなら形を変えいつも二人を引きつけているから
これからどんな困難が待ち受けているのか
どんな悲しみが二人を襲うのか
誰にも想像すらできない
けれどわかっていることもある
太陽は光を放ち、月は潤いをもたらす
その関係は雲のように掴みどころがなく美しい
試練を乗り越え
その先に待っているものはなんなのか
それを見ることになるだろう。
>>>>>
俺は腕時計を見る。肩を叩かれ振り向く。
「待った?」
屈託の無いさくらの笑顔がそこにあった。
「いや、さっき来たばかりだよ」
「そう、良かった。これ、お土産」
「俺に気を使わ無いでくれ」
「わかってる。でも、今回は受け取って、ねっ?」
「わかった。ありがとう」
「お腹すいた」
「どこにするか決めたか?」
「うん、予約しておいたよ」
「行くか」
「うん!」
俺はお土産をリュックに入れ歩き出す。
さくらは、あの頃のさくらのままだった。迷いのない瞳で俺を見てくる。きっとそこに心惹かれたのかもしれない。一年会わない間に、大人っぽくなっていた。留学し周りに感化されたせいかもしれないが、全てのものを柔軟に吸収する彼女だからこそ得るものが多かったのかもしれない。
「元気だった?」
「あぁ、元気だよ」
「陸は?」
「陸も元気だ」
「相変わらず二人は一緒なの?」
「まぁ、休みの日は一緒かもな」
「ほんと二人仲いいよね」
「仲いいというより腐れ縁だよ」
「まっそうとも言う」
さくらは笑う。
「仕事は忙しい」
「そうでもないよ。普通に帰れてるし、切羽詰まってもいないから」
「そっかー、まぁ要領のいいユイ君なら問題ないよね。」
梅酒グラスに手を伸ばし、一口飲んだ後さくらは聞いてきた。
「彼女は?」
「いないよ」
「作らないの?」
「そう言うわけではないけど、さくらはいい人できたか?」
深追いされないように話を切り替えす。
「わたし?いないよ。」
「どうせ断ってるだけだろ?」
「だってわたし好きな人いるから」
雲行きが怪しい。
「向こうはどうだった?楽しかったか?」
「うん、初めは大変だったけどすごく楽しかったよ。みんな日本人には比較的優しいから」
「そっか、良かったな」
「うん。」
話が途切れる。
陸に促され会う事にしたが、やっぱり失敗だったと俺は気づいた。だがもう手遅れだった。
「あの人と会ってるの?」
これが彼女が俺に会いたかった理由だ。正直答えたくなかった。またさくらを傷つける事になるのをわかっていたし、俺自身雪さんの話を他の人にしたくなかった。だが、彼女にははっきり伝えなければいけない。
「会ってるよ」
「そうなんだ」
思ったよりもあっさりしていた。誰から聞いていたのだろうか?陸か?いや違う、さっき陸のことを聞いてたからな。怪訝に思う俺の心を見透かしたかのように口を開く。
「隆に連絡したら、ユイは最近忙しくて会ってないって言ってたから。仕事忙しくなければ、それしかないでしょ」
なるほど、隆か・・・大学の頃、よくさくらと一緒にいたな。彼女はイライラしていた。昔から怒った時、俺のことを呼び捨てにする。かわらないな・・俺は苦笑いする。
空になったグラスをもて遊ぶように触っている。
「飲み物頼むか?」
「うん、そうだね。梅酒にする」
店員を呼び注文する。いなくなったタイミングでさくらが話しだす。
「どうして付き合わないの?」
聞いてくるであろうと思っていた質問だった。
「・・・」
「ねぇどうして?」
「わからない」
「わからないって、好きなんでしょ」
バッサリとはねつけたい衝動を抑えながら答える。
「あぁ。」
「じゃ、なんでよ。相手がユイ君のこと好きじゃないって事?」
苦手だ。他人の話を聞く分にはいいが、自分の話はしたくない。
俺は黙る。
「ユイらしくないよ!何を待ってるの。待っていても何も始まらないよ。昔私に言ってたでしょ。いつも我慢してるから、たまにはワガママになってもいいって。我慢だけが、自分や相手を守る方法じゃないって私に言ったじゃん!」
グラスをギュッと掴むさくら。
