🌟🌟🌟🌟🌟🌟

祈りについてーその7

🌟🌟🌟🌟🌟🌟

 

経典『信仰と情熱』第1章より

 

 

真実なるものは、深いところにその味わいがあります。

 

今は、実によくできた人工のダイヤモンドがあります。

原材料に圧力をかけて本物と同じ硬度につくられた、

ダイヤモンドに似たものがあるでしょう。

 

しかし、外見は、一見、同じもののようであっても、

それを見た瞬間に本物ではないことが分かってしまいます。

それはなぜでしょうか。

 

イミテーションのダイヤモンドは光りすぎるのです。

ダイヤモンドに似すぎているのです。

 

あまりにも直接的な光が出すぎているのです。

あまりにもキラキラしているのです。

 

なぜ、それほどキラキラしているか、

それがイミテーションであるところの理由なのです。

 

本物というのは、深いところから光が出ています。

 

その深いところから出ている光は、

決して、他の人々を挑発し、

他の人々を誘惑し、

迷いの中に引き込むような光ではありません

 

 

 

🌟祈りにおいて、「本物」であるためには、自分の内にある「ごまかし」に気づくことから始まると感じています。

 

 

 

🌟その「ごまかし」は、まず、読経の「調べ」「波長」にも表れると思います。読経の際だけ、声色をつけ、節をつけ、飾りをつける調べ、人に聞かせようとするような調べ、いかにも尊そうに読経しようとする心・・・イミテーションの読経・・・厳につつしみたいものです。

 

 

 

🌟他にも、自分の内にある「ごまかし」は根深く忍んでいます。例えば、『正心法語』ならば、「ここに誓う」が最後の言葉ですが、何を誓っているのかも意識せず、ただぼんやりと声に出してしまう。これが、「ごまかし」だと気づく。イミテーションだと気づく。ということではないでしょうか。

 

 

 

🌟例えば『主への祈り』ならば、「心より感謝いたします」が最後の言葉ですが、ほんとうに心から感謝しているのだろうか、何に対して感謝をしているのだろうか、ということさえも意識せず、ただぼんやりと声に出す。あるいはいかにも感謝していそうな声色をつくる。これこそ「ごまかし」だと気づく。にせものだと気づく。ということではないでしょうか。

 

 

 

🌟心にもないことを口に出すことをもって、「嘘」といいますが、祈りという最も大切な行為において、自覚さえもできずに、嘘をいう可能性がいくらでもありえるということ、この厳しさを常に感じながら、内にはらみながら、読経する。だからこそ、修行となるのだと思っております。そういう意味では一言一句が真剣勝負にならざるを得ません。雑念を出す余裕がなくなっていくのを感じます。

 

 

 

🌟そして、この厳しさを失わず、10年、20年と道を歩むからこそ、「ほんもの」に近づいていけるのではないかと、私は考えております。

 

 

つづく

 

🌟🌟🌟🌟🌟🌟

祈りについてーその6

🌟🌟🌟🌟🌟🌟

 

経典『信仰と情熱』第1章より

 

現れてくるところの法の多様さ、また、さまざまな言葉や行動、

その他の多様な現れ方がくるでありましょうが、

それらに対する疑問・疑念が出てくることもありましょうが、

「しかし、待てよ」と思ってほしいのです。

 

いったん踏みとどまり、

「今、三次元にありて生きているところの自分の理解力において、

いったいどこまでわかるであろうか」ということを、

どうか考えてほしいのです。

 

たとえ、現時点において理解できないことがあったとしても、

それは、魂の成熟が遅れているために分からないということはいくらでもあるのです。

 

 

今、分からぬことであっても、半年たてば分かることもあります。

一年たてば分かることもあります。

遅い人であれば十年もたってから分かる人もあります。

死んであの世に還ってから分かる人もいます。

 

 

