赤い大地 (7)


   花輪本家


「芙美さんの漬物は味がいい」

 そういうとカチカチ入れ歯を鳴らしながら、紺色の茄子をうまそうに噛んだ。


「姉さま……」と、改まって芙美は勢伊に言葉をかけた。

「先ほどの村長は腹を決めてかかれ、のお言葉ですが、それは端的にいえば分村などせずに家を守れということでしょうか?」

「そうじゃ、いよいよとなったら知事さんに辞表を出せばよいことじゃ。満州へ行くも行かぬも自分の自由だ。強制的とはいくめえ。物事を決めるには万機公論に決すべしと、明治天皇様も言っておられる。村民大会でみんなが駄目ならそれに従うことが村長の務めじゃ。武文にもそう言うときい」


 勢伊の意見を聞いて、これは大変な事になる、と心配したのだろう、芙美は顔を曇らせた。そして自分の夫が村長として率先して村人に呼びかけ、何百人という移民家族にみんなこのような思いをさせるのか。その責任の重大さに芙美はしだいに打ちひしがれた顔になった。


 開拓移民団の運命は先頭に立つ村長の手に委ねられているのだが、さて村長の武文にどんな心構えがあるのだろうか。知事さんの命令だから断れないと言っても、それは官選村長の個人的立場に過ぎない。自分以外の何百人という家族の将来について、本当に責任がもてるだろうか。一身を投げ打つ覚悟はいいが、前途の見通しを明らかに示すことが出来るのか……。


 満州という見も知らない外国へ大勢の人に行くように勧めて、もしその移民が失敗したら、失ったものは何によって償われるというのだろうか。分村者の生命財産の保証は、ソ連、中国、それを取り囲む国際状勢の中でどんな見通しが立つというのだろうか。田舎暮らしをしている一介の村長が何を頼りに決断するのか、芙美は考えると本当に不安が募ってくるばかりだった。


赤い大地 (6)


   花輪本家 


庭で自転車のブレーキの軋む音がした。戸間口から賢一郎が顔をのぞかせ、高い敷居をヒョイと一跨ぎに越えて土間に飛び込み、

「ああ、分家のおばちゃん。こんにちは」と挨拶をしながら土間から高い框に一気に飛び上がった。

「若けえもんは元気でいいの」

 勢伊はさっき自分がてこずったところを、苦もなく駆け上がってくる賢一郎の敏捷な様子を頼もしそうに見つめた。


 成績は良いのに家の都合で中学校にも行かせてもらえず、小学校を卒業するとすぐに甲府の製菓会社に勤める賢一郎は十八歳になった。製造から販売部に移って県内一円から長野まで出張するようになり、最近すっかり大人びてきた。父の武文のような頑丈な体格でなく、母に似て細形でのっぽの体型をしている。会社に勤めながら中学講義録で独学し、専検(現在の大検)に挑戦していた。勤めに出ても休みには母の農事に手伝うが、今日は蚕の上簇で会社を早引きしてきたとのこと。奥で着替えると、「僕が桑取るから母さん来なくていいよ」と、芙美に声をかけて出て行った。


「あんな良い息子をどうして満州くんだりにやれるもんかい。うちの隆志のように兵隊に取られたのなら仕方ねえが、丸腰で満人(現中国人)の土地を取り上げて入植するのは危険だ。日本の警察隊が匪賊にやられて全滅したそうだ。国民には隠していても店の番頭が東京で聞いてきた」

 勢伊はまた、火鉢の灰を掻きはじめた。鉄瓶の滾る音が一段と高くなった。


「村の議会でも、農民党は満人の土地を取り上げる武装移民だと反対しているそうです」

 芙美は主人の武文から議会の様子を聞いていた。

「それで来年に村民大会を開いて決めることになったんじゃな。村民大会のことは、もう村中の噂になっとる。豊村が始まって以来の大騒ぎになるとみんな言うとる。県庁では警察を使って共産党狩りを先にやるそうじゃ」


 鏡中条村の富屋に時々顔を出して嫁や番頭から世間の様子を耳にしているので、勢伊は世間通だった。

 勢伊が嫁いだ分家の隆志の家では先代精右衛門の頃から隣村の鏡中条で米穀と蚕具を扱う店を開業していた。


「芳江や賢一郎に私の考えを聞かれても確たることが言えず困っているんです。私は主人と一緒ですが、子供たちにはそれぞれの考えがあることですから、無理にどうこうは言えなくております」

「そうじゃろうに。こんな大事なことは迷うのが当然じゃ。いずれ親類が集まって相談することになるし、村じゃあ村民大会で決めることになろうが、武文も村長職を投げうつくれえの覚悟はしておかんとなあー。家を守ることが第一じゃ、日本人にしろ、満州人にしろ気持ちはみんな同じよ」


 芙美が急須の茶殻を捨て新しい茶をさした。白磁の薄手の茶碗に淡緑の色が映えた。勢伊は茄子の漬物を楊枝にさし、口に運んだ。


赤い大地 (5)


   花輪本家 


 昭和十四年、この頃の村長は県知事の任命する官選村長で報酬のない名誉職であった。収入のない貧乏世帯で、村長職を務める花輪の家で芙美の苦労は一通りではなかった。そんな芙美を陰で支えて何にくれとなく気遣いして力になってくれるのが、武文の姉にあたる分家の勢伊であった。


 晩々蚕を飼育する家は少ないが、芙美は少しでも家計を助けようと、そのままにしておくと霜で枯れ落ちる葉を生かし残桑利用の晩々蚕をした。


「さあどうぞ」と茶托に茶碗を載せ、芙美が差し出すと、勢伊は居間の長火鉢の横に寄った。庄屋の家ではいつ来客があってもすぐお茶が出せるよう長火鉢には炭の埋もれ火が用意され、五徳に掛けた鉄びんは朝からしんしんと湯を滾らせていた。

「この家で茶釜の松風を聞くのもあとわずかになってしもうか」

 勢伊は嘆息しながら茶をすすった。


「のう―、芙美さんや、どう思うかね、満州移民でこの家を取り潰して行くだなんてとんでもねえ事でねえすか」

「私も止めたんですが、主人はお上の命令だといって聞いてくれないんです」

「行きたけりゃ一人で行きゃあいいんだ。ご先祖さんからの家を取り潰して屋敷を売って行くこたあねえと思うんだがのう」

「はあー」


「そうじゃろうが、武文は村長としてお上の言うことを聞かねばならねえ立場があるし、芙美さんは主人に従わねえ訳にはいかんだろうが。だからといって気の進まねえ子供たちを連れて行って家をたたんでしもうことまでしなくもいいじゃないかと思うんだがのう」

「主人の言うには分村する家の土地を残る人たちに配分してやり、一戸十町歩の標準農家を作るのが農村省の方針だそうですが……」

 芙美は夫から家を売る理由を聞いていた。


「それはな、理屈じゃあそうすればうまくいくかも知れねえがな、家や土地にゃ代々築いてきた愛着てえものがあるじゃあねえすか。その魂のこもっているものを、いくら国のためとはいえ花札でも配るようなつもりで分けられたんじゃあたまらねえー」


 白髪交じりの髪を古風に結って一年中着物に帯を締めてきちんと生活する勢伊は、老いても威儀を崩さずいかにも大家のご隠居様といった風格がある。勢伊はこのたびの国の方針に不満そうであった。唇をわなわなと震わせ、鉄箸で長火鉢の灰を無造作に掻いた。赤い炭火が転がって鉄瓶の沸く音が高くなった。