「このためだけに生きてきたのに」とか、「これに全てを賭けていたのに」と言う選手も多いだろうが、やはり五輪は延期または中止にした方が良いとオレは思う。それも早くに決断、発表をすべきだと思う。
観戦に来た家族が、共に戦った仲間が、メダル獲得に歓喜の涙を流した異国の選手が、熱狂のさなかにウイルスに感染したと知っても、「それでもやはり開催してくれて良かった」なんて心から言えるか?だとしたらものすごくわがままな人間だと思う。個の満足のために、自分以外の誰が傷ついても良い、という発想だと思う。
オリンピックで国を背負って競技で活躍するよりも、地球を背負ってこれ以上状況が悪化しないために出来ることをするのが、国を背負って立つ代表選手たちの使命なんじゃないか、とオレは思う。
考えてみるとさ、受験に向けて必死で頑張って、模試の結果に一喜一憂して、入学試験に合格しただけなのに号泣してみたり、「コイツなしじゃ生きられない」と本気で思って死ぬほど愛した女と別れたり、世界の頂点を競うような人たちじゃなくたって、人間それぞれにドラマがあるでしょ?普通の人にだって。でも死んだ方がマシってくらいの悲しみや悔しさを振り切って生きてくうちに、そんなヘヴィな出来事があったことも、いつの間にか忘れるよね。防衛本能がはたらいて、振り返ったところでどうにも覆せない過去は思い出すまいとしてるってこともあるんだろうけど、それとは別に人間の性として、新たに目標とか、夢中になれるものを見つけると、それまでとは全く別の活力を得てまた走り出せるのが人間なんじゃねぇかと思うんだ。例えばガソリンで走ってたのが電気に替わって、でもそうとは気づかずに「アレ、オレもうガソリン要らねぇんじゃね?」ってあとになって自覚する、ような感じ?そんな経験、誰しもあるんじゃないかな。
更にいうとさ、今ってアスリートに限らず、金持ちも貧乏も金髪もハゲもマッチョも太っちょも、みんなそれぞれに困難に直面してると思うんだ。切迫感はそりゃ個人差や地域差があるだろうけど、不安感と緊張感が地球を覆ってる感じだよね、オゾンみたいに。そんな中で「見られる仕事」をしてる人たちの行動が地球に与える影響ってデカいと思う。政治家はもちろん、ジャーナリストやテレビで解説をする有識者、役者やミュージシャンなんかも、その発言や行動に影響力のある人たちの中に、もっと声をあげて、オリンピック延期または中止を呼び掛けてくれる人がいても良い気がするんだよな。(アスリートはエンターテイナーとは少し違うけど、共に努力したトレーナーやチームメイトや観客にその雄姿を「見せて」こそ努力が実ると思えば、「見られる仕事」といって差し支えないと思う)報道されないだけなのかな?