しかしながら、真理は真理であり、

たとえ、その声が、思想が、理念が、

九次元から降りてこようと、十次元から降りてこようと、

その高みから降りてきたるものが

三次元の人間にとっては受け止められないものであったとしても、

しかし、それは、その真理を投げかけているところの

高級霊界における責任では一切ないということを知らなければなりません。

 

彼らが我らに合わせるということはないのであります。

われらが彼らについていかなければならないのです。

われらが、彼らの理念、思想を体現するためについていかなければならないのです。

 

このことを間違えて、

「自分自身で理解し、考え、納得する方向にだけ進めばよい」と思っている人は、

残念ながら、この地上世界において小さな神となろうとしているということなのです。

 

それも、

霊的には三次元的悟りしか持たないような

小さな神になろうとしているわけです。

 

この愚かなるプライドというものを捨て去って、

大きく胸襟を開いたときに、偉大なる教えは燦燦と降り注ぎます。

そして、それまで以上の大いなる幸福を感じとともに、

「目が開ける」という経験をするに至るのであります。

 

 

 

🌟『正心法語』などの経文の理解が完成することはありません。この読誦一つをとっても、完成がない、無限の道が開けていることに目覚め、そして、そのことに喜びを感じたいものだと思います。

 

 

 

🌟「『わからない』ということに耐えながら、それでも修行を続けられるかどうか」が『六波羅蜜多』でいうところの『羼提波羅蜜多』(センダイハラミタ)です(経典『釈迦の本心』御参照ください)

 

 

 

🌟「わからないのは、法がおかしい、主がおかしい、あるいはサンガの方針がおかしい」というような思いは、もちろん三宝帰依に反し、天に唾する行為であります。また「わからないから距離を置く」という思いや行動も、三宝から距離を置くということであり、仙人道や天狗道にたやすくつながっていきます。

 

 

 

🌟「わかった」と思った瞬間に、「慢」という魔境がはいります。永遠に、「完全にわかった」という言葉はつかえない。という気持ちで従順さ、敬虔さを保ってまいりたいものだと思います。

 

 

 

🌟いわゆる「敬虔さ」や「従順さ」の美徳が、「盲従」や「思考停止」にならないためには、とにかく素直についていきつつも(経典『君よ、涙の谷を渡れ』御参照ください)考え、考え、考え抜くことが大切です。

 

 

 

🌟「考える」ことをやめたらそれは「盲従」「思考停止」になります。それは「修行を続ける」ことにはなっていないと思います。

 

 

 

🌟しかし己の考えにとらわれて、反対に「敬虔さ」「従順さ」を失えば、上記の主の御言葉のように「小さな、この世的な神」つまり妖怪・天狗の道に堕ちます。「我見 我欲は 過患(わざわい)なり」(仏説『正心法語』のp53「次第説法」をご参照ください)

 

 

 

🌟素直さや、敬虔さ、従順さを保ちつつも、考えることを続けるためには、主の法を学び、サンガの中で学び合い、伝道を通じて、工夫を重ね続ける以外に道はありません。「伝道即学習・学習即伝道」という言葉がありますが(経典『伝道論』等をご参照ください)相手の方にうまく伝えられないということは、学びが足りないということでもあります。伝道で悔しい思いをし、反省を重ねつつ、また再度チャレンジを重ねることが、【慢心への特効薬】ではないか、と実感いたします。

 

 

つづく

🌟🌟🌟🌟🌟🌟

祈りについてーその5

🌟🌟🌟🌟🌟🌟

 

経典『救世の法』p74

 

幸福の科学には、根本経典として、「仏説・正心法語」というものがありますが、

その効き目には、本当にすごいものがあります。

 

今、お寺は数多くあるので、よそさまの仕事の邪魔をしてはいけないとは思いますが、

私が、漢文のお経の読経を聞いて、何らかの霊波動を受けることは、ほとんどありません。

 

お経を読んでいる人も、その内容を、それほど分かってはいませんし、

聞いているほうも、現代人なので、漢文の言葉の意味は分からないでしょう。

しかし、『仏説・正心法語』は、現代人にも分かる言葉で書いてあります。

 

