生きること・・・ 真理を求めて

生きること・・・ 真理を求めて

この世に生をうけて、これまで生きてきて、やがて逝くときまで、自らの歩みを振り返りながら、私の想いを綴ってみます・・・

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私がこの世に生まれて、神に与えられた運命の扉を開き
歩み出していった頃、丁度、テレビアニメの放送が
はじまり、日本が戦後の混乱から抜け出して
成長の道のりを歩み始めたことであったようでした。
長屋形式の2Kくらいの借家に両親は住んでいたと
思います。病院で生まれたわたしは、この世に出たとき
産声をあげることができない危篤状態であったそうです。
未熟児で、自分で呼吸のできない状態であったとか
当時病院に付き添っていた祖母や叔母は、
医者から助からないかもしれない覚悟をしておいてと
言われたようでした。
そして、大丈夫といわれるまで、夕方から翌朝まで
待つことになったということらしいです。
当時、保育器に入れるのを母親はいやがって、
服を着たまま体重を計測して回避したとか。
そんな、こともあって、かなり注意しながら
育てられたということです。
赤ちゃんのころは、女の子のによく間違えられたと
いうことでした。
歩くよりしゃべる方が早かったようです。
大事に育てられたこともあって、健康な赤ちゃんの
大会に出ても良いようになったとか。
そんな、なかで、妹が生まれたりしていって、
幼稚園に通うようになりました。
なぜか、両親は、近所の保育園や幼稚園ではなく
少し離れた、幼稚園に通わせます。
そこは、
1872年、聖ヨハネ・ボスコ、聖マリア・マザレロにより創立された。
カトリックの女子修道会であるサレジアン・シスターズを
母体とするミッションスクールの
星美学園付属幼稚園 静岡星美幼稚園(現静岡サレジオ幼稚園)
でした。そこに入園して、3年間学ぶことになります。
その3年間は、
聖母行列、ミサ、バザー、学園祭の発表、劇、先輩との交流、音楽教室、
いろんな思い出のある時期であり、私の基礎となった部分なのかもしれません。
校訓「純潔勤勉」という名の通り、
朝通園時と夕退園時には、マリア様の像に前で、
お祈りをするのが日課でした。
意外と幼稚園の頃の記憶って鮮明に残っているものですね。
マリア様とイエス様に感謝の祈りを捧げていた幼少期の日々は、
やはり私の精神性のベースになっているような気がします。
幼稚園時代、絵画教室に通ったりもさせてもらっています。
通園中に、父が自宅を建てて、引っ越しします。
通園までの距離が、かなり遠くなりましたが、
自転車で、通園バスの迎えがくるところまで、
送り迎えしてもらっていた感じです。
幼稚園で学んだこと、友達との遊びのなかで得たもの
親に連れていってもらったいろんな場所で得たもの
親戚、従兄弟たちとの遊びのなかで得たもの
いろんな経験のなかで、成長していったものが
自分自身の基礎となっているのだと感じます。
幼少期に多くのことを体験し、経験し、
基本となることを学ぶことは、とても大事なことだと
いえるでしょう。
それだけ、親の責任、周囲の大人たちの責任が
重い時期であるともいえるのだとおもいます。



食の問題を考えるとき、必ず出てくる関連する問題として
動物愛護の問題があげられます。

最近話題になった、アカデミー賞受賞したドキュメンタリー映画


「ザ・コーブ」
http://www.thecovemovie.com/
http://www.thecovemovie.com/japanesefiles/the-cove-store-files-final/Cove-home-page-absolute-url.html

も、動物愛護の視点が重い作品といえるでしょう。

食については、この他にも、多くのドキュメンタリー作品があり、


「フード・インク(Food, Inc.)」
http://www.foodincmovie.com/
「いのちの食べ方」
http://www.espace-sarou.co.jp/inochi/
「食の未来」
http://syoku-no-mirai.net/


肉食への疑問を提示しているといえるかもしれません。

イルカの肉を食べるということについても、
鶏、鯨、牛、馬、羊、兎、魚、の肉を食べるのと、
なんら変わりはないということです。
「Why love one, but eat the other?
(なぜこっちは愛してあっちは食べるの?)」
http://kokoro-kotoba.seesaa.net/article/144038624.html


ベジタリアンは、広い意味での菜食ですが、
その中にも、いろんなレベルがあります。


ベジタリアン (Vegetarian)
「健全な、新鮮な、元気のある」という意味の
 ラテン語 'vegetus' からできた言葉。


ビーガン (Vegan)
ピュア・ベジタリアン (Pure-Vegetarian:純粋菜食)
ダイエタリー・ビーガン (Dietary Vegan)
フルータリアン (Fruitarian)
ラクト・ベジタリアン (Lacto-Vegetarian:乳菜食)
ラクト・オボ・ベジタリアン (Lacto-Ovo-Vegetarian:乳卵菜食)


