去る2月8日深夜に、私はたまたまホテルニュージャパンの火災のことをWebで読んでいたのですが、
本当にたまたま。
気候がただでさえ乾燥している上に、ホテル館内が異常に乾燥していたとか、
スプリンクラーがただの飾りだったとか、
建物の構造も、可燃材による内層や、一部の間仕切が木製だったこと、防火扉が多数閉鎖しなかったとかで、マイナス面が重なりに重なってあのような惨事が起きてしまったのだと思いました。

建物構造の場合、安全に対しての配慮を怠ってはいけないなあと思います。
スプリンクラー設置も大事です!
加湿も大事です!

あのような惨事があったにもかかわらず、消防法違反の建物がまだまだ続出をしていたそうです。

私自身の体験上ですが、未だに思うのは
一昨年、妊娠中に働いていた官公庁でのことですが、
冬期間、職場内は乾燥しまくっていて、
金属の引き出しを触るたびに静電気が起きて。
こりゃ火事とかになったら火の周り絶対早いよ、と思いながら働いていました。
また、用事でその引き出しに触るの結構怖かったですあせる
湿度が55%以上になってきてからは、静電気のパチパチはなくなりましたがニコニコ

あと、火事って意外と怖いのは、煙から発する一酸化炭素を吸うことです。

ホテルニュージャパンの場合は、火災の凄まじさやそれに逃れようと飛び降りてしまったことで
犠牲者が多かったのですが、
実は火災による死亡者の多くは、一酸化炭素の吸入です。

以下のサイトで詳しいことが書いてありますので、参考までに。
http://www.rescuenow.net/2001/09/post-771.html

ホテルニュージャパンの火災に関しては、Wikipediaにも載っておりますが、
他に下記のような記事をも見つけました。
当時掲載のままですので、時間が止まっております。
今年の2012年からですと、30年前になります。
あれから30年たったのですね。
私が言うのも説得力がないのですが、時間の流れというのは早いなと思います。

元リンク
http://www.ntv.co.jp/don/contents03/2011/02/-29.html

今から29年前。
東京・赤坂で、史上例をみない火災が発生した。
ホテルニュージャパンの火災である。

オーナーは昭和の買収王、横井英樹(よこいひでき)。
当時の高級ホテルブームに目を付け、1979年にホテルニュージャパンを買収した横井は宴会場には豪華なシャンデリア、ロビーにはルイ王朝時代の家具を置き、宿泊客を集めた。

だが、防火対策に対しては、あまりにもずさんなホテルであった。
飾りだけの、スプリンクラー。防火に適さない、空洞の壁。
鳴らない火災報知器。
豪華ホテルの裏にあった、ずさんな防火設備。
従業員たちは防災対策の心得すらままならなかった。
そして・・・1982年2月8日にそれは起きた。
死者33人、負傷者34人を出した未曾有(みぞう)の大火災。
炎と煙に包まれ、逃げ場を失う宿泊客。
熱さに耐えられず、窓から飛び降りて命を落とす者も・・・。

しかし不可能だと思われた脱出を試みた一組の夫婦がいた。彼らはどうやって奇跡の生還を果たしたのか?

そして逃げ遅れた人々の命を助けるため、激しく炎が噴き出す火の海の中に飛び込んだ男達がいた。
東京消防庁・第11消防特別救助隊6人の屈強な隊員達。
隊長は、高野甲子雄(きねお)。

あの日、ホテルニュージャパンで一体何があったのか?

1982年の今日、2月8日は
「ホテルニュージャパンで火災が発生した日」
DSCN5908.JPG
1979年、赤坂のある古いホテルが買収された。
買い取ったのは、昭和の買収王、横井英樹。
彼は、当時の高級ホテルブームに目を付け、宴会場には豪華なシャンデリア、ロビーにはルイ王朝時代の家具を置き、宿泊客を集めた。

だが、防火対策に対しては、あまりにもずさんなホテルであった。

1981年12月、大火災の2か月前の事。
一人の男が、ホテルニュージャパンを訪れる。
彼の名は高野甲子雄(きねお)。
麹町消防署の特別救助隊に所属していた高野は、
逃げ遅れた人を救出する事を専門とした
レスキュー隊の隊長を務めていた。

高野は、ホテルニュージャパンの防災状況を視察に来ていた。

当時、ホテルニュージャパンは、東京消防庁から、防火に対する不備を何度も指摘されていた。
だが、オーナーの横井は、その警告をとことん無視。
高野は、ホテルの中を見て回るが、建物自体にも、問題がある事を発見する。
ホテル内の廊下は、とても複雑に出来ていた。
エレベーターを降りると、Y時型に廊下が伸び、またその先もY時型に分かれている。
初めて来た客は、方向感覚を失いやすい構造になっていた。

