3月5日におこなわれた「不登校・引きこもりを考える京都フォーラム」について、登壇した生徒がそのときを振り返っての感想を書いてくれました。
内容をそのまま下に載せておきます。
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先日おこなわれたフォーラムについて、少しだけ振り返ってみよう。
自分の内面についてが多くなるかもです・・・
準備するための会議をするにつれて、少しずつ自分の疑問が増えていったり、消えていったり・・・
ここ一年で自分ってどれくらい変わったのか、比較すると考え方は特に変わってない。
ただ、少しだけ理由づけが上手くなった。少しだけ上手く生きれるようになった気がする。
本質的には何も変わってないのだと気づいたり!
不登校でも不登校じゃなくても自分ってそんなに変わらないや・・・ってまわりに言われて気づいた。
ここ一年で生きる力?自分を理解する力がついた気がする!!
周りに理解を求めてなかった昔より気が楽である。
わかるところだけわかってくれればいい、それ以上は求めないことにしている。
当日、会場に到着してもいつも通り緊張せず・・・とりあえず落ち着いたまま。
こんな緊張感なくて大丈夫かな?と自分で少し心配になるくらい(笑)
これを度胸と言えば聞こえはいいけども、実際は期待してないだけなんじゃないかと思う。
その場、その空間に私は期待してない。
それは昨年のフォーラムの時に大人に喋らされた、転がされた・・・そのような感覚に落ちたからだ。
だからうまく装って喋る・・・
喋りながら考えて言葉にする。自分ってそういうタイプなのか!っていう発見があったり。
なんとなく、満足したフォーラムでした。
自分の話したいことを話せたのが一番だった。
上手く話せたかはまた別の話で(笑)
そろそろ収集つかなくなってきたので、こんなもので・・・
では、またそのうち!
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ふむふむなるほど…
去年は大人に「喋らされた、転がされた」って思ってたんやなー
「当事者が自分を語る言葉を持ち、周りの人がそれを聴く耳を持つ」
というのは大切だと思います。
しかし、その言葉を発するという行為が主体的なものでない限りは、ただ単に周りの人間が当事者を尋問しているのと変わらないのかもしれませんね。
こう考えると、「話す/聴く」という関係にも見えない権力がひそんでいると気づかされます。
だから、「装って」話す。
この生徒は以前、こんなことを言っていました。
─不登校のイメージを暗くしてるのは当事者じゃない。周りの人がそう望んでるから、不登校って辛いっていう話しかできなくなる。ていうか、そういう話をしてあげてる。
これ、強烈ちゃいます?
少なくとも、私にはとても衝撃的でした。
「学校行ってないんや?何か悩んでんの?相談乗るで?」
なんていう言葉は、この生徒にはうっとうしいだけなのかもしれません。
「学校に通っていない」
ただそれだけで、「学校に通っていない」ことが「辛いこと」と変換されてしまう。
そのことがいかに本人にとって嫌なことか、私は考えさせられました。
そして、辛い経験の話を聴くほど、聴いた気になってしまうことの恐ろしさも。
でも今回のフォーラムは、この子にとってそういうことをせずに、そういう関係を築かずに話すことができたんだと思います。
その違いは何か?
それは参加者が聴く耳を持ったのではなく、この子が話す言葉、この子なりの言葉で言うと「自分を理解する力」を身につけたからではないかと思います。
私のフォーラムの振り返りにも書いたと思いますが、こういう姿を見ると不登校の「当事者」は学校に通っていない人たちだけではなく、不登校という現象を通して自分自身を振り返って考える人たちなんだと思います。
だからこそ、説得力のありすぎる生徒たちの生の声、生の姿から、私たちが学ばなくてはいけないんじゃないでしょうか。
またひとつ、生徒に教えられました。(教えられてばっかり)
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