九月の日曜日と減価償却
日曜の朝、五時十五分。アラームに起こされたわけでもなく、自然に目が覚めた。まだ街は眠っていて、窓の外は空っぽの道路のように静かだった。豆を挽き、お湯を注ぐと、ケニアの豆らしい酸味が小さなキッチンにふわりと広がる。昔ならレコードでピアノを聴いただろう。でも今は、三年前に買った七十五インチのテレビで YouTube を流す。意外と、これも悪くない。
僕の仕事は数字と関わっている。簡単に言えば、人の数字を覗き込む仕事だ。数字は金だとよく言われるけれど、僕には欲望や不安、あるいは叶わなかった夢の痕跡のように見える。だからだろう。休日くらいは数字から離れていたい。
午後になると、ランニングシューズを履いて池の周りを走る。ウレタン舗装の柔らかさが気に入っている。走りながら、ふと考える。人生も若さも、結局は減価償却に似ている。毎年少しずつ減っていく場合もあれば、突然一気に失われることもある。帳簿から消える資産のように、ある日すっと姿を消す人生もあるのかもしれない。
走り終えると、マンションの一階にある銭湯へ向かう。冷たい水風呂と熱い湯を三、四回往復すれば、それだけで今日を生き切った気持ちになる。水風呂に沈んでいる時と、熱い湯に浸かって吐き出す息の時とでは、頭に浮かぶ考えが全く違う。たったこれだけで思考を切り替えられる場所は、他にそうないだろう。
人はなかなか変われない。環境を変えるのが一番早いけれど、家や仕事を簡単に変えるわけにはいかない。そんな時は、冷と温を行き来するだけでも十分なのかもしれない。小さな環境の変化が、思考の流れを少し変える。ランニングでは漠然としたアイデアが、銭湯ではもう少し形になって現れる。
もしかすると、それが精神の減価償却を遅らせる方法なのだろう。減価償却を止めることはできない。でも、思考の転換という資本的支出を重ねていけば、価値がゼロになる日は少し遠くへ押しやれるかもしれない。この文章を書くのも、その小さな実験のひとつだ。