確かに言った。いつも周りに気を使い、他人に譲って我慢してるさくらを見兼ねて俺が言った言葉だ。だか俺はさくらじゃない。そして、相手は誰でもない雪さんだ。我慢してるつもりはなかった。合わせる事で少しずつ着実に実感しているからだ。
「さくら、少し何か食べろ。酔いが回ってきてるぞ」
店員を探すが近くにいない。俺は席を立ち、水とおしぼりを頼む。
「大丈夫、酔ってもユイには抱きつかないから。だから、好きに飲ませて。」
「帰りが心配になるだろう」
「だから大丈夫だってば!迎えが来るから。本当にユイは気にしないでいいから。」
最悪な展開だった。
グラスを横へ寄せ、彼女の前に水を置く。
しかし予想に反して、その後は大学時代の話をした。昔の出来事を一つ一つ思い出しては、楽しかったねと確認するように話す。まるであの時が人生で一番幸せだったかのように。とても楽しそうに。だが、時折みせるさくらの表情は寂しげだった。
1時間後会計を済ませ店の前で待っていた。
さくらは階段に座っている。
「迎えは呼んだのか?」
「大丈夫、もう近くにいるって」
「それなら、いい。さくら、そんなところに座るな。服が汚れるぞ」
「あー、それ聞いたことある。いつも私が座ると腕引っ張ってさ、あれ痛かったんだから。」
「そっか、悪かった」
「今日は引っ張ってくれないんだ・・」
俺はさくらを見て黙る。手を差し伸べることは簡単だった。でも、その仕草がさくらを更に傷つけることがわかってた。
「ごめん、待たせて」
迎えに来たのは隆だった。
「隆、お前か」
「久しぶりだなユイ、元気か?」
「あぁ、お前は?」
「俺も元気だよ。さくら大丈夫だったか」
「ちょっと飲み過ぎてるけど、大丈夫だ」
「違うよ、泣いてお前を困らせなかったかと思ってさ。」
「あぁ、大丈夫だ」
「それなら良かった。前のコンパの件もあったから、あの時は陸に怒られたよ。連絡先教えてごめんな」
「何もなかったから気にしなくていいよ」
「え、連絡なかった?あんなにしつこく聞いてきたのに・・・あーあ、そういうことか。わかった」
俺の無言の返事を都合よく解釈したようだ。
「さくら大丈夫?歩ける?」
隆はさくらの頭を撫でて聞く。さくらは座ったまま寝ていた。
「家まで送るんだろ、一人だと大変だから俺も行くよ」
「いや、車で来たんだ。だから気にしなくていいよ」
「そっか、わかった。じゃ、気をつけてな」
「またな」
隆はさくらを支えながら通りへ歩いて行った。
二人のうしろ姿を見送ったあと、俺は駅へ向かった。
>>>>>
待ち合わせまで三十分ある。
思ったよりも早く着いた。
喉乾いたな、自販機でも探すか。待ち合わせは十一時だった。予約していた洋服を受け取りたいから渋谷がいいとメールがあった。スマホをかざしてペットボトルを取り出す。いい天気だ。九月に入りまだ暑い日々が続いていたが、今日は涼しくてちょうど良かった。飲み終えたペットボトルをゴミ箱へ捨てる。待ち合わせ場所へ戻り雪さんを探す。
いた!雪さんだ。
白のワンピース姿だ。
誰かと話をしている。
するとその女性は手を振りかざし雪さんを叩いた。俺は目を見張った。更に手をあげる。危ない!俺は駆け出していた。
間に合わない!
そこへ男が飛び出し女の腕を掴む。間一髪のところで止めに入っていた。俺はホッとした。人をかき分け、雪さんに近づく。女を見て愕然とした。さくらだった!
俺はさくらの肩を掴み叫んだ。
「何してるんだ、さくら!」
「だって、だって三年ももて弄ぶなんてひどい!」
「お前、何言ってるんだ」
「・・・」
雪さんを見る。
ショックで呆然としていた。
隣にいるのは蓮さんだった。雪さんの手を繋いで彼女をかばうように前へ出る。
「だって、そうでしょう。
なんでまだ一緒にいるのよ!おかしいでしょ!」
「なんでここにいるんだ!」
「それは・・・昨日、携帯を見たから・・。。」
昨日のいつだ?席を立ったのは・・水をお願いしに時。リュックの上に携帯を置いていたことを思い出す。俺としたことが!