考えて欲しい。バイデン大統領の就任式に配置された州兵200人が感染したんだよ。軍人なんて国民を守るのが使命なんだから、しっかり感染対策だってしてたはずだよ?これがもし慣例通り一般の市民が何千人も式に参加してたらどうなってた?「医療崩壊」なんて生ぬるいもんじゃなかったかもしれない。
「万全の対策を」ってテレビやお店とかでよく聞くけど、そんなものは存在しないことは誰だって分かってることだよね。確実に感染から身を守る術が確立されてるなら、とっくにマニュアル化されて世界中で実践されて、うるさいくらいに周知活動が起こるはずだもん。
それがまだないうちは、一般の人間はやはり密を避けて行動を自己管理して、こまめに検査を受けて、ってくらいしか出来ることはないんじゃないかな。
一日も早い検査体制の拡充・簡易化と、より高確度の治療法の確立を、何より先の見えない暗中模索の日々に光が射すことを切に願う。
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上尾に引越してそろそろ一カ月、初めての正月を過ごしている。
こんな状況なので、どこへ出かけるでもなく、本を読み、映画を観て、音楽を聴き、ピアノを弾いて過ごしている。そういえば休みの間に職場へ持っていけるサンドウィッチを開発しようと思っていたが、もう明後日から仕事が再開するのに1個も作っていない…。
本は伊坂幸太郎の「魔王」を読み、エッセイを今読んでいる。映画は「天使と悪魔」、「ボヘミアン・。ラプソディ」を観た。今日と明日で「マイ・インターン」と「インターステラー」を観ようと思っている。
今年は果たしてどんな年になるやら。マスクや検温から解放される日はやってくるのか、オリンピックは本当に開催されるのか、近々のことで言えば正月休みで感染爆発は起きないか…等々不安要素ばかりが浮かぶ。それらから解放されて国内・海外にも好きなだけ旅行に出掛けられる日が来ることを切に願う。
個人的には、上尾に引越して通院する病院を変えようと近所のクリニックを探したが、去年の秋ごろから薬はほぼ飲んでいないし、通院の必要はもうないかも知れない。障害者手帳や医療費控除の手続き上、一応病院と薬局は役所に登録し、診察にも行ったが、これまでのように定期的な通院はせず、今後もし体調が悪化するようなことがあればその段階で新たにクリニックを探すか、以前まで通っていたクリニックに行けば良かろうと思う。が、多分そんなことにはならないと思う。
旅行には行けないが、市内を散歩していくつか綺麗な景色が見ることが出来たのでちょっとご紹介。
皆さまの健康とご多幸を祈りつつ…今年もどうぞよろしくお願いいたします。
昨日、かつてメンタルの病を患っていた友人と、うつ病の妻に寄り添って治療から回復までを傍で見てきた人と話す機会があり、自分の通院や薬の変遷を振り返って改めて思ったことがある。
例えば切り傷ならば、人間の肉や皮膚や血液などの肉体的構造がかなり解明されていて、どんな薬がどんな作用をするのか科学的にも医師の経験的にも、治癒までの過程が患者に具体的に提示出来るだろう。しかし、精神医療の場合は違う。検査データや数値にならない症状を患者や付き添い人が言葉を用いて医師に話し、殆どの場合投薬治療中心のアプローチになる。が、考えて欲しい。自分の精神的な辛さやその背景を、どれだけ言葉で正確に表現出来るか。「漠然とした不安感があって夜もなかなか寝付けない」、「仕事に出かける時間になるとそわそわしてよく腹痛を起こす」、「電車に乗ると不安感で冷たい汗が出てきて心拍数が上がり、呼吸が苦しくなる」こうした声に対して医師は抗不安薬や睡眠促進剤を処方する。或いはカウンセリングを勧める。が、私は経験的に抗不安薬の効果は千差万別で、しかも多くには依存性、中毒性、副作用があり、減薬の過程で離脱症状が出るものも多いことを知っている。自分がどう苦しいのか上手く伝えられずに、そもそもの治療アプローチが曖昧だったり効果の出ないものになってしまうケースも多いと思う。医師や病院はそうしたメンタル治療における特性や、それゆえのリスクについての説明はほぼしてこない。そうして薬の効果の大小や体調のアップダウンに右往左往しながら知らず知らずのうちに治療は長期化してゆく。
