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Amebaでブログを始めよう!
お久しぶりです。 
皆さまはいかがおすごしでしょうか。

私は前回の投稿以来、
自分の中にこんなことへの望みがあったの?!と驚くような望みを感じて…
叶えるべくご協力をいただき取り組んでいました。

どんなことであっても自分の望みは自分の望み。
例えそれが怪しいと評価されようと
変だとか宇宙人だとか変態だとか評価されようと、関係ないやと思いつつ、

でも投稿するとなると、
投稿記事として内容的にどうなのだろう…と思えて、
投稿しないままできてしまいました。

それらを投稿するかどうかも決めかねていています…あんぐりうさぎ
ちょっと勇気がいります…てへぺろうさぎ

投稿した際にはどうぞよろしくお願いいたします。

1つのことに突っ込んだ内容なので、
ほとんどの読者さまには違和感を与えるかも…
ということを考えるとこのブログ自体がもう違うのかもしれません。

そんなこんなで考え中です。
本年、お世話になりました!
●今日という今日は


今日という今日は、本当に怒れてしまいました!
プンプン!
信頼できる人に「私はこんなふうに怒れてしまったの、自分がないがしろにされたみたいに感じてね。」とシェアした私です(笑)


シェアするとね、誰かと共有するとね、楽になるのですね。
それだけではなくて、私は幸せ感も起こるのですよ。
怒っている自分でも受けいれてくれる人がいる、というところからくる幸せ感なのかもしれませんね。


このように、怒ったら何らかの手段でそれを表現して、誰かと共有してもらう私ですが、
以前は「怒り」を「出してはいけない!」と思っていたのですよ。
絶対出してはいけない、とまで思っていたと思います。

なので、怒りを感じても、その場でそれを表現することは滅多になかったです。
というよりもなによりも、「自分が怒っている」ということを自分で感じることができませんでしたね。
自分が怒っているのかどうかも自分ではっきりわからない、そんな感じでした。

「自分が怒ったという事実」を自分の中で無意識のうちになかったことにしていたから、自分の怒りが自分で感じられなかったのでしょうね。
それくらい「怒り」を出しちゃいけない、と思っていたのですね。


なかったこと、というのはどういうことかというと、
怒った自分を自分にも他人にもわからないように隠してしまうことです。
怒った自分に気づかないようにする、という感じでしょうか。
うまく言えないのですが、怒っている自分を無意識のうちに闇に葬ることができるようになるのです。
無意識のうちに闇に葬っていたので、
「私、怒りってあんまり感じないよ~」と自然に振舞えていたと思います。

そうなると、頼んでもいないのに「優しい人」などというラベルが、自分に貼り付けられるようになっていったように思います。


でも、葬り去った怒りはそのまま消滅するわけではなくて、どんどんどんどん溜まっていって、「怒り」以外の方法で突然大爆発しました。

「怒り」以外の方法というのは、過食だったり、過剰にスポーツをすることだったり、過剰にいろいろな人と交流して遊んだり、極端なダイエットだったり、過剰なショッピングだったり、過度に人をコントロールしたり、突如として泣き出したり、過剰に勉強したり…何をするにもものすごく勢いがついていたようにに思います。
タバコやアルコールが飲めていたら、ものすごく飲んだかもしれません。

また、「巨大な怒り」となって、もっとも身近な家族を前に大爆発したりしました。
今思えば、大爆発できたのは、家族を信頼していたからなのかもしれません。


人間である限り「怒り」は、誰もが感じる感情です。
なのに、それを感じる自分をダメ認定して闇に葬る一方で、
「怒り」を「怒り」以外の歪んだ形で解放していたのですね。


この続きはまた次回に。

●こうなったらあなたは飛び立っていける!


ある映画監督の書いた本を読んでいて、なるほどと思いました。
そんなことを書くなんて思えないようなタイプの映画監督なので、ちょっと驚きました。


世間的には何の落ち度もない立派な親、何不自由ない家庭、そんな環境で育てられたとしても、地獄を味わう子供がいる。


なぜ地獄を味わうのか?