廊下や客室を見て回ると、再三の警告にも関わらず、スプリンクラーが設置されていない。
しかも、ホテル全体が異常に乾燥している事に気づく。
高野がそう感じたのも無理はなかった。
ホテルは、経費を浮かすため、湿度を保つ加湿器を止めていたのだ。

これらの事から東京消防庁は、オーナーの横井に再度警告。
横井は、改善を約束し、まもなく、スプリンクラーを設置した。
しかし、信じられない事に、それは水も出ない、ただの飾り。
経費がかかるという理由から配管工事を行わなかったのである。

客の安全性を無視した、横井のこの判断が、後に、大惨事を引き起こす事になる。

そして、1982年2月7日、あの大惨事の前夜。
ホテルニュージャパンには、352人の宿泊者がいた。

その中の一人、山林則雄(やまばやしのりお)さんはこの日、ホテルニュージャパンで結婚式をあげ、夫婦で9階の921号室に宿泊した。

同じく、9階の938号室には、イギリス人のビジネスマンがチェックイン。
男の名は、スティーブン・ディッカー。

彼はイギリスからの長旅に疲れたのか、ホテルに着くとベッドに横たわり、寝入ってしまったという。
タバコを吸いながら...

2月8日午前3時39分。

東京消防庁にホテルニュージャパンの火災を知らせる通報が入る。
高野を隊長とするレスキュー隊6人は、すぐに現場へ直行。
すると国会議事堂をすぎた辺りで、一人の隊員が、異変に気付く。
空が一面真っ赤に染まっていたのだ。
最初に現場に到着した高野たちは、その火災の大きさに愕然とする。
彼らの目に飛び込んで来たのは。
ホテルの高層階のあちらこちから上がる見た事もない、巨大な火柱。
こんな大きな火災現場は初めてだった。

しかしなぜ、鉄筋で出来ている建物がこんなに燃え広がるのか? 高野は不思議に思った。

実はホテルの各部屋を仕切る壁は、ブロックを積み上げ、その周りをベニア板で張り合わせただけのものだった。
燃え盛る火は、そのブロック塀の穴を通じて、隣の部屋へと燃え移っていったのだ。
形だけのスプリンクラーからは、当然水が出ない。
そして、火災報知器もスイッチが切られていたため、全く作動せず、宿泊客は火事に気付くのが遅れた。

9階の921号室に宿泊していた山林さん夫婦も、前日の疲れから、火災に気付かず、ぐっすりと眠っていた。
目覚めた時は、既に部屋中に煙が立ちこめていたという。

山林さんは、妻を起こすと、とっさに窓を開け外の空気を吸った。
しかし、ここは9階。窓から脱出する事は不可能であった。

この頃、オーナーの横井秀樹は、田園調布の自宅でホテルが火災になっていると、連絡を受ける。
この時、横井の、第一声は・・・。
「ロビーにあるアンティークをすぐに運び出せ」。
従業員へ出した指示は、宿泊客の人命救助よりも高級家具を避難をさせる事だった。

一方、高野達特別救助隊は、まず守衛室に向かう。
2か月前の視察で、この建物が複雑な構造だとわかっていた高野は、非常階段の位置を確認しようとしたのだ。
しかし、次の瞬間・・・。
熱さに耐えられなかった一人の女性が、高野達の目の前で飛び降りたのだ。
飛び降りたその女性は即死だった。
隊員達の顔色は代わり動揺する。
だが高野は、気持ちを抑えこう言った。

「落ち着け。」

急いで、非常階段を火災現場の9階まで駆け上がった高野と隊員達。
扉の向こうには、救助を求める人達がいる。
だが、扉は熱で膨張し開ける事ができない。
結局、高野たちが駆け上がったのは、屋上だった。

午前4時。東京消防庁は、23区全域の消防車をホテルニュージャパンに向かわせる。
これにより、消防車、128台が赤坂に集結。
はしご車で、次々と宿泊客が救助されていった。
ところが、山林さん夫婦がいた部屋はホテルの正面からはちょうど死角になった建物の裏側。
はしご車が、入ってこられない場所だった。

ほんの数時間前に、結婚式を挙げたばかりの2人の命は、風前のともしびとなっていた。
その時、2人の前に1本のシーツが降りてくる。
見ると、1つ上の、10階の部屋の窓から一人の男性が、シーツを下げていたのだ。
男性は、韓国人のユン・ジョンクンさん。
彼は山林さんに向かって大声で「敷布(シーツ)!」と叫んだ。
訳もわからぬまま、煙が充満した部屋からシーツを取り出した山林さんは、それをユンさんに向かって投げた。

さらに反対側の窓からも韓国の男性が、シーツを持って出て来た。
男性からシーツを受け取った山林さんは、必死にユンさんの元へシーツを投げる。
ユンさんは、受け取った2つのシーツのはしを、急いで結びつけると、そのシーツをロープ代わりにして、下へと降りていく。
慎重に9階から8階、そして7階へと、たどり着いた。
7階には、火はまわっていないのか?