友人から、「私は専門家が処方した薬を飲まずに次の診察で『処方されたお薬、飲まなくても平気だったので勝手にやめました』なんて言えない」と言われたが、私もかつては処方されたまま、出された薬は疑いもせずに全て飲んでいたからその気持ちはよく分かる。が、薬を減らしたことで体調がグンと良くなったり、気分が楽になった経験が何度もあったことから、私は『専門医とは言え出された薬を飲んでるのはオレだし、それによって気持ちや身体にどんな変化があったのかを知っているのは結局オレだけ。医師はデータや知識はあっても同じ病気に苦しんだこともなければ、薬の効果や副作用を身体で実感したことはないのだ』という考えに至り、医師に依存し、言われるがままに薬を飲み続けることの危険性を思い知った。もちろん勝手に減薬することにはリスクがあるし、不必要に医師に不信感や敵意を持つことはない(結局必要な助けを得られなくなり、自分が損をする)が、逆に自分の身体や症状に合っていない薬を飲み続けることは、治療どころか害にしかならないのだと分かった。そのバランスを取ることの難しさを何度も味わってきた。
先に「自分の精神的な辛さやその背景を、どれだけ言葉で正確に表現出来るか」と書いたが、仮に完璧に言葉に変換できたとて、心の病は処方薬を飲んで一晩寝れば治る、というものではないのだから、精神医療に携わる医師や病院は、通院する患者に自分の心と身体の状態を頻繁に確認して短期的・長期的にどんな変化を感じているか、記録をとって積極的に医師に伝えるよう促すべきだと思う。
何年も前から良質な食事・睡眠・運動が何よりの薬、と様々なメディアで言われているが、そうした角度からの治療アプローチを提案してくる医師はほぼいない。そのことからも、「医師や病院は結局薬を出すことで利益を得る仕組みになっているから、一日も早く薬も通院も要らない暮らしに戻りたいと思っている自分とは目的意識に大きな乖離や齟齬があるのだな」と今更気づく。乱暴な言い方をすれば、たくさん薬が必要で頻繁に通院してくれる患者は「上客」で、薬を必要としない症状の軽い、或いは完治に近い患者は「旨みのない客」ということになる。「病人が来たら医者は手をついて謝れ」という東洋医学の教えをどこかで読んだが、これはその全く逆ではないか。ただし、これを被害妄想的に「医師や病院は自分を薬漬けにして苦しめようとしている」と思い込むのは違う。
通院治療が長期に及べば、自分の体調変化を逐一記録し、毎回の診察で医師に詳細に伝えることはかなりのエネルギーを要するし、とても疲れる。医師がしっかりとそれに向き合ってくれずに失望することもあるかもしれない。ならば治療のことは医師に任せて出された薬を飲み、自分は取り敢えずその日その日を乗り切ることだけ考えよう、という人もいるだろう。それが今の自分に出来る精いっぱい、という状況や心境も良く分かる。とはいえやはりそれは自分に対して無責任だと思うし、心配してくれる周囲の人たちに対して無責任で不誠実じゃないかとも思うようになった。特に今まさに通院治療中の人はただ「医師は聖者でも万能でもない普通の人間であるから、自分の望む通りに回復していかない可能性もある。治療を丸投げせずに自分がまず健康な心身を取り戻す努力をして、医師にはその為に必要なサポートをしてもらう」という位置づけで認識するのが良いと思う。診察を受けっぱなし、薬も飲みっぱなしではなく、それらが何をもたらしているかを自分で常にしっかりと認識し、健康を取り戻すイメージを持って行動することは、病を克服するために欠いてはならない必須要件だと思う。
コロナウイルスの蔓延によってメンタルを病んでしまった人も少なからずいると思うし、友人からもそうした話を聞く。が、私は慌てて医療機関に駆け込む前に、先に書いた良質の食事・睡眠・運動を心がけ、自分の大好きなことに没頭する時間を意識的に持ってみることをまずお勧めする。2週間それを続けても全く気持ちが軽くなる、上向く手応えがなければ、そこから医療機関を探す動きを始めても遅くはないと思う。何でも良い。映画でも読書でも音楽でも、友人との長電話でも。落ち着ける、安らげる、楽しいと感じられる何かを見つけて、それを拠り所に辛さを和らげることが出来るならば、安易に薬に頼らない方が良い。
仕事にしろ、私生活にしろ、人間関係にしろ、国や地域社会の状況にしろ、本当にどうにもならない状況などそうありはしない。劇的な改善や早期の解決を過度に期待せず、ゆっくりでも確実に良くしていける方法は、必ずある。