みなさんの場合も、『仏説・正心法語』を拝受して、

「真理の言葉『正心法語』」を読むか、

それを私が読み上げたCDを寝る前にかけるだけでも、

自分に憑依している霊などを外すことができます。

『正心法語』には、そういう「救いの力」があるのです。

 

 

🌟『正心法語』を読誦する際に、その光の力、救済のエネルギーを感じ取ろうと思うことは重要だと思います。従来仏教の経文は問題にならないくらいの力が『正心法語』にあるとお教えくださっています。

 

 

🌟『正心法語』を手にすること、読誦することは「奇跡そのもの」であることを意識しておくのも重要かと思います。従来の仏教の経文、たとえば『般若心経』などは、釈尊が直接に書かれたものではありませんが、『正心法語』は主が直接に霊示にておろされた経文です。まったく位置づけが違うことは意識しておくべきかと思います。

 

 

🌟「CDを寝る前にかける」だけでも憑依霊を外すことができる。とおっしゃっています。ご自宅を霊域護持するためには、『正心法語』をCDでも流しておくことはとても大切です。

 

 

つづく

🌟🌟🌟🌟🌟🌟

祈りについてーその4

🌟🌟🌟🌟🌟🌟

本日は、祈りの前の段階、「精神統一」についてです。ご参考になれば幸いです。

 

 

経典「大川隆法初期重要講演集②『人間完成への道』」第4章「八正道の再発見」

 

みなさんは、じっと考えるということができますか。

 

何かについて考えるということができますか。

 

 

いつも何か、手を動かしたり、目を動かしたり、耳を動かしたり、

 

何かしていないといられないのではありませんか。

 

 

沈黙に耐えられない。一分も耐えられないのです。

 

 

何か聞いているか、見ているか、しゃべっているか、何かしていないといられない。

 

こういう人は、みなさんのなかにそうとうの数、実はいらっしゃるはずなのです。

 

 

それは、頭が「考える」ということにまったくなじんでいないのです。

 

 

何か、とにかく”振動”していないと収まらないだけなのです。

 

 

それは「考えている」のではなくて、実は反応しているのです。

 

 

泥水がかき混ぜられたあと、しばらくすると次第しだいに幾層にもなって沈殿していくように、

 

忙しく動いていた思いというのが次第に沈殿してきます。何層にもなってきます。

 

 

 

🌟祈り前の準備として、あらかじめ「何もしない」静寂の中に自分をおく。ということが大切だと思います。きちんと祈りをしようとすれば、坐ってすぐには、なかなか始められません。まず精神統一をしてこそ、祈りには入れます。時間ギリギリにすべりこんで、呼吸も整えずに祈り出すというのは、どうしてもやむを得ない場合はいざしらず、いつもそうであっては、祈りは深められません。

 

🌟沈黙に耐えられず「いつも何か、手を動かしたり、目を動かしたり、耳を動かしたり~」という現象は、実は、支部・精舎、各所の礼拝室でも、かなりの方に散見されます。(おもしろいのは、足を動かしている人もけっこう多いことです笑)バッグをさわってしまう、ハンカチをさわってしまう、髪の毛や顔をさわってしまう、ためいきをついてしまう、びんぼうゆすりをする、など(笑)祈りの最中で(無意識に)だと思いますが、それをやってしまう方が、多数おられます。それは「精神統一した状態」ではありません。そして、自分をよくよく観察しておかないと、そのクセは治せません。無意識にでてしまうのです。

 

 

🌟最初の拝礼から最後の拝礼に到るまでの間、経文をあげおろしたり、起立し着席する動きが発生しますが、これも「最低限」の動きを行って、「ガサゴソ♬」とならないよう、あらかじめ、の準備をしなければなりません。祈りが始まる前に、完了させておく必要があります。

 

 