「大丈夫!」
ユンさんが叫んだ!

初めて表れた、生還への道筋。ここから山林さん夫婦の闘いが始まる。
シーツで作ったロープのある所まで、距離は2メートル。
わずか20センチ幅の窓枠を、歩かなければならない。
それは、恐怖との闘いだった。
足を踏み外せば、30メートル下へと落下してしまう。
おびえる妻を励ましながら、やっとの事で、シーツまでたどり着くと、先に妻を8階まで下ろす。
続いて、自分が妻のいる8階まで降りる。

シーツに命を託し、地上30メートルの宙に、足を踏み出すと言いようのない恐怖に襲われた。
命からがら、7階にたどり着いた妻を、ユンさんが待っていてくれた。
そして山林さんも7階に降り立つと、妻を背負い、非常階段を一気に駆け下りたのだ。まさに奇跡の生還。

その頃、高野ら隊員たちは、ホテルの屋上で救助に奮闘していた。
到着から間もなく、9人を救出。
すると次の瞬間、高野は煙が立ちこめる10階の部屋に人影を発見する。
逃げ遅れた人を一人でも見殺しにはできない。
高野は助け出すことを決意する。
だが、その部屋はすでにフラッシュオーバーが起きる寸前の危険な状態だった。

フラッシュオーバーとは火が隣の部屋に燃え移った時、何の前触れもなく起こる爆発的な火柱。
その瞬間、温度は400度にも達し、一度起これば防火服も役に立たない。

高野はその危険な部屋に自分が入ると決心した。
すると、高野のチームの隊員だった一人の男が高野に言った。
「俺が中に入ります」
チームで最も俊敏な男、浅見昇(あさみのぼる)だった。

命綱をつけ、浅見は屋上から10階の部屋に入った。
すると煙が充満した部屋の奥で倒れた男性を発見。
意識を失っていた男性を、窓側に移動させた。

必死に男性の身体にロープを巻き付ける浅見。
しかしその時、けたたましく響くベルの音がした。
それは酸素ボンベの、残量を警告するベルだった。
酸素が切れれば、浅見の命が危ない。
隊員たちは一斉にロープを引く。

浅見は何とか戻ってくると、かすれた声でこう言った。
「もう一度行かせてください。」

高野は返事をしなかった。
いつその部屋で、フラッシュオーバーが起こるかわからない。
高野は、自ら救助に向かう事を決意する。
そして部屋に降りると、1つ大きく深呼吸をした。   
高野は、すぐに男性を搬送用ロープでしばり、
引き上げるよう、合図を送った。

その時だった。フラッシュオーバーが起きた。
高野は一瞬にして炎に包まれた。
隊員達にロープで引き上げられると、高野は大やけどを負っていた。
しかし彼は言った。

「この人をすぐに病院へ・・・」

ホテルニュージャパンの火災が鎮火したのは
発生から9時間後の事2月8日12時過ぎ・・・
壮絶な炎との戦いが終わった。

亡くなった宿泊客、33人。消防士が救い出した客、68人。

窓から飛び降りて死んだ人もいれば、夫婦で抱き合って部屋に残り、そのまま亡くなった人達もいた。

その日の朝、ホテルニュージャパンのオーナー横井は廃墟と化したホテルの前で、スプリンクラーを設置していなかった事について、赤字のため設置工事が進まなかったなど、終始言い訳に徹した。

防火対策をきちんと行なっていれば、こんなに多くの犠牲者が出なかったであろう。
悔やんでも悔やみきれぬ火災事故。

後日、やけどのため入院した高野の元に、1人のスーツ姿の男が尋ねてくる。
「横井から預かって参りました」
その男は、分厚い風呂敷包みを差し出し、言った。

高野はどなりつけた。

「どれだけ多くの人が亡くなっているのかわかっているのか!
それを持って出て行け!」

横井英樹はその後、裁判でその責任を問われる事になる。
しかし、
「悪いのは私ではなく、現場で適切な対応をしなかった
従業員たちの責任である」
と、最後まで、自らの非を認める事はなかった。

事件から11年後の1993年
オーナーの横井英樹は業務上過失致死傷で禁固3年の判決を受ける。

この火災の後も、ホテルやビル火災が後を絶たない事から、消火栓及びスプリンクラーの設置の対象が拡大されるなど防災に対する意識は高まっていった。

しかし、特別救助隊・隊長だった高野は言う。
「事故を起こすのも人、最後に助けるのも人」

直接の火元は寝タバコだったとしてもここまで大きな被害を生み出したのは
まぎれもなく「火事など起こるはずがない」
という意識から防災対策を怠ったため。
どんなに防災設備を完備してもそれを使う人間が常に「防災・人命救助」という意識を持たなければ意味が無いということをホテルニュージャパンの大火災は物語っている。
この人災を我々は、忘れてはいけない。