9年前の今日

私は名古屋市内のオフィスビルで

仕事をしていました。

名古屋で感じたあの地震は

ゆーらゆーら ゆーらゆーら

船に乗ってるような、

クラクラするようなそんな感じでした。

そしてやけに長いなって思った瞬間に

「あ、三陸がヤバいやつかもしんない」

と思って心臓がバクバクし始めました。


この2日前にも大きな地震があった

ということもピンと来た点でもあるけど、

岩手や宮城に住む人たちって

地震慣れしてるというか

場数を踏んでるので、なんとなく

大丈夫なやつ、ヤバいやつ、

ってわかるんです。

でも、津波が陸に上がってきたのを

知ってる若い人はあまりいないから、

ヤバいやつ=津波、

とハッキリ繋がることはなかったです。

もちろん大きい地震の後の津波情報の

チェックは欠かせないのですが、

それまでは50cm〜1mの津波情報しか

見たことがありませんでした。


小学校や中学校では社会の授業で

大津波の勉強をしました。

私の通っていた学校は山の中なので

津波が来たことはないのですが、

社会の授業で使う地元の教科書では

明治や昭和の大津波の写真が並んでいて、

いつも買い物や遊びに行ってるあの町が

こんなことになっていたんだ、

とその程度に思いながら

みんな大人になっていったと思います。


でも、ざっくりと、

この町は大津波の来るところ。

そういう感覚は持ち続けてはいました。


名古屋で携帯のワンセグで

テレビを見ながら足を震わせ、

手をすごい力で握って

祈るしかできなかった自分を

思い出します。




亡くなった方の名前が

テレビで読み上げられていました。


聞き慣れた地元の苗字が並ぶ。

あの子のお母さんかもしれない。

お父さんかもしれない。

おじいちゃんおばあちゃんかもしれない。

あのお店のおじちゃんかもしれない。

あの病院の先生かもしれない。


小さい頃どこかのお祭りで

飴をくれたあのお姉ちゃんかもしれない。

海で一緒に砂で遊んだ

あの時の知らない子かもしれない。


中学の部活で戦った相手かもしれない。

市内の水泳大会で隣のコースだった

あの子かもしれない。



名前は知らないけど


あの小さな地元で


同じ雨を浴びて


同じ風を受けて


同じ雪に困って


同じ暑さに汗を流して


同じ海を見て


同じ言葉を話す


あの町の人全員を思って


眠れませんでした。



叔父や、高校時代の友人、後輩、

津波で何人も失ってしまいました。


悔しくて海が憎くて

何も手につかない日々が続きました。



でも、

連日報道される、

全国からの支援の輪や、

国境を越えた勇気ある行動に

本当に助けられました。


大阪時代の取引先の方から

もう退職してしばらく経っているのにも

関わらず、

できることがあったら何でも言うてや

と連絡をもらったり、

元同僚からも同じように

心強いエールをもらいました。


こういうことが日本全国で

起こっていたと思います。


今でも、岐阜で

震災復興で岩手に行ったよ

という人を見つけたら

ありがとうございましたと

声をかけさせてもらっていますおねがい




今、マスクやトイレットペーパーの

買い占めだとか転売だとか

咳をしたら睨まれるとか


わかる、わかるけど

私なんかが、それはダメだ!

とも言えないんだけど、

良い悪いじゃなくて

冷静に、着実に

耐えるしかないこともある

っていうか…


直面しているものは全然違うかもしれないけど

9年前から今日まで

そういう風にして

耐えてきている人たちがいます。


全世界がコロナの脅威に瀕している状況で

じゃあ誰が助けてくれるのか

と不安に思うし


だからこそ

自分ができることをやっていくしかない…

と思います。



とにかく今日は、

あの時助けてくれた

全世界の人に


ありがとうございます