この他にも、ベジタリアンとは言い切れないけど

ペスクタリアン (Pescetarian)、
ペスコ・ベジタリアン(Pesco-Vegetarian:魚乳卵菜食)
フィッシュ・ベジタリアン、
デミ・ベジタリアン(デミベジ)、
セミ・ベジタリアン、
オールモースト・ベジタリアン。

といったレベルでの、みなさんもいらっしゃいます。

それぞれに、想いをもって生きていることにかわりありません。

文化の基礎は、衣食住にあるといえます。
どんな衣食住をしているのかが、その地域の文化の源泉となっていると
いえるでしょう。
そして、その文化の中から伝統が生まれていきます。
また、慣習も生まれていきます。
そして、時代の流れのなかで、伝統も変化をしていきます。
伝統のなかにも、守るべきもの、消えゆくのを是とするものが
あるといえるでしょう。
日本の伝統としての漁業文化には、イルカ漁もあれば、鯨漁もあります。
鮪漁、鰹漁、鰯漁などもあります。
それを、守っていく必要があるのか、それとも時代の記憶として
メモリーに残すだけで充分であり、消えゆくのを是としてかまわないのか
その部分の判断の基準の違いや、想いの違いが、
漁文化については、常に衝突しているように感じます。
ただ、日本は、それらの漁文化が生まれ継承されていた時代は、
それをしなければ、食を維持出来ないという時代であったということも
大きいということを考える必要があるでしょう。
だから、守る必要があったということです。
しかし、今の日本において、生きていける食を、別に確保出来るので
あれば、その殺生の文化は、消えるのは是であるといえると思います。
過去の記録として残しておくことで充分な食文化のひとつであると
いえるのではないでしょうか。
新しい時代のなかでの衣食住をベースに、それを支える文化のなかで
殺生を無くしていけるのなら、それは素晴らしいことだという考えかたが
広まっていくことが重要であるように感じています。
そして、それが出来る環境にあるのであれば、そちらを選択するべきだと
いうことなのだとおもいます。
地球上には、その選択の出来ない環境に生きている人もいます。
その人たちに、殺生を伴う食を止めろというのは死ねというのと同じです。
食の多様性を考えていくにあたり、
そのあたりの理解も、必要なことであるといえるでしょう。

食を自ら選択できる環境にいる人たちが、まず、殺生の食を捨てること。
それが、もっとも重要であり、優先されるべきことだと思います。

私は、ビーガンの考え方には共感しますが、ビーガンではありません。
ラクトベジタリアンです。それが、人としての最低ラインの食文化で
あると思っているからです。

日本における食の見直しは、まず、明治維新前の食の基本に戻ることに
あるように思っています。
明治維新の大きな失敗は、欧米の殺生食の輸入にあったとおもいます。
そこまで、欧米のまねをする必要はなかったのだということです。
焼き鳥や、卵焼き、焼き肉など、殺生食の多くが、
一般的になっていくのは、明治以後のことです。
それ以前の基本は、穀類主食の汁と漬け物の膳食でした。
実は、それで充分であったということなのだと思います。

そして、戦後は、アメリカの余剰食糧(小麦、肉)の消費先として
日本が利用されてきました。その結果が、今の日本の食社会を
つくっているといえるでしょう。
そんな、欧米の食文化などではなく、日本の風土にあった、
日本の食文化を取り戻し、そのなかで、菜食で満たされるように
なった時代の流れにそって、殺生食を無くしていくことが、
新しい日本の食文化となるべきものであるようにおもっています。

また、日本が観光立国を目指すのであれば、世界の多様な食文化を
きちんと把握して、お出迎えできるように、ホテルや旅館、
食堂、レストランは、備えるべきだといえるでしょう。
観光庁は、観光庁の推奨するホテルや旅館、飲食店については、


「多様な食文化・食習慣を有する外国人客への対応マニュアル」
http://www.mlit.go.jp/kankocho/shisaku/sangyou/taiou_manual.html


