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祈りについてーその7
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経典『信仰と情熱』第1章より
真実なるものは、深いところにその味わいがあります。
今は、実によくできた人工のダイヤモンドがあります。
原材料に圧力をかけて本物と同じ硬度につくられた、
ダイヤモンドに似たものがあるでしょう。
しかし、外見は、一見、同じもののようであっても、
それを見た瞬間に本物ではないことが分かってしまいます。
それはなぜでしょうか。
イミテーションのダイヤモンドは光りすぎるのです。
ダイヤモンドに似すぎているのです。
あまりにも直接的な光が出すぎているのです。
あまりにもキラキラしているのです。
なぜ、それほどキラキラしているか、
それがイミテーションであるところの理由なのです。
本物というのは、深いところから光が出ています。
その深いところから出ている光は、
決して、他の人々を挑発し、
他の人々を誘惑し、
迷いの中に引き込むような光ではありません
🌟祈りにおいて、「本物」であるためには、自分の内にある「ごまかし」に気づくことから始まると感じています。
🌟その「ごまかし」は、まず、読経の「調べ」「波長」にも表れると思います。読経の際だけ、声色をつけ、節をつけ、飾りをつける調べ、人に聞かせようとするような調べ、いかにも尊そうに読経しようとする心・・・イミテーションの読経・・・厳につつしみたいものです。
🌟他にも、自分の内にある「ごまかし」は根深く忍んでいます。例えば、『正心法語』ならば、「ここに誓う」が最後の言葉ですが、何を誓っているのかも意識せず、ただぼんやりと声に出してしまう。これが、「ごまかし」だと気づく。イミテーションだと気づく。ということではないでしょうか。
🌟例えば『主への祈り』ならば、「心より感謝いたします」が最後の言葉ですが、ほんとうに心から感謝しているのだろうか、何に対して感謝をしているのだろうか、ということさえも意識せず、ただぼんやりと声に出す。あるいはいかにも感謝していそうな声色をつくる。これこそ「ごまかし」だと気づく。にせものだと気づく。ということではないでしょうか。
🌟心にもないことを口に出すことをもって、「嘘」といいますが、祈りという最も大切な行為において、自覚さえもできずに、嘘をいう可能性がいくらでもありえるということ、この厳しさを常に感じながら、内にはらみながら、読経する。だからこそ、修行となるのだと思っております。そういう意味では一言一句が真剣勝負にならざるを得ません。雑念を出す余裕がなくなっていくのを感じます。
🌟そして、この厳しさを失わず、10年、20年と道を歩むからこそ、「ほんもの」に近づいていけるのではないかと、私は考えております。
つづく