出来上がった映像から、それを撮った者が意図しなかった何かを見る側が受け取ることがよくある。
撮影者や制作者が例え意図していたものだったとしても見る側はそれとは違う別なものを感じ取ることもあるし、あるいは彼らが意図していなかった場面だったとしても見る側はその映像から勝手に何かを受け取ってしまうこともままある。

まっつう 

わたしにとっては、このライブ映像がそのいい例だ。
わたしは以前の記事にここに出ている彼女を、場末のステージでけな気に一生懸命歌っている元人気アイドル歌手、と表現したことがある。

彼女のファンであれば何を失礼なことをと憤ったことだろう。
知らないことから来る大胆さは傍にいるものを冷や冷やさせる。

その通りで当時わたしは何も知らなかった。
彼女のこともこのライブハウスのことも全く知識もない状態でこのライブ映像に遭遇してしまったのだ。

予備知識なくこの映像を観たものにとっては、さまざまな想像を逞しくしてしまうのも仕方のないことだと思う。
その印象が正しいか間違いかは関係なく、わたしが感じたこと自体は否定できないこと。
多分わたしと同じような感覚に陥った方たちもそれなりに居ただろうと推測する。

この映像の特徴は見た通り、膝から上の彼女の姿を固定画面で収めたもの。
この長方形に切り取られた中に映っているもの以外は何も見ることが出来ない。
ライブハウス内の造りもステージ上のバック奏者が誰かも客席の配置や観客の質や数も、わたしには何も分からない。

情報の無いことが逆に想像を逞しくさせるものだ。
見えているものと見えていないものを繋ぐ何かを探している。
わたしは妄想に近い想像をしていたのかも知れない。

もう一度言うがわたしは何もかも白紙の状態でこのライブ映像に遭遇した。
彼女のこともこのライブのこともそして会場のことも。

そんなわたしが最初にここから感じとったのは、もの悲しさと言うかひた向きさから来る切なさと言ったもの。
それが、場末のステージでけな気に一生懸命歌っている元人気アイドル歌手、の表現になる。

この画質の悪い色調も褪せた不動の画面からは、良いことを思い起こさせるものは何もない。
彼女の歌声以外にプラス要因は全くない。

この何の工夫もない長方形の画面の中で、取り立てて会話もなくひたすら歌う彼女の一生懸命な姿がわたしの胸を打った。
そして彼女の歌声が、そこに悲哀と切なさを増幅させてしまうのだ。

この映像だったからこそわたしはこのライブに魅せられたのだと思う。
逆説的に言えばこの映像の質がライブを台無しにしているにもかかわらず、わたしには魅力的で感動的なライブに仕上がってしまったようだ。

今現在のわたしは、彼女のことも彼女の歌う歌もよく知っているし、このライブハウス・コットンクラブも彼女を観に2回も行って会場のあらかたのイメージも思い起こすことが出来る。
そしてこの映像がユーストリームに配信するためのものだったと言うことも今では知っている。

当時のわたしと全然違う情報を持ったわたしが今もこの映像を観続けている。
もうあの不思議な感覚は薄らいだが、いつまでも何回も観返している。

何故か。
この映像の中でしか会うことの出来ない彼女。
生ではおそらく再現出来ない雰囲気を持つ彼女。

だからこそわたしはこの松浦亜弥を観続けるのだ。