最近良く周りで聞く言葉で、わたし自身もその言葉の意味を再度深く考える機会がある。
“今ここ。”今帰仁村に住んでいることもあり、“今に帰る”度々受け取るこのメッセージはなんだ?もっと深くみていきたい。今、目の前のこと。
最初はその言葉を聞いた時、私の中で“今ここ”の定義を立てた。“今ここ”は、空間、人、仕事、人間関係、役割、そういったもの全てに意識を向け、一つひとつを丁寧に行うこと、大切にすること。
それが 自分的の“今ここ”の定義だと思っていた。
だけれど最近は目の前のこと、見えること、五感で感じること、それを自分なりに大切にすること。
それが“今ここ”だ、という定義が変わってきている。
もちろん上記の定義も含むなんだけれど、
正確には 上記の定義は狭義に思えて、
もっと広義に今ここをみるようになったのだと思う。今までは、“自分に対しての今ここ”が完全に抜け落ちていたように思う。
もっと自分に目を向けて、今ここを。最近の私の“今ここ”の定義に含んで大切にしている部分は、 “自分の心の声のニーズ”を感じること。いまここの空間を感じる中で今までの“今ここ”を大切にしようと思うのは、頭の声や自分の決めつけた“大切”の定義を頭に言い聞かせて、自分の心は無視した上で、それらを大切にしようとしていたのだと私自身の生活の中で気がついた。気がつくというよりも、気がついているけれど、毎回抜け出せなくて繰り返しているどうしても抜け出せない私の癖。頭で目の前のことや人、今の役割を大切にしようと思って“大切”という言葉に惑わされてそれは 私自身の思考による“大切”を頭で大切にしようと思うことであり、本当の私の心の声、ハートが失われている。本当の心の声、ハートは、“一旦呼吸を整えよう。自分の心身を大切にしよう”“今は自分の好きなことに集中したい。”“こういう体験をしよう。”と思っていても、頭が、“今ここ”を大切するなら、「もっと頑張らないとじゃない?」「みんな大変なのに、私だけ休むのは違うんじゃない?」「私だけ好きなことして幸せなのは悪いんじゃない?」「もっとやることはここであるのに、他の体験をしようと手を伸ばすのは違うんじゃない?」そうやって、もっとこうしなきゃ、って、本当は苦しいのに言葉の定義に縛られて“心”を無視してしまっているこのループ。だから、苦しいんだ。本当に抜け出したくて、ゆっくり文字に起こして書く時間を取る。今ここって私自身の感情や心、身体の声、本当の望むこと、など、見えないことも含めてそれを聴く自分でいてあげること、そしてそれを大切に尊重すること、選択すること。それらも含めて“今ここ”なんだ。目に見えることだけに囚われていると、必ず苦しくなっていく私がいる。“心”、“魂”という、目には見えないけど今ここに必ず存在するもの。それも含めて大事にすると、 一瞬、目の前の出来事や人、今の私の役割を大切に出来ていないのでは?と思う言葉や選択が出てくる。だけれど、それは今ここの定義が私の中で広がったんだ。瞑想、滝行、自然の中で自分自身の心身の声をよーく聞いてみると、自分の中の頑固さや未消化な感情からがむしゃらになって、それを払拭したくて 自分の存在意義の低さと生きることの罪悪感も拍車をかけて無理やり “今ここ”にある、目に見えるものを大切にしなきゃ、と思っている自分がいて苦しさにぶち当たる。現実と精神の世界はきっと表裏一体で、どちらもちゃんと自分で観察してあげて、私も含めてちゃんと心の声、身体の声を聞いてあげて、その2つを認識している自分、その2つを考慮した上での選択を尊重することが、“今ここ”を大切にする、そういうことだ。現実・精神、どちらも自分で見れる状態を日常にした上で、ちょうど良い選択をすること、そしてその選択を周りの人に伝えていくこと。それが合ってるとか間違っているとか、そういうのではなくて、それは私にとっては曇りない真実だから。それが本当に自分が満たされる選択なんだ。