ソ連軍『ロシア人、ウクライナ人』の非道さ、残虐さは他国軍と比べて際だっており、各地で虐殺や強姦(ごうかん)、略奪など悲劇が続いた。
8月14日、満州北東部の葛根廟(かっこんびょう)(現内モンゴル自治区)では、避難中の満蒙開拓団の女性・子供ら約1200人が、戦車14両とトラック20台のソ連軍と鉢合わせした。
白旗を上げたにもかかわらず、ソ連軍は機関銃掃射を行い、さらに次々と戦車でひき殺した。
死者数1千人超、200人近くは小学生だった。
この惨事を第5練習飛行隊第1教育隊大虎山(だいこさん)分屯隊の偵察機操縦士が上空から目撃した。怒りに燃えた同隊の有志11人は、総司令部の武装解除命令を拒否し、ソ連軍戦車への特攻を決行した。
その一人だった少尉、谷藤徹夫は、愛機に妻、朝子を同乗させ飛び立った。
谷藤の辞世の句が今も残っている。
秋元は怒りに震えた。
秋元らの中隊は、ソ連軍の戦車攻撃に備え、中隊を挙げて「布団爆弾」の準備を進めていた。
布団爆弾とは、30センチ四方の10キロ爆弾を背中に背負って地面に掘った穴に潜り、戦車に体当たりをするという「特攻」だった。
「ソ連の巨大な戦車に対抗するには自爆しかない」という上官の言葉に異を唱える者は一人もおらず、秋元自身も「最後のご奉公」との思いで穴を掘り続けた。
「国破れて山河なし 生きてかひなき生命なら 死して護国の鬼たらむ」
敦化(とんか)(現吉林省)でも悲劇が起きた。
武装解除後の8月25~27日、パルプ工場に進駐したソ連軍が女性1700人を独身寮に監禁し
、強姦や暴行を続け、2300人を自殺に追い込んだのだ。
麻山(まさん、現黒竜江省)では8月12日、哈達河(こうたつが)に入植していた満蒙開拓団約1千人が、ソ連軍などに銃砲撃を受けた。逃げ場をなくした団員らは集団自決を遂げ、死者数は4000人を超えた。