コロナ禍と文明のリセット―新型コロナウイルスによる我々の現代文明への宣戦布告はそれを見直す絶好のチャンスだ―
はじめに
新型コロナウイルスが猛威を振るっている。世界中で多くの人の命が失われつつある。私も、高齢でもあるし、まったく他人事ではない。新型コロナウイルスは多くの人の命を奪うと同時に、はからずも、世界の多くの国の危機管理のお粗末さを露呈させた。広く言えば、新型コロナウイルスは政治や経済や社会、ひいては現代文明の病理を鮮やかに暴き出した。本小論はそのような現代文明と、新型コロナウイルスひいてはそれによって引き起こされたコロナ禍の関係に眼を向けるものである。このことは、コロナ禍によって我々が、保健医療基盤の脆弱性も含めて、どれほど脆弱な政治・経済・社会システムに依存していたのか、ということを改めて思い知らされた今、必要なことと思われる。
新型コロナウイルスは強欲な人類への警告だという人もいる。それは、人類の思い上がりに対する天罰(ないし神の罰)だという人もいる。私は、少し過激な言葉を使って比喩的に言えば、新型コロナウイルスは現代文明への宣戦布告だと考える。つまり、地球の支配者である人類への挑戦だ。しかし、私は、後述するように、同時に、新型コロナウイルスは我々にその現代文明を見直すチャンスを与えてくれている、とも考える。つまり、それは、大袈裟な言い方をすれば、文明のリセットのチャンスだ。私は、人類はこのチャンスを活かすべきだと思う。人類は「人類の敵」から学ぶのだ。
本小論はアメリカとドイツで出版される予定の単行本(約30人の共著)『Medicine and Ethics in Times of Corona(Medizin und Ethik in Zeiten von Corona)』(Lit Verlag)の元になる日本語原稿に加筆したものである。原稿は6月に提出しているが、初校もまだ来ていない。
本小論はいわゆる科学論文ではない。すなわち、本小論は科学的論証を行うものではない。コロナ禍を契機として思いつくままに書いた、独りよがりの散漫な管見に過ぎない。とにかく、言いたいことを言い、書きたいことを書いている。それは、残念ながらというべきか当然にというべきか、単なる嘆き節か、恨み節かのどちらかである。ないものねだりの要素もある。
1.現代文明の真価が問われている
現在、新型コロナウイルスによって世界は蜂の巣をつついたような様相を示している。世界は常に矛盾に充ち、混沌の中にあるが、新型コロナウイルスはそれを飛躍的に増大させた。新型コロナウイルスは、前述のように、我々の現代文明に冷酷な宣戦布告をしている。しかし、発想を変えるならば、新型コロナウイルスは我々に、皮肉なことに、結果的に、人間のエゴをベースとしたグランドビジョンなき現代文明の見直し―文明のリセット―の絶好のチャンスを与えてくれているとも言える。
我々はすでに「経済中毒」なのだが、広く言えば、文明に毒されているのだが、それに気づいている人は少ない。私は、便利さや快適さを追求するだけの文明なら、個人的には、もう、うんざりだ。私が、現代文明は経済至上の、無駄と矛盾の多い異常な文明だ、などと極端なことを言えば、経済学者は激怒するだろう。だから二度とは言わない。私は、実に今、新型コロナウイルスによって、ドラスティックに現代文明の真贋ひいては真価が問われていると思う。
自然や動植物からの収奪を続けていれば、さまざまな問題が発生するのはむしろ、当然である。熊も鹿(北海道では害獣)もミミズも、文明の被害者だ。コロナ禍で言えば、後述するように、まさに我々の文明がそれを引き起こしたのだ。だからこそ、繰り返すが、その見直しが必要だ。いくつかの国の政府が言うような小手先でのほんの少しの日常生活の見直しをする程度では到底、すまない、はずである。まずはこのことに世界が気づく必要がある。
2.コロナ禍の温床
