監督のF・H・フォン・ドナースマルクの努力にたいして敬意を表さねばなるまい。
立派な作品である。映画物語ならではの興奮が味わえる。特に劇作家の恋人が裏切る場面は伏線だけではなく二重三重に裏切る行為なのだという悲しみが襲う。
テーマは明確、人と人とのつながりは国家と人とのつながりを越える…だ。
筆者は、偏差値70の秀才が偏差値40の作品をつくる、あのテの、賞取り狙いのあさましさが嫌いである。マーケティングを斜め読みできる複眼を持ち、世知に長け、ユニオンやエージェンシーを飼いならし(または飼いならされ)、捻りを加えたプロットやキャスティングで集客を狙う二大政党系の製作意図はもっと嫌いである。
ならば、その嫌いな要素から外れる可能性はないのか?
ある。製作過程にいくらでも。むしろ、その過程が複雑に絡みこんでくるのが普通の映画製作の過程であり作品なのだ。
それらの、当初の製作意図にたいするプラスの部分を取材結果から拾い上げて加えてゆく作業が、豪腕でねじふせる強靭さをもった作者ならばそれも良いだろう。
しかし、本作では4年に渡る取材過程で得たものを投入したが、そこからくる登場人物の存在感にプロットが負けてしまっている箇所が散見される。例をあげれば主人公ヴィースラーの他人の生活覗き見フェチな部分が描写不足なところだが、盗聴フェチな部分を掘り下げないのは、任務として行っているからなのか、役の存在感が圧倒したのか、はたまた被取材者にそれらしい人物像が皆無だったからなのかと勘ぐるのは行間を読み過ぎか。24時間盗聴の場面でもう一人の監視者がパンピーの盗聴フェチな役割を体現しており、手当てはなされている。しかしそれはあくまで手当てであって、主人公がもつ氷の表皮の裏という表現には至っていない。
ブレヒトを読み、善き人のためのソナタを聞くところにしても、時間的にクローズアップする手法を用いる必要はなく、淡々と描かれているのは良い。
ならばなぜ、ヴィースラーが変わる決定打もしくは決定的なきっかけがなかったのか?ひとつは主人公が劇作家ドライマンにたいする盗聴作戦にかかる前の、無味乾燥な生活感を描写されていないからである。いや、承知の上で割愛したのか?取材の結果をぶちこんだが故の人物造形にたいする絶対的な自信の表れなのか。
例えば、娼婦と再会した際に盗聴で得た愛の言葉を語るとかの、エピソードを枝分かれさせて主人公の人物像に深味を与える機会にめぐまれていながら、そのほとんどを切った(あえてこう言う)思い切りの良さは評価が分かれよう。
つらつら書き連ねてきたのは構成上とてもよく出来ている部分と俳優の演技、または取材結果に裏打ちされたのであろう自信に満ちた演出で圧倒する部分が交互にやってくるのに戸惑いを感じるのが何とも惜しいからで、それでも立派な作品であるとの私の評価は変わらない。冒頭に記した、からみこんでくるさまざまなものにおおいにゆさぶられたことが想像できる、まさに作者が自身をさらけだしている点で、すぐれた作品であることを賞揚しておきたい。
大きな社会変動の直後、変動前を振り返った作品を意図する際、当時の支配層に正義を見出すことが出来ない故に、パロディや戯画化したコメディか、少年少女もしくは擬人化した動物を主人公にした作品しか作れなかったのは洋の東西を問わない。日本の戦後にも似たような時期があった。その後に出てくる変動直後の、安全地帯に身を置いて皮肉る行為に対する批判、「大人の映画」としての位置づけがなされる作品となろう。
そして、嫉妬せざるをえないのは作品の持つ美しさである。首尾一貫した人格、生き様を貫こうとする登場人物を見るにつけ、小生の矮小さを思い知らされる。そして、変われることも。
立派な作品である。映画物語ならではの興奮が味わえる。特に劇作家の恋人が裏切る場面は伏線だけではなく二重三重に裏切る行為なのだという悲しみが襲う。
テーマは明確、人と人とのつながりは国家と人とのつながりを越える…だ。
筆者は、偏差値70の秀才が偏差値40の作品をつくる、あのテの、賞取り狙いのあさましさが嫌いである。マーケティングを斜め読みできる複眼を持ち、世知に長け、ユニオンやエージェンシーを飼いならし(または飼いならされ)、捻りを加えたプロットやキャスティングで集客を狙う二大政党系の製作意図はもっと嫌いである。
ならば、その嫌いな要素から外れる可能性はないのか?
ある。製作過程にいくらでも。むしろ、その過程が複雑に絡みこんでくるのが普通の映画製作の過程であり作品なのだ。
それらの、当初の製作意図にたいするプラスの部分を取材結果から拾い上げて加えてゆく作業が、豪腕でねじふせる強靭さをもった作者ならばそれも良いだろう。
しかし、本作では4年に渡る取材過程で得たものを投入したが、そこからくる登場人物の存在感にプロットが負けてしまっている箇所が散見される。例をあげれば主人公ヴィースラーの他人の生活覗き見フェチな部分が描写不足なところだが、盗聴フェチな部分を掘り下げないのは、任務として行っているからなのか、役の存在感が圧倒したのか、はたまた被取材者にそれらしい人物像が皆無だったからなのかと勘ぐるのは行間を読み過ぎか。24時間盗聴の場面でもう一人の監視者がパンピーの盗聴フェチな役割を体現しており、手当てはなされている。しかしそれはあくまで手当てであって、主人公がもつ氷の表皮の裏という表現には至っていない。
ブレヒトを読み、善き人のためのソナタを聞くところにしても、時間的にクローズアップする手法を用いる必要はなく、淡々と描かれているのは良い。
ならばなぜ、ヴィースラーが変わる決定打もしくは決定的なきっかけがなかったのか?ひとつは主人公が劇作家ドライマンにたいする盗聴作戦にかかる前の、無味乾燥な生活感を描写されていないからである。いや、承知の上で割愛したのか?取材の結果をぶちこんだが故の人物造形にたいする絶対的な自信の表れなのか。
例えば、娼婦と再会した際に盗聴で得た愛の言葉を語るとかの、エピソードを枝分かれさせて主人公の人物像に深味を与える機会にめぐまれていながら、そのほとんどを切った(あえてこう言う)思い切りの良さは評価が分かれよう。
つらつら書き連ねてきたのは構成上とてもよく出来ている部分と俳優の演技、または取材結果に裏打ちされたのであろう自信に満ちた演出で圧倒する部分が交互にやってくるのに戸惑いを感じるのが何とも惜しいからで、それでも立派な作品であるとの私の評価は変わらない。冒頭に記した、からみこんでくるさまざまなものにおおいにゆさぶられたことが想像できる、まさに作者が自身をさらけだしている点で、すぐれた作品であることを賞揚しておきたい。
大きな社会変動の直後、変動前を振り返った作品を意図する際、当時の支配層に正義を見出すことが出来ない故に、パロディや戯画化したコメディか、少年少女もしくは擬人化した動物を主人公にした作品しか作れなかったのは洋の東西を問わない。日本の戦後にも似たような時期があった。その後に出てくる変動直後の、安全地帯に身を置いて皮肉る行為に対する批判、「大人の映画」としての位置づけがなされる作品となろう。
そして、嫉妬せざるをえないのは作品の持つ美しさである。首尾一貫した人格、生き様を貫こうとする登場人物を見るにつけ、小生の矮小さを思い知らされる。そして、変われることも。