に、完全対応していることを条件とる必要があるといえるでしょう。
この食に対する多様な文化への対応を含めて、衣食住に関する文化の
多様性、とくに禁忌や忌み嫌うものに関しての対応サービスに
関する世界中の情報を収集して、それに対応出来ているレベルで、
関連する店舗を評価する制度を設けてもよいと思います。
海外の評価よりも、世界で最高レベルの評価として、食の評価基準を
創っていくことが、日本が、観光立国として高い評価を得ることに
繋がっていくのではないかとおもいます。
食品についての規制に関しても、単に安全と衛生だけでなく、
食文化対応の標示の義務づけを行って欲しいと思います。
そうすることで、中東を含めどんな国へ輸出しても信頼の
得られる食品作りをしていけるようになるでしょう。

食文化で、世界をリードする国を目指して欲しい。
そんな願いをもっています。


☆日本ベジタリアン協会
 http://www.jpvs.org/
 http://www.jpvs.org/v-info/IVU/ivunews.htm
☆『Choices for Tomorrow (CFT) / あしたへの選択』
 http://ashitaenosentaku.org/
●菜食主義が地球を救う
 http://itc-matsubara.seesaa.net/article/125096083.html
・世界食糧デー
 http://itc-matsubara.seesaa.net/article/130370222.html
・ベジタリアン・サーズデイ
 http://itc-matsubara.seesaa.net/article/120163884.html
・ベジタリアンとは? なぜ、ベジタリアンなのか?
 http://itc-matsubara.seesaa.net/article/119596834.html
・菜食のすすめ・・・菜食主義とは
 http://itc-matsubara.seesaa.net/article/119005840.html


いわゆる波動、レイキといったヒーリング、
これはスピリチュアルな世界の一部における影響のもので
波動やレイキがあるわけではないのだが、そのような見方を
すれば解釈も可能といったお話、叡智を知らない場合にある
勘違いの典型をみることができる。現象面では
間違ってはいないのだが、その根源の認識が感覚的なもので
留まっているために、感覚的解釈によって誤認を生じるという
流れがみえるもの。よくある話です。


光のかけ橋
http://hikarinokakehasi.ganriki.net/index.htm



解釈が間違っていても、効果が出てくるところが、
スピリチュアルの世界の不思議なところ、
ただ、効果はかなり不安定になることは確かでしょう。
本来は誰でも出きることが、出来ないのは、
それが叡智に基づくものではないから。
感覚で、力を放つヒーリングは、気を付けないと
逆の効果をもたらすことも多々あります。
バットエナジーを惹きつけたり、ブラックマジックに
かかってしまったり、いろいろですね。
物質のは、それぞれに固有の振動数があり、
音波や電磁波といった波との共鳴によって、
いろんな現象がおこることがあります。
それを治療に使う方法も既に研究されており、
大きな成果を出していますが、既存の利権の前に
世に出ないようにされたりもしていますね。


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よくある神と聖霊の世界の混同パターンですが
ベジを奨めているところは良い線いってます。
どうしても、神と聖霊を同一視する方向に流れてしまうのは、
日本においては、神道の流れが根付いているからとも
いえるのかもしれません。


日本スピリチュアル・ヒーラーグループ
http://www.ne.jp/asahi/sph/hg/
スピリチュアル・ヒーリングとホリスティック医学
http://homepage2.nifty.com/sph/sph-hm/index.html


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惜しい、良い線いっっている部分もあるものの
典型的なパターンで見誤っているところが面白いです。
宇宙人の話はとても面白い読み物になってます。
ベジの解釈の間違えは、唯物系の理論家が陥る典型ですが
しかたないでしょう。


スピリチュアルレポート
http://www.h2.dion.ne.jp/~ayan/index3.html


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神の叡智と聖霊の叡智、この宇宙を構成する要素を
どのような視点から捉えるのか、
現代科学により説明される物質世界だけが、
この宇宙を構成している要素ではないということ
そして、自然科学は、この宇宙における物質世界に関する
知恵でしかないということ、
故に、この世界の現象の全てを説明することなど
もともと出来ないものであって、
物質に関するもの以外については、
それぞれの上位の知恵、叡智を知らなければ、
解くことはできないというわけです。
ただ、自然科学が理解できる人と出来ない人が
いるように、聖霊の叡智も、神の叡智も、
理解できる人もいれば、理解できない人もいます。
それは、その人の成長の度合いによって
変わるものであって、仕方のないことであると
いえるでしょう。
そして、知らないからといって、
この世で生きるのに困るわけでもないのです。
ただ、自然科学を知れば、出きることが増えるように
聖霊の叡智、神の叡智をしれば、出きることは
増えることでしょう。
また、知恵を得ることは、同時に責任を担うことでも
あったりします。
ゆえに、知った以上は、成すべきこともまた
出てくるということでもあるわけです。
まあ、結局は、繰り返す輪廻転生のなかで、
いつかは知るべきときがくることでも
あるのですが・・・・・・・・・・・