新型コロナウイルスが世界に広まったのは現代文明を支える重要な要素であるグローバル経済によるところが非常に大きい。そういう意味において、グローバル経済は間接的であれ、コロナ禍の大きな原因の一つである。表現を変えて言えば、そして、端的に言えば、それは言わば、コロナ禍の「温床」である。その代償はあまりに大きい。もちろん、グローバル経済が、一部ではあれ、各国、各地域の経済発展ひいては我々の物質的に豊かな生活をもたらしたという功績があることは当然である(ただ、一般論だが、功績で罪は消せない)。しかし、誤解を恐れずに言えば、私は、そのような経済の在り方自体ひいては現代文明の在り方自体を疑い得ると思う。なお、インバウンド(外国人の自国への旅行)がグローバル経済の一翼を担うということは、言うまでもない。ここではインバウンドの功罪を論じたりはしない。蛇足だが、インバウンド依存症がコロナ禍によって治癒するかどうかは定かではない。
さらに言えば、グローバル経済を基盤とする国際化社会も、同様な意味において、コロナ禍の温床である。森林破壊や過密都市化やその一部のスラム化などももちろん、同じく温床である。現代文明がグローバル経済に依存し過ぎであることは言うまでもない。地産地消など、「焼け石に水」である。脱グローバル化のかけ声が虚しく響く。
そのコロナ禍の温床を作り出したのはまさしく、私を含めて我々人間のエゴである。ここでいう人間のエゴとは、正確には、個人のエゴだけでなく、組織、社会、国家などのエゴである。今回のコロナ禍の根源はまさに、ここにある。コロナ禍は自業自得なのだろうか?新型コロナウイルスは人間のエゴを厳しく問うている。
以上のように考えるならば、広く現代文明自体がコロナ禍の温床だと言っても過言ではあるまい。
3.人災としてのコロナ禍
コロナ禍は広い視野から見れば、天災ではなく、人災である。武漢の特定の人の特定の行為が発端になっているから、などという意味ではない。自然を作り直し、表現を変えれば、それを壊し、動植物を搾取し、人間世界の矛盾を放置し、さらには、グローバル経済を推し進めて来た現代文明そのものがコロナ禍を生み出した、という意味において、それは人災である。
4.新型コロナウイルスの社会的悪影響は計り知れない
新型コロナウイルスは人を殺す。それは大量殺人だ。人間なら、殺人罪。日本なら、それは死刑だろう。コロナ禍はまるでパンドラの箱から飛び出した災いのようである。元々、日本では地震、津波、豪雨、台風、原発事故など、災い続きだが。
新型コロナウイルスの罪は殺人だけではない。新型コロナウイルスの社会的悪影響は計り知れない。新型コロナウイルスは、その対策等を通して間接的に、人々の自由を奪い、人間関係や地域関係や国家関係などを切り裂き、人々の分断や社会の分断や人種の分断などを煽っている。
さらに言えば、人種差別や疾病差別を始めとするさまざまな差別が助長されることにもなった。ただし、これらは、新型コロナウイルス起因性とはいいながらも、結局、愚かさという人間の習性の一つに基づくものだということを忘れてはならないだろう。
とくに、貧困層や移民や難民などの社会的弱者は直接間接に、新型コロナウイルスの被害を受けやすい。現に、受けている。日本には「地獄の沙汰も金次第」という言葉があるが、まさに「命の沙汰も金次第」。格差が格差を生む。経済格差は命の格差を生むが、それがコロナ禍によって増幅される。
また、別の視点から考察すると、コロナ禍を契機として多くの国で国民の国家への依存度が飛躍的に高まったが、それは国家権力の強大化を加速させる。つまり、コロナ対策を通して間接的に、中央政府であれ地方政府であれ、ますます行政権が強化される。もちろん、以前から指摘されている、いわゆる「行政権の肥大化」も、加速される。なお、国によっては、休業補償などという形で、いわゆる「ばらまき行政」が加速される。
これらに伴って、一部の国であるか多くの国であるかは別にして、利権社会をベースとする「利権国家」度も当然、上昇する。権力は自動的に腐敗するらしいが、そこでは腐敗に加速度がつく。紀元前、プラトンは「国家論」を書いたというが、今、冷徹な著者による「利権国家論」の上梓が待たれる!
付け加えれば、コロナ禍及びその対策は、国家による監視社会の進行を助長しかねない。極端には、これらを総じれば、国家の著しい横暴を許しかねない事態をも、想定しうる。さらに付け加えれば、コロナ禍が世界の緊張を加速させることも、容易に想定しうる。
5.コロナ禍は人口過多への自動調節装置なのか?