🌟経文を読誦している時だけが、祈りの時間ではありません。最初の拝礼から、最後の拝礼に到るまで、精神統一をし続けようとすると、祈りは深まります。それこそなれないうちは、祈りの後にヘトヘトになってこそ本物かと思います。経文と経文の間の時間や、導師が奏上している時間、たちあがって、再度坐った後、などに、気を抜いて禅定を崩してしまう方は、とても多いものです。ここで違いがでます。1時間程度の精神統一に慣れていると、崩れることがなくなっていくと思います。

 

 

🌟何もしない。という精神統一の状況をつくると、気を失い、寝てしまう、という場合もあります。これは日ごろの禅定の訓練と、体力づくりによって克服できます。寝てしまわないためには、「ボーっとしない」ための、適度な精神的緊張感と、それを支える体力が必要です。姿勢が悪くて、猫背になったり、首が前に傾いてしまう方も、最後まで目覚めていることは難しくなります。背筋を伸ばすのは重要です。

 

つづく

🌟🌟🌟🌟🌟🌟

祈りについてーその3

🌟🌟🌟🌟🌟🌟

 

経典『初めての仏法真理』p202

 当会の経文の場合は、全部、現代語で書いてあるため、それを聴いていると、悪霊にも、ある程度、その意味が分かります。また、読んでいる人の方も、意味を分かって読んでいるので、効き目は非常に大きいのです。したがって、『正心法語』は霊症系の病気にも効果があります。霊症が原因の病気は、病気全体の七割から八割ぐらいあるでしょう。はっきりとした数字は分かりませんが、三分の二は超えていると思われます。しかし、悪霊の憑依が原因の病気であれば、『正心法語』で悪霊を飛ばすことによって、ほとんど治せるのです。『正心法語』に書いてある真理を理解して悟り、それを読誦する修行をしていれば、霊性系の病気はだいたい治ります。

 

 

 

🌟『正心法語』の意味を、自分自身が、どのくらい分かっているのか、ということを、つくづく考えてみる。その価値は深いと思います。

 

🌟日々、「その意味を理解しよう、悟ろう。」と思いながら読誦してみてはいかがでしょうか。

 

 

🌟「(悪霊が)意味を理解できないと効き目が薄まる」つまり、「その1」でも確認いたしましたように「朗々と節をつけて経文を読む」のは【悪霊が理解できなくなる】からだめなのだ。というところとつながります。

・もちろん自分を飾ろうという心に悪霊が巣くうという意味もあります。

 

🌟経文の言魂を心で描きながら、意味を「心に映しながら」読誦することがとても大切です。

 

 

🌟『正心法語』ならば冒頭の、「大宇宙に光あり」とはどういうことか。と、この一言だけでも、例えば『太陽の法』第1章や、『永遠の仏陀』最終章などでお教えくださっている内容が心によぎるわけであります。

 

 

🌟すぐにはできませんが、全編にわたって、しっかりとイメージが描けるようになることを「目標」にして、何年もかけて、教学の精度をあげ、磨きこんでいくことも大切かと思います。

 

 

つづく

祈りについてーその②

 

『真説・八正道』第9章「正定」p307より

 『正心法語』は、言魂でできているため、光の波動が非常に強いからです。『正心法語』のなかの言葉すべてがそうです。同じ日本語ですが、言葉の響きと配列によって、光のリズムが出てくるのです。ちょうど和音のようなもので、言葉の配列によって、一定の信号になり、天上界への合図が出ているのです。『正心法語』を読んでいる人を霊視すると、口から光の玉が出て行っている姿が明らかに視えます。

 『正心法語』は、ご存じと思いますが、仏陀の生命体の言葉です。ですから、『正心法語』を読むことによって、幸福の科学の中心的な光を引いてくることになり、力がでてくるのです。 幸福の科学にはいろいろな教えがありますが、中心にあるのは、やはり仏教的精神です。それが根本にあるので、『正心法語』を読むことによって、そこに光の回路ができてくるのです。そういう意味合いがあります。

 

 

(上記の御教えをもとに、こう考えてみたらいかがでしょう?)

