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御生誕70周年まで

あと19日

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🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟

限界突破の喜びーその3

🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟

 

昨日に引き続いて、経典『幸福の法』より

「限界突破」についての主の御言葉を拾ってみます。

 

経典『幸福の法』第1章「不幸であることをやめるには」より

 

p65

魂の傾向性を見れば、

「たぶん、こうなるだろう」

という予想がつくのです。

そういう意味で、

運命はあります。

 

しかし、

その運命を超える方法もあります。

 

すなわち、

研究心を持って、

自分を観察し、

他人を観察し、

 

その魂の癖や傾向性、

長所・短所を緻密に分析しながら、

「自分を変えていこう、いまの自分を脱ぎ捨てていこう」

と思っている人は、

運命が変わっていくのです。

《中略》

 

 

自分の欠点のなかから

長所を開発し、

 

長所のなかから

次の失敗の種を発見することです。

 

それによって、

長く続く成功を

つくりだしていく必要があります。

 

p68

人間は、可能性としては無限です。

ただ、魂に傾向性があるために限界が出るのです。

 

 

🌟「自分の魂の傾向性が、自分の限界をつくっていること」に「気づく」ことが大切だと思います。

 

🌟その傾向性は、過去の幾転生でつけてきた癖ですし、今世もまた同じように、ものの見方考え方、思いや行動にあらわれてきています。

 

🌟その傾向性は長所でもあり、短所ともなりえます。

 

🌟自分と同じように、他の方々もみな、それぞれの傾向性を持っています。素晴らしい所、素晴らしくないところ、よくよくそれを「観察する」ことも大切です。

 

🌟傾向性を粘り強く修正する努力を、習慣づけていくことによって、常に新しい自分を創って限界突破していくことができます。

 

 

🌟そのためのエネルギーこそ、信仰の力であり、主の法の力です。幸福の科学基本教義の「愛と知と反省と発展」の四正道の力であり、主が御創りになられた「限界突破研修」のテキストともなっている『発展思考』『常勝思考』『ダイナマイト思考』『繁栄思考』の力です。

 

つづく

 

 

🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟

限界突破の喜びーその2

🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟

 

経典『幸福の法』p53に「限界突破のとき」という見出しがあるのはご存じでしょうか?いかに抜粋してみます。

 

限界突破のとき

 

人生には悩みや苦しみはたくさんあるでしょうが、

それは実際、とてもありがたいことだと

思っていただきたいのです。

そのありがたさをしみじみと

分かる必要があります。

《中略》

失敗の多い人生を悔やむ必要はありません。

失敗のなかには、

つぎの創造の芽、発展の芽が、

必ず隠されているのです。

この自己認識の変更、拡大、発展こそが、

実は魂の成長なのです。

この自己認識の変化こそが、

実は魂としての成功であり、

それを得るために、

肉体を持って、この世に生まれ、

赤ん坊から何十年もかけて大きくなり、

年をとって死んでいくのです。

 

「自己認識の変容こそが、実は悟りの正体である」

ということを知らなくてはいけません。

 

自己認識の変容というのは、ひらたくいえば、

(*'ω'*)「あれっ?わたしって、こういう人間だったんだ!」

となることですね。

もちろん、いい意味