それは「親の愛」という名の過干渉で、子供は自由を奪われ、行動を制限され、自己を否定されるから。
そして、その過干渉は「親の愛」という素晴らしく美しく見える衣をまとっているから、過干渉(「親の愛」)を嫌だと思っても、「親の愛を否定するなんて自分はなんというヒドイ人間なのだ」というふうに自分をも責めることになってしまうから。
親の愛を嫌だと思いながらも受け続け、与える親を時として恨んだり、親の愛を嫌だと思ってしまう自分を責め続ける。


かつて、私はお母さんと話をしたことがあるのです。
それでわかったこと、私のお母さんは過干渉を「愛」だと思っていたのです。
だから、私に「愛」を与えようと、彼女のもつ時間とエネルギーの多くを私への過干渉に投入していたと。


暴力を振るわれる、というわかりやすい虐待よりもやっかいかもしれない。
虐待ならば子供の側もいつかは「虐待されている」と自覚できるから。
「過干渉することで自由を奪う精神的な虐待」は見えないから自覚しにくいのだ。
自覚できないから檻から出られない。


これを読んで「あっ」と思ったなら、あなたはきっと気づいたのだと思います。
そして、気づいたなら、檻から出て、飛び立っていける!
自分の行きたい場所に飛び立つための力が、自分の中にあることにも気づけるはず。

●いつもここにいるよ!


例えば、
なにか失敗をして「あなた、本当にダメね」なんて言われた日には、とても悲しくなってしまいますね。
失敗したことで自分でも傷ついているのですから!
そして今度同じことをする時、それが思い出されて不安にもなってしまいますよね。
誰だって失敗したくない、誰だっていつでもうまくやりたいですもの。


私はある時まで、何かを失敗してしまったとき、それを批判したり、責めたりしてくる人と一緒の場所に立って、自分をもっと頑張るように仕向けるために一生懸命になる人でした。

頑張ってうまくできるようになって、みんなから受け入れられたら嬉しいじゃない?と思っていたから。
でも、いろんな人の希望に沿うように頑張るのは大変で、続けることができなくなってしまいました。


本当に心が喜ぶのは、どんなときも自分のそばを離れないで、自分が自分の側にいてくれること。
情けない自分のときも、多くの人に賞賛されている自分のときも、どれもあなたらしくていいじゃないのと頷く自分がそばにいてくれること。

いつもそばにいるよ、とときどき自分の心にお知らせ。
つぶやいてみるのです。


どんな自分のときにも「いつもそばにいるよ」と頷く自分、そんな自分の力がいつしかどんどん大きくなって、自分だけじゃなくてあなたの大切な人たちのためにも「いつもそばにいるよ」と頷いてあげられる自分になっていくのではないかな?


⚫︎心の平和はここから生まれる


今日は夕方になってちょっとしたことで私、プンプン怒ってしまったんです。

でも、なんで私いつもは気ににならないようなことで怒ってるの??とふと我に返ったんですね。

そしたら思い出しました!
私、昨夜は台風の影響で暑くて寝苦しくて2時間くらいしか寝ていなかったのと、薬を飲んでいるのにあまり効かずに今日で便秘○日目だということに。

1日がつつがなく終わったからか、自分がそんな状態ということをすっかり忘れてしまっていましたが、そりゃあ、イライラしますよね。



実は、とれたてのヘチマ水を大量にいただいていて、化粧水にする材料を買ってみよう、ヘチマ水が新鮮なうちがいいからと、1.5キロ先の薬局まで小雨の中歩いて買い物にいこうともしていて。

でもなかなか気持ち的に行動に起こせない…当たり前ですよね、体調がそんなだから。
そのうちに雨が本格的に降ってきて、あーあ早く行動してたらよかったのに、なんて自分で自分に言いかけたり…


体と心はつながっていますから、体がしっかりしていないと、私はこんなふうに気持ちがドミノ倒しのようにどんどん倒れていってしまいますよ。

体が心の平和をつくっているなあと感じます。


気づいたらそこから出直せばよい、というわけで、とれたてヘチマ水1リットルを入れたお風呂に入りました!
寝ます。
お休みなさい!