「雪さん大丈夫ですか?」
俺はボーとしている彼女に話しかける。
雪さんは、コクコクと頷く。急にさくらが雪さんの手をつかもうとした。蓮さんがそれを遮る。俺はさくらの両腕を掴む。
「離してよ!」
興奮していた。泣きながら駄々をこねるように腕をはらった後、しゃがみ込む。手をはなす。しばらく誰も動かなかった。周りの人がこっちを見ていた。
雪さんが彼を見て聞く。
「どうして、蓮君ここにいるの?」
「ごめん、二人の様子を少し見て帰るつもりだったんだ。でもこの子が手をあげたから驚いて飛び出してた。」
「そう、だから待ち合わせ場所を聞いたのね。」
「・・・」
彼女はさくらを見てから、話しかける。
「彼女は知り合い?」
「大学の同級生なんです。雪さん大丈夫ですか?」
「えぇ、大丈夫。それより彼女の方が大丈夫じゃないと思うから、今日は送ってあげて」
「でも、、」
「私は蓮君と話があるし、本当に大丈夫だから」
彼女は座って泣いているさくらを見る。
さくらは肩を落として泣いていた。
「わかりました。本当にすいません。あとでちゃんと説明しますから。今日はこれで失礼します」
さくらを立たせ、雪さんと蓮さんに頭を下げる。雪さんは頷き、蓮さんは黙ってこっちを見ていた。
「大丈夫?雪さん」
「えぇ、驚いたけど大丈夫」
「これからどうしますか?」
「私、帰りたい」
「じゃ送ります」
「ううん、少し考えたいから一人で帰るわ。今日は助けてくれてありがとう」
「僕こそ、黙ってついて来てすいませんでした」
「じゃ、またね」
「気をつけて」
彼女は改札を通り、振り返ることなく歩いていく。
俺は後悔してなかった。俺が止めに入らなければ、きっと彼女は二回目のビンタを受けていたに違いない。あの時の雪さんの表情が気になっていた。ただ驚いたのではなく、呆然としていたからだ。彼女の時間だけが完全にあの時、止まったままだった。
>>>「雪、大丈夫?」
「えっ、何?」
「だから大丈夫って聞いてるの」
「驚いたけど、彼女の方が私よりも取り乱していたから。私は大丈夫」
「どうして叩かれたの?」
「それが・・わからないの。でも、あの子変なこと言ってたの。なんで三年もユイ君といるのかって。」
「三年?そう言ったの?」
「うん、どういうことだろう。」
「ユイ君はなんて?」
「その時はそれどころじゃなかったから。聞いてないの」
「そう、三年ね。雪、三年前に彼に会ったの覚えない?」
「えっ、会ったことあるの私?」
「うん、あると思うよ。私の予想が当ってるならね。思い出せない?」
「わかんないよ。どこで?」
「図書館よ。男の子に話しかけられて、僕のこと覚えてますかって聞かれたって。ナンパされたって笑っていた。」
「あっ、それ・・覚えている。彼がユイ君だっていうの?」
「うん、たぶんそうだと思う」
「そんなことって・・・」
「時期的に合ってるし。あれ三年前よ。葵ちゃんがちょうど中学校を入学した頃だったから。」
「・・・」
「今まで聞かれたことないの」
「ない。ユイ君、そんな話したことない。もし仮にユイ君だとして、どうして話してくれないの?私のこと知っていたと思う?」
「もしあの時の男の子が彼だったら、知っていたと思う。忘れているとは思えないし」
「そんなことって・・・」
「たぶん雪が言い出さない限り、彼は言うつもりないと思うよ」
私は困惑していた。あの時の男の子がユイ君だったの?
>>>>>
あの日会社帰りにいつものように図書館へ行った。
きっとも遅い時間だったと思う。出口を出た時、大学生くらいの男性に声をかけられた。
「あの、これ覚えてますか?」
急に話しかけられて驚いた私は、ナンパされたと思いすぐに答えた。
「いいえ、知りません」
「そうですか。。」
彼は落胆した様子だった。
「あのあと一つだけいいですか。
今、幸せですか?」
予想してなかった質問に驚きつつも
「えぇ、幸せだと思います」
と笑って答えた。
「そうですか、良かった。急に話しかけてすいませんでした。どうか、ずっとお幸せに。」
彼は優しく微笑み、頭を下げて歩いていく。
その後ろ姿は、なぜかとても淋しそうに見えた。
まるでフラッシュバックのように、鮮明にその時のことを思い出した。
私は千佳を見る。
「あれは・・・あれはユイ君だった。
確かに、彼はユイ君・・・どうして今まで気がつかなかったんだろう。千佳、どうしよう。わたし・・わたし」
千佳は私の手を握りしめる。
携帯が鳴った。
待ち受け画面には
『ユイ君』
と表示されていた。
次回、『記憶の中の真実』
添付・複写コピー・模倣行為のないようにご協力お願いします。毎週金曜日連載予定。
誤字脱字ないように気をつけていますが、行き届かない点はご了承ください。