世界人口は増え続けている。一昔前、インドの首都デリーは街全体の空気が自動車の排ガスなどによって白く濁って、くさい臭いが漂っていた。私が、かつて、デリー空港到着時に迎えに来たインド最高裁弁護士である友人に、「なぜ政府は肺がんの元になるこのような大気汚染を放置するのか」と尋ねると、彼は、「政府は人が多すぎるのでちょうど良いと考えている」と、まことしやかに答えた。世界人口はすでに77億人を超えている。地球はそれを支えきれるのか?その救世主が新型コロナウイルスなのか?コロナは人口過多への自動調節装置なのか?人類(人間)の間引きが始まったのか!?
日本では、社会の高齢化が指摘されて久しい。私も含めて、老人の氾濫。さらには、一部で老人の害、つまり「老害」が問われている。それは、「暴走老人」などという言葉で表される。極端には、老人の「死ぬ義務」論者までもが出現している。つまり、一部の著名人などによって「老人がいつまでも長生きするのは問題だ」、「老人は早めに死ぬ義務がある」などという主張がなされ始めている。何という悲しい主張だ。私は身につまされる。
コロナウイルスによる死者は主に老人だ。持病のある老人はなおさら死に至る確率が高い。そもそも、持病のない老人など、まず、いないだろう。私を含めてそのやっかいな老人が新型コロナウイルスのせいでいなくなるなら、社会全体としては、医療費が大幅に削減される(そうではないという見解もある)など、むしろハッピーではないのか?若者にとっては迅速な世代交代というメリットもありそうだ。
トリアージはどうか?朝から晩まで働いてたくさんの税金を納め、社会に寄与・貢献してきた老人には医療機器は、どうせ余命は短いから、無駄なのか。考えさせられる社会の到来だが、コロナ禍はそのようなトリアージ的思考を助長させるだろう。
6.災い転じて福となす!
世界中の都市でコロナ対策としてのロックダウンや外出自粛要請(強制)などがなされたが、それによって必然的に自動車の運行などが減り、街が静かになった。また、排ガスが減り、空気と空がきれいになった。駅や空港も混雑がなくなり、快適になった。
新型コロナウイルスによって、自由な外出、旅行、友人との会話、飲食など、それまで当たり前であったことが当たり前でなくなった。失ってみてそのありがたさがわかった。それは、とても良いことだ。
それら以外に、表面的には小さいが、意味的には重要なプラスの変化がある。コロナ禍によって人々の人生観や価値観が、わずかであれ、良い方に変わろうとしている。例えば、人々は前述したようなさまざまな分断を経て、家族や家庭や友人などの大切さに気づき始めた。私は、それらが必然的に、自動的に変わるだけでは足りないと思う。今回のような未曾有の災害であるコロナ禍を我々ひとりひとりがその人生観や価値観を大きく変えるチャンスとすべきだと考える。意識的に大きなプラスアルファを求めるのだ。つまり、なる、を超えて、する。「災い転じて福となる」だけでは足りない。格言通り、「災い転じて福となす」必要がある。コロナ禍から学んで、生き残っている我々ひとりひとりの人生を少しでも、より良くする。そうしないと、多くの亡くなった人たちが浮かばれない。
7.我々はコロナ禍を契機として何をなすべきか?
コロナ禍が直接間接に経済的繁栄のツケであることは言うまでもない。詳述すれば、コロナ禍は、現代人が現代社会ひいては現代文明の異常さに気づかずに、あるいは気づいていても目を瞑り、その恩恵のみにあずかり、どっぷりと浸かって、便利かつ快適に生きてきたそのツケなのである。我々はその教訓を読み取らなければあまりに愚かである。
ここでは、せめて、世界中で多数の死者が出ているという事実に対する現実の悲しみを乗り越えて、発想の転換をする必要がある。つまり、ピンチをチャンスに変えるのだ。それはどんなチャンスなのか?コロナ禍の今は、繰り返して言うが、人間のエゴをベースとしたグランドビジョンなき現代文明の見直し―文明のリセット―の絶好のチャンスだ。
8.経済のV字回復?