 

 🌟せっかく主がこのように教えてくださっているので、実際に読誦するときには「口から光の玉が出ている」イメージを持つとよいと思います。

 

 

 

🌟「仏陀の生命体の言葉」が、なぜ、自分の口から発せられるのか、そのようなことがなぜ可能になったのか、その「奇跡」が、読誦のたびに起きていることをヒシヒシと感じながら読誦するべきであると思います。決して惰性やマンネリ感をもって読誦するべきではなく、威儀をただし、精神を統一して読誦するべきだと思います。

 

 

 

🌟仏教的精神、つまり、七色を統合した、「主の黄金光線の」光の回路が自分のうちにできるイメージも大切です。「自分は何色です。」という自己認識で止まっている方がたまにおられますが、幸福の科学の信者となり、主に帰依している以上、私たちは、すでに黄金光線の中に組み入れられている。ことを、主はお教えくださっています。(御法話『情熱からの出発』下記参照)私たちは、そのことをハッキリと自覚するべきであり、それを日々、霊的に確認することが、この『正心法語』の読誦という行為の意義でもあると思います。

 

 

 

《ご参考》御法話『情熱からの出発』より

 

「この幸福の科学を中心とするところの人類幸福化の運動は、この七色光線の中心であるところの金色光線「黄金の光線」といってもよい、この仏教的なる色彩を持った中心光線の集まりであるのです。ここで三帰誓願者になっていく人たちは、この「黄金光線」の系統の中に入るのです。その魂系団の中に組み入れられます。はっきりと入るのです。」

 

つづく

◆◆◆◆◆◆◆

🌟『不滅なるものへの挑戦』に学ぶ:その18

◆◆◆◆◆◆◆

p72

2 なぜ学問の対象から霊性を外す流れが起きたのか

精神的なものと肉体的なものを分けて考えたデカルト、カントの流れ

 

 

 

霊的な体験をしたという人、

あるいは、霊的世界の実在を語ろうとする人

信仰ある人に対して

「おかしい人」「知力が弱い人」「だまされている人」

というようなレッテルを貼ろうとするのが

現代にはびこっている、唯物論的な考え方ですが、

 

だからこそ、今世、主は、東大法学部卒業~世界的な商社マンとしてのキャリアを創られて

その上でなお、霊的世界の実在を伝道するべく、幸福の科学を創られています。

 

つまり、現代的に、一流とされるほどの知力、判断力、仕事能力がある人が

霊的世界を訴えている。ということで、

上に書いたような、唯物論の偏見を打ち砕こうとされているわけですね。

 

「この世的な意味では、あらゆる面で、頭が”いってない”ことを証明する前半生をだいぶさせられました。」

というふうに述べられています(74ページ)

 

 

これは、私たち弟子にとっても、大切なポイントで、

幸福の科学の信用力、幸福の科学の伝道力を高めるためには

私たち一人ひとりが、

「頭が”いってない”人である」どころか

「偉大なる常識人」であることを、

周囲の方々に、示していかねばならないのです。

 

しかし、だからといって、

現代社会にはびこる、唯物的な”常識”

カッコつきの”常識”に飲み込まれてもいけませんから、

この中道を、いつも意識しておくことは肝要なところかと思います。

 

 

「宗教者は、知力が弱い」とか

「信仰者なんて、頭がお花畑の人たちだ」とは

ぜったいに言わせない!という決意の下に、

仏法真理の学びを日々磨かねばなりませんし、

同時に、世間解も大切となってまいります。

 

世間解は磨きますが、

世間に迎合してしまうわけでもなく

愛と勇気でもって、

この世の迷妄を、切り拓かねばならない。

感情的にならず、

理性的、論理的に、

言葉でもって相手の迷妄を打ち砕いて

導いていく。

これが大切なことであると思います。

 

 

 

