ニュースによりますと義足のレーム選手(ドイツ)が、リオ・パラリンピック男子走り幅跳びで大会新記録を出し二連覇を果たしたとのことです。

 

レーム選手については、大会前にリオ・オリンピックに出場できるかどうかの話題がありました。

その話題とは、国際陸連から参加の条件として義足が競技に有利に働いていないという科学的な証明をレーム選手に要請をしたというものです。

その結論としては、健常者と義足選手を巡り競技の公平性で証明が不十分というものでした。

その判断によりレーム選手はオリンピックの出場は見合わされパラリンピックの参加となりました。

 

わたしの立場を申しておきますと、先の記事(”感動ポルノ”この辺で考えた方が良さそうだ)にも書きました通り、障害者を特別な目で見ることをやめよう、障害者は健常者が感動するために存在するのではない、というものです。

 

さてこの問題について、わたしにある違和感をお話しいたします。

まず義足は道具なのかそれとも体の一部なのかということがあります。

例えば棒高跳びの棒のようなサイクル競技の自転車のような道具として扱ってもいいのでしょうか。

わたしにはどうも違うように思えます。

棒高跳びの棒やサイクル競技の自転車の素材や性能が向上したことで記録が更新されるのと、義足の性能が向上するのとは別だと思っています。

それは何故かと言いますと、棒や自転車は人間の身体能力で出来ない部分を補強するものであって、義足は人間身体の欠損部分を補強するものであるからです。

これは一緒に出来ないと考えます。

 

また義足が眼鏡やコンタクトレンズと同じだという意見もあります。

確かに視力の向上が競技成績に影響することもあるでしょう。

しかし眼鏡やコンタクトは競技に必須のものではありません。

個人の使用に制限も規制もないものです。

しかもこれも目の機能を補強するものであって同列に考えるものではないでしょう。

 

という訳で、わたしは健常者と義足を使った障害者の競技は別物だと考えるのです。

一緒に競技をして記録更新を競うものではないと思います。

 

健常者が義足を使った障害者の記録に不服を述べるにはやはり理由があるのです。

そこには健常者が障害者を差別していると言ったレベルの低い話しではなく、あくまでも公平性の問題なのです。

公平性が保たれないと記録を比較することが出来ないことは当然の話しなのです。

 

健常者と障害者が一緒の舞台で戦って記録を競うことは理想です。

ですがそれは理想であって現実にはそれが出来ないことがあるのです。

それを両者とも受け入れねばなりません。

健常者が障害者を無理に健常者側に引き入れることをしてはならないし、障害者も健常者の中に入ろうとするのもまた然りです。

 

日常の娯楽であれば両者とも仲良くお互いを理解し合って共存は出来ますが、一分一秒また1㎝1㎜を競うシビアな競技の世界においては難しいでしょう。

 

今回のこの走り幅跳びに関して言えば、同じ土俵で両者が競うことは出来ないと考えています。

確かに障害者が健常者の中に入って戦うことに理解も出来ますが、やはり公平性において無理があります。

これは差別ではありません。

逆に健常者が障害者の中に入って競技が出来るのかということを考えてほしいと思います。

入れないのを健常者は差別だと思いません。

 

わたしはレーン選手の努力には敬意を表します。

自ら義足技師として義足の性能アップに努め、自身の跳躍技術向上にも努力を惜しまない姿は尊敬に値します。

 

ですが、区別は明らかに存在します。

しかしそれは公平性から考えたものだからです。

もしこの先に科学的に義足が健常者との競技を巡り公平性が証明されるなら、その時には一緒に戦えばいいのだと思います。

世界記録については、お互いの世界記録として認めていいのではないでしょうか。

 

このわたしの意見は、健常者側の偏った意見なのでしょうか。

そうではないと信じています。