では、コロナ禍を契機として我々は具体的に、何をなすべきか?日本では、よく「コロナ時代の新たな日常」とか「新しい生活様式」とかと言われる。「ニューノーマル」などというそれらしい言葉もある。会議も踊るが、言葉も踊る。しかし、その中身は、手洗いやうがいを励行するとか、「三密」を避けるとか、ソーシャル・ディスタンスを保つとか、テレワークを進めるとかの、とても身近な生活習慣などに関する他愛のないものである。
それらによって新型コロナウイルスを押さえ込めたとしよう。そうすると、何事もなかったかの如く、前述のように、小手先で日常生活をほんの少し見直して、また元通りの便利で快適な浪費型文明生活に戻るのか。
多くの先進国では政府が、コロナ禍によって落ち込んだ経済活動を再び盛んにすると言う。私は、そもそも、命と経済を比べるのか、と言いたい。それらは比較衡量の対象なのか?経済復興のために、現にコロナウイルスによる危険にさらされている個々の人々の命を犠牲にするのはやむを得ないのか?ここでは、命と経済を天秤にかけることの妥当性こそが問われなければならないのではないか。二兎追うものは一兎をも得ず、という諺もある。なお、命を優先させて経済を置き去りにすると経済苦による大量の自殺者が出る、だから両者のバランスを取る、などと言われることがあるが、これは論理破綻的言説と思われる。そのような生活困窮者にこそ、自殺しなくても済むよう、手厚い救済の手を差し伸べるべきなのだ。
さらに付言する。日本では、政府は声高に、「コロナと戦い、克服し、経済をV字回復させる」などと言う(言っていた)。前述の疑念(懸念)はおくとして、それ自体に、強いて言えば、異論はない。かけ声としては、すばらしい。産業復興にも、もちろん、異論はない。ただ、経済のV字回復の意味するところのメインの部分が、経済を「回す」ためにレストランで外食し、居酒屋で酒を飲み、観光をし、また、それをさせ、消費を増やす、などということだけなら、それは、本末転倒ではないだろうか。ほか、多少の感染者が出ても、いわゆる「Go To トラベル」(Go To トラブルなどと揶揄される)などの政策を実現させる、と言われれば、私は、恐怖さえ感じる。
素朴すぎる疑問だが、なぜこれらを行わなければならないのか?経済を回す?それらを前提にしか回らない経済自体がおかしいのではないか?浪費を中核に置く経済が、正しいとは思えない。なお、ロックダウンや外出自粛要請(強制)等によって打撃を受けた飲食店などが手厚く救済されなければならないことは、当然である。しかし、そのことと、浪費を中核に置く経済の正当性とは別の問題である。
今、世界に知られた日本の観光都市、京都は、観光客が激減し、かつてのような落ち着いた様相を示しているという。コロナ禍が終息すれば、また大量の外国人観光客が入って来て騒々しい京都に戻るのか。タクシーを待って数百人が行列を作る京都駅に戻るのか。誰が儲かるのか知らないが、「儲かればそれで良いのか」という素朴な疑問が頭をよぎる。
9.欲望充足システムとしての文明
「縮小社会」(http://shukusho.org/)の提案がなされて久しいが、それにはほとんど誰も耳を貸さない。目もくれずに突っ走る、市場経済とテクノロジーを基軸とする現代文明。もちろん、その駆動力は我々の飽くなき欲望である。周知のように、近代に入って欲望の解放が行われた。テクノロジーというキーによってパンドラの箱が開けられたのだ。そして、現代はまさに「欲望爆発」の時代となった。「小欲知足」や「東洋的諦観」など、今や、死語中の死語でしかない。
ヘーゲルによれば、市民社会は欲望の体系らしい。もっと遡れば、前述のプラトン(正確には、その弟子?)は、人間は欲望の束だと言ったらしい。私は実際に聞いたわけではない。僭越ながら、私に言わせれば、文明自体がそもそも欲望充足システムである。少し詳しく言えば、それは、欲望に火をつけて増大させた上でそれを充たして消す、そしてそれを繰り返す、というマッチポンプ式の欲望の拡大再生産および充足システムである。困ったことに、その欲望の中心に巣くうのが、とりもなおさず、我々のエゴである。
