どら☆ぶろ〜テレビドラマ感想ブログの決定版

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連続ドラマの感想やあらすじ(放送回までのネタバレ含む)などについてを主に書いてます。
目標とコンセプトは「面白いドラマをより多くの人に見てもらいたい」です。
朝ドラ「ごちそうさん」「あまちゃん」のあらすじ・感想が日課です。
旅行記も稀に書いています。

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今期一番「暗い」と思って録画溜めしていたこのドラマ。因みにネタバレあり。

あらすじ(最終回までのネタバレあり)
山奥の「陽光学苑」に暮らす子供達がいた。その子達は全寮制の陽光学苑で「良質な」教育を受けていた。社会を学ばず美術に特化した教育を受ける子供達。そして学苑の周囲には高い壁があり、生徒たちはそこから出ることは許されていなかった。
 子供達には使命があった。それは臓器提供。陽光学苑の生徒たちは学苑の外にいるオリジナルを素にしたクローン人間であり、学苑を出た後に臓器提供を行い死んでゆく。子供達は学苑の中で臓器提供を「提供」として「他人には行えない行為であり、提供を行える陽光の生徒たちは天使だ」と。
陽光で暮らす生徒の内の3人がこのドラマのメインキャスト。
思いやりがあり優等生タイプの恭子(綾瀬はるか)、美術が苦手で癇癪持ちだが純粋な友彦(三浦春馬)、女王様気質で恭子に執着を見せる美和(水川あさみ)。
3人は臓器提供とその先の死を突きつけられ、有限の命を生きる。
学苑での少年期を過ごした3人は他の同世代の子どもと同じように青年期になると外の「コテージ」に出る。
コテージで自分たちの先輩の姿と今後の運命を更に突きつけられる。臓器提供を行うまでの間に猶予期間が与えられ、「介護人」という「臓器提供を行って自力で動けなくなった提供者の世話をする」という役目も知らされる。介護人は猶予期間が伸びるのだ。
介護人となり少しの猶予を得るか、このままいつ来るとも知れず臓器提供を行うか。また、絶え間ない監視があり、逃亡は即時臓器提供開始を意味する。
現実を受け入れることも出来ず、どう過ごしてよいかわからない恭子たち3人。
恭子と友彦は惹かれ合いながらも、その気持に気づいていなかった。そして恭子に執着を持つ美和は、恭子への当て付けに友彦と付き合い始める。
絡まりあった3者はある噂を耳にする。「両思いとなり、それを証明できた提供者2人は提供までに猶予をもらい、2人で暮らすことが出来る」という噂を。この噂をめぐって3者の感情は更に縺れる。
最終的にこの噂は提供者の願望から出た噂に過ぎず、真実を知った恭子とは友彦の死を看取り、自らの臓器提供が開始する。(美和は恭子に事実を伝えてから絶命する)
また、陽光は数多く存在する提供者の中では「条件の良い」提供者隔離施設であり、学苑長の神川(麻生祐未)は「どうせ限られた人生ならせめてより良い環境を」と思い陽光学苑を設立したのだった。



メッセージポイント
「有限の中で、現在あるものがどれだけ大切なことか。何気ない日常の当たり前のことこそが生きる糧であり、最も大切なことだ」が本作のメッセージだと思っている。
小説や漫画で表現される「明日世界が終わるなら、いつもの1日を過ごして終わりたい」的なものと同じだと。

臓器提供とその後の死という人生の最後を意識せざるを得ない状況で、「人間はどう生きるか」を見せている。
現実を変えたいと足掻く者(真実:中井ノエミ)、現実を受け入れたようで受け入れきれていない者メインキャスト3人)、現実逃避する者(コテージのメンバー)などの姿が「どう生きるか」の視聴者とのあわせ鏡。

「余命◯◯日の~」でやり尽くしたはずの「有限の人生」を臓器提供というハードな甲冑で包んで問題を再び呈した本作。
ドラマ内で出る「陽光の生徒は動物園で働いてた」という噂や「愛を証明できたパートナーは3年間の猶予を得て二人で生きられる」という伝説(?)は、「臓器提供とその先の死」という現実から逃れるための逃避手段。
変わって陽光の学苑長である神川(麻生祐未)が呈するのは徹底された管理の元の自由。「陽光にいる間は徹底した制約があるけど、それを守れば特権を享受できる」というもの。臓器提供という現実は変わらないのだから提供までの期間を可能な限り良い環境で過ごさせたい、というもの。本編で「陽光の子は違う」というセリフに集約される。

逃避したり、現実に引き戻されたりしながら、恭子たちは目の前の「日常の当たり前のこと」の貴重さを噛みしめていく。確実な死の時まで。


「徐々に体の自由がきかなくなり、やがて死ぬ(介護人もいる)」というのは、視聴者である私達の50年後あたりの現実そのものだが。

で、他者のドラマ評などでも上記のことは大体書かれている。
ドラマなので当然なのだが、提供する側である3人に共感するように描かれている。
が、臓器提供はされる側がいてこそ成立する。
ドラマの「臓器提供が認知されている社会」では、人は「提供される側」のほうが確率が高い。「残酷な運命で生きるていても必ず希望はある」的な事を制作スタッフは言いたいようだが、人にはその残酷な運命を構成する側面もあるのだと。
森下佳子はそこまでは意識して書かない気がするが(本人が意識するかしないか、では無く視聴者にそこまで意識させるか否か、という意味)。

本ドラマが「重い」と言われるのは視聴者が持つ加害者性を意識させるからかもしれない。