この御説法では、この後、スウェーデンボルグや、カント、そしてルソー、デカルトという人物の例を挙げられています。

現代の教育者であれば、大学の教職課程で学ぶであろう

教育哲学の学問的な流れの根底にある考え方を

ほんとうにわかりやすくお教えくださっています。

「頭がいっていない」証明でもありましょう。

 

 

そのなかで仰っていることは、

霊的な世界があることを知ってはいたが、学問の対象にはしない。

いわゆる「霊肉二元論」の方向に、

学問、そして教育が、向かっていったことに対するご指摘です。

 

先にされている、体験談の具体的な話とは異なり

やや、思想的、歴史的な話になっています。

 

抽象的な話には違いありませんから、やや難解な話ではありますが、

これも、

先に具体的、体験的な話をされているが故に、

ビシっと、決まっていく!

 

そのような御説法の流れになっていると思います。

 

つづく

 

🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟

Focus on Load El Cantare

時代は今、主エル・カンターレ

🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟

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🌟『不滅なるものへの挑戦』に学ぶ:その17

◆◆◆◆◆◆◆

p71

私の本は創作で書ける内容ではない

 

一般の方が50名おられるという中での御説法ということで

主が実際に体験された、小学校5年と高校1年の教諭の話をされた上で

ようやく、この、主、ご自身の体験の話をされています。

 

ここは、前回も書かせていただいたように、

いきなり、ご自身の話をされるのではなく

おそらくは聴衆にも親しみがわくだろうと思われる、

実体験としての、一般の教育者の話を

先にされておられるところに

御説法の妙があると思います。

 

霊示をうけられるようになって、29年(当時)

立宗して24年(当時)、

著作は600冊超(当時)

 

というふうに、ソフトではありますが、

しっかりと、明確に

その積み重ねて来られた実績を示されています。

 

「創作で書ける内容ではない」

ということをおっしゃっているわけですね。

 

このあたりは

私たちの伝道においても

しっかりと主張し、伝えられるようになりたいものだと思います。

 

 

「弟子は、その”答え”のところだけを、ただオウム返しで言う場合があって、これに納得しない方がけっこういる」経典『自分を鍛える道』228ページ

 

・・・この御言葉を、思い出します。。。

 

 

「(*'ω'*)霊界はあるといったらある。(*'ω'*)あるに決まっている。(*'ω'*)とにかく、あるのよ!」

これしか言えない。みたいな感じでしょうか💦💦💦

 

 

そして続いて、

真実か否かは、100% or 0%であって、五分五分の真理というものはない、

つまり、霊界は「半分あるけど半分ない」みたいなことは

ありえない。

ということをおっしゃっています。

 

極めて明確、理性的で論理的です。

 

(*'ω'*)この言い回しも

伝道で使えるところだなぁと思います。

 

やわらかい表現をされてはおられますが、

 

要は、「ある」か「ない」か

ということを、おっしゃっておられまして

 

「あなたはどちらをとるのか」

と、実は、聴衆に、詰め寄っておられる箇所だとも言えますね。

 

このように、

おしたり、ひいたりしながら、聴衆の心を開き、

真理をなげかけていかれる

伝道のお手本、御説法の模範そのものだと

思う次第です。味わい深いですね♪

 

つづく

 

🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟

Focus on Load El Cantare

時代は今、主エル・カンターレ

🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟

 

 

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🌟『不滅なるものへの挑戦』に学ぶ:その16

◆◆◆◆◆◆◆

p69

高校の古典の先生から聞いた、不幸が続く家で起きた怪しげな話

 

小学校5年生の話に続いて、次は高校2年生の時の教諭のお話しをされています。

 

この先生については、『小説 若竹の時代』の135ページにも登場しています。この小説では、「古井先生」というお名前になっていますね。すこし抜粋しておきましょう。

 

「一高には古井先生という古文の先生もいた。彼は生長の家の信者だった。鉄の鍋に水を満たして、病人のいる部屋の四隅を回ると、ある場所だけで、ぐつぐつと煮立ってきたという神秘体験を、古典の授業の中で語っていた。古文には、霊的な話が多いので、やりやすかったのだろう。霊現象の存在を伝えたかったのだろう。だが、古井先生に、竜二が何度か解釈の問題を訊きに行ったが、一度も答えられなかった。」