私は、欲望充足システムとしての文明に、欲望のオートコントロールシステムをビルトインさせることが必要だと考えてきた。これは、私の20年以上前からの主張(『人体部品ビジネス』1999、講談社)だが、実現する気配はない。実現させる力もまったくない。
欲望はとてもやっかいである。それは扱いにくい。その欲望の延長線上にあるのが競争社会ひいては市場経済である。現代が競争社会であることは言うまでもない。生命倫理のテーマである「エンハンスメント論」や「人間改造論」も、その根底には競争社会がある。小さな子どもや街のセールスマンから大実業家や大政治家や大学者まで競争に明け暮れる現代社会。多くの先進国では子どもの頃から過酷な受験勉強を強いられる。彼らはやがて過酷な競争社会で生き抜き、優秀な官僚や企業戦士となり、人生の勝者となる。彼らは弱者や人生の敗者のことを考える余裕はない。そんなことをしていたら競争に負けてしまい、自分自身が敗者に転落する。敗者の行き着く先は、今はやりの言葉で言えば、下流老人だ。私も不本意ながら、最近その資格を得たようだ。私は今、思い出すことがある。勉強しないで済む東南アジアのスラムの小さな子どもたち(臓器売買調査の過程で出会った)の笑顔の何とすばらしかったことか。ただ、彼らの未来には裕福の言葉はない。
元々、とくに先進国だけとは限らないが、社会全体が競争原理ひいては市場経済原理にどっぷりと浸かっている。競争が発展をもたらすのは当然だ。しかし、競争は、勝者に快感を与えるのは当然だか、基本的に、人間を幸せにはしない。人々の心を、癒すどころか、毒す。そして、それは、ややもすれば、いびつな人間を作る。市場経済は、物質的に豊かな社会をもたらすものの、ややもすると、あるいは必然的に、拝金主義の人々を生み出す。金が権力の淵源であることは言うまでもない。市場経済社会では大学病院ですら売り上げが大事になってくる。こんな世界に誰がしたのか?ここで欠けているのは、まさに倫理だ。しかし、残念なことに、市場経済社会における倫理は活断層上の建築物だ。
そもそも、富んだ者をより富ませるだけの経済発展なら、まったく、いらない。うそとごまかしだらけの政治にも、うんざりする。残念ながら、我々は、自分さえ良ければ、自国さえ良ければ、などというエゴがまかり通る、正義が瀕死の世界の住人である。今、ある事件をきっかけに、「正義無くして平和無し」というかけ声が世界中で再び聞こえる。そもそも、カントによれば、正義が滅ぶなら、人はこの世界に住む必要はない、らしい。彼は、エゴを克服せよ、とも言っている。それが人間なのだと。
人類は「懲りない面々」なのだろうか。原発事故のときのように、またしても、喉元過ぎれば熱さを忘れるのだろうか。
10.グランドビジョンなき現代文明
私たちはリンゴが丸いことはすぐにわかるが、地球が丸いことはすぐにはわからない。目の前の殺人などの犯罪行為はすぐにわかるが、文明の異常さには気づかない。ゴミ処分場に行けば、とくに現代の消費文明の異常さは垣間見ることができるが。
私は、前述したところと同様な主張を繰り返すが、今、個人の生活や政治や経済や社会の在り方などへの反省を含めて、前述した人間のエゴをベースとして目標なく突き進む、つまり、グランドビジョンなき現代文明を反省し、その在り方を見直す絶好のチャンスだと思う。新型コロナウイルスは我々に、文明をリセットする必要性を示唆してくれているのだ。
視点を変えて言う。現代文明は格差や貧困や過度の競争社会や過大な消費行動や環境汚染などの「複合的進行型破局症候群」に罹患しているが、その病を治癒するのだ。ワクチン開発も重要かもしれない!