 

このエピソードを、直前の唯物論の女性教諭の話の次に展開されています。

 

それによって、主は、

 

・教育者でも信条によって様々であることや、

 

・それぞれの教諭の心の中にあった思いの違いをくみ取っておられること

(女性教諭は「親切心であったろう」古文の先生は「霊現象の存在を伝えたかったのだろう。」

 

・昔は霊現象が身近にあったこと、などを織り込まれつつ、

 

この御説法時に会場におられた50名ほどの一般の方に対して、

いきなり霊的世界の真実を、押し付けるわけではなく、

客観的、理性的、フェアな立場でお伝えされようとなさっていることが分ります。

 

この御説法は、教育系の経典の御講義でもあり、教育のあり方がテーマでありますから、

おそらく聴衆にも教育関係の一般の方が多くおられたのではないでしょうか。

 

実際に主の学生時代に出会われた教育者の話をされることで、

その方々の、「心を開かれている」のだと思います。

 

その上で、主は、ご自分の霊的な体験をなされています。

つまりは、いきなり、ご自分の霊体験をもってこられず、

聴衆の共感を得られるように、

教育現場の実例を先に挙げられていることが

一つのポイントではないかと思う次第です。

 

つづく

🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟

Focus on Load El Cantare

時代は今、主エル・カンターレ

🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟

 

 

◆◆◆◆◆◆◆

🌟『不滅なるものへの挑戦』に学ぶ:その15

◆◆◆◆◆◆◆

 

p65

小学生のとき、学校の先生から霊に関する話を「非科学的」と問い詰められた

 

ここでもおっしゃっているように、『若き日のエル・カンターレ』にも書いてあるエピソードです。86ページですね、

こちらには小学校5年生の時であることが記載されています。

 

この『若き日のエル・カンターレ』には、御幼少のエピソードや、善川顧問の話もでておりますし、並行して学んでおくと、

奥行きがでてくると思います。ぜひご再読ください。

 

 

ここで、わたくしがポイントだなぁと思うのは、

66ページの後ろから5行目です。

 

「霊的なことをいうのはおかしい。」といって注意をしてきた

日教組の活動家であった女性の教諭のお話しですが、

その、教諭の気持ちを推し量っておられる言葉があります。

 

「向こうは、おそらく親切心はあったかなとは思うのです。」と。

 

しかし、実体験をしているから。というお話しの運びになっています。

 

 

霊的なものを否定する。これは間違っておりますけれども

しかし、頭から否定するのではなく

相手の親切心もちゃんとくみ取っておられる。

 

くみ取ってはおられますが、

「実体験である」ということで反駁されておられ

相手の言い分には承諾しなかった。

 

 

相手が先生で自分がまだ小学校5年生ですから

立場の違いを考えると、のみこまれそうになるのではないかと思いますが、

きちんと反駁はされておられますね。

 

 

つまりは、

頭から女性教諭の主張を否定して、やりとりするわけではなく、

しかし、相手の間違った主張に飲み込まれてしまうのではなく

 

あくまで「自分の体験からすると」という主張をなさっている。

同時に、相手の親切心も、きちんと受け止めている。

 

 

非常に理性的ですし、フェアで、論理的ですね。

 

このあたりが、

50名の一般の方を前に

伝道説法をなさっているが故の

微妙なニュアンスかもしれませんし

 

私たち弟子にも示してくださっている

奥行きの深さ、でありましょうし、

 

どうしても信仰に関しては激しくなってしまったり、

反対に

相手の間違った主張に対して

だまって何も言えなくなったり。

 

ということの多いわたくしたちが

学ぶべきところは

とても大きいのではないかと感じます。

 

 

つづく

🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟

Focus on Load El Cantare

時代は今、主エル・カンターレ

🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