そもそも文明は人間が作るものである。我々はそれを作り変えることもできる。コロナ後の世界がどうであるか、私は知らないが、そこで大事なのは、世界が変わる、ではない。世界を変える、である。変えなければ、変わらない。新型コロナウイルスひいてはコロナ禍が自動的に、必然的に時代を動かすだけでは足りない。そこには我々の変える意思が必要だ。
11.コロナ禍が与えてくれたチャンス
絵に描いた餅を食えというのか、という批判には甘んじる。コロナ禍は我々に、具体的には、さまざまな「チャンス」を与えてくれている。一部、記す。コロナ感染者やその死者は、貧困層や移民や難民などの社会的弱者が暮らす地域で多く発生している。今こそ、弱者救済に本腰を入れるチャンスだ。というより、それは必然的になされなければならない。ここで、思い出すことがある。貧しい国から生命倫理(Bioethics)系の国際会議や国際学会に参加する医師や教授たちがいる。彼らはとても裕福な人たちだ。そんな人たちに、いつも、言いたくても言えないことがある。ITやロボットなどのことを快適な会議場で討論する時間があったら、路上で生活している貧しい人たちを何とかしたらどうか、と。
個人のレベルでも生活や人生を見直すチャンスだ。そのためには自分の人生観や価値観を問い直す必要がある。例えば、今、生活をスローライフに変える良いチャンスだ。エネルギッシュだが騒々しい生活をゆっくり、ゆったりとした落ち着いた生活へ徐々に変えていく。
人々の人生観や価値観はコロナ禍で必然的に、その程度は別にして、おそらくは良い方向に変わるだろう。しかし、それ以上に、コロナ禍を契機に、意識的に、それらを問い直す、つまり、もっと良い方向に変えるチャンスだ。具体的に言えば、今、本当に大切なものは何か、ということに気づくチャンスだ。
もう一点、分断をますます余儀なくされている現在、夢物語かもしれないが、逆に、人類の団結、世界連帯のチャンスとも言える。
以上のように、新型コロナウイルスは実に多くのチャンスを人類に与えてくれている。しかし、言うは易く行うは難し。だから言うのみ、ではないが。
おわりに
新型コロナウイルスは多くの人の命を奪い、世界を恐怖のどん底に突き落としたが、人類に教訓も与えてくれようとしている。我々は、ペストやスペイン風邪の流行も、少なくとも間接的にはさまざまな変化や変革の契機となったことを想起する必要がある。
我々は、それ自体が目的化している市場経済に踊らされ、ひいては、前述のように人間のエゴをベースとして目標なく突き進む、つまり、グランドビジョンなき現代文明に翻弄されている。我々は現代文明の異常さにもっと早く気づくべきだった。そうしていたらコロナ禍は起きなかったかもしれないし、広がらなかったかもしれない。しかし、今、それを憂えても仕方がない。変えることができるのは未来のみだ。
私はつい、現代人は、失われたものの大きさにまだ気づかないのか、と思ってしまう。ノスタルジックに言うが、かつての澄んだ空気や清らかな水、美しい星空―満天の星―。得たもので失ったものを埋め合わせることはできない。
見方にもよるが、私は、すでに世界は狂っていると考える。我々は、ある物事の渦中にいると、その異常さに気づかない。新型コロナウイルスはその異常さに気づけと言っている。今回から数えて第二回目の「悲惨(禍)」は、それがウイルス起因性かどうかは知るよしもないが、すぐそこに、手ぐすねを引いて待っているのだ。
何度も言うが、そして大時代な物言いだが、今こそ、底の浅い浮ついた現代文明を、その方向性も含めて、総合的に見直す時期である。新型コロナウイルスは我々に、文明のリセットのチャンスを与えてくれている。コロナ禍を人類とその文明の転機とすべきだ。私は多くの世界の指導者つまり権力者には、時折りか常にかは別にして、失望し、絶望する。我々「普通の民」は往々にして、彼らの愚策か、そうでなければ無策に振り回される。彼らは、すべてとは言わないが、そして、常にとは言わないが、ずる賢くて卑怯で、権力欲だけ旺盛だが、そのような権力者のもとで、どうやってコロナ禍の教訓を活かすのか?それはとても困難な道だ。しかし、それをやらないと、人類の未来は悲惨なものとなるであろう。すでにそうだ、という突っ込みが聞こえてくる。
人類は、大局的に見れば確かに愚かな集団に違いないが、まだ望みは、なくはない。そもそも、人間に取り付く新型コロナウイルスと、地球に取り付いた人間というウイルスとで、どちらが悪質か、判定は容易ではない。私も、概して自信過剰で自己肯定感が高い「人間」という種の一員なので、判定にはバイアスがかかってしまうだろう。それはおくとして、新型コロナウイルスは、まだ絶滅危惧種ではないが「絶滅希求種」かもしれない、欠陥種としての我々人類を試している。もちろん、人間の劣化は今始まったことではない。コロナ禍が新型コロナウイルスの陰謀であるか計画的犯行であるかは別にして、我々はまさか、絶滅収容所の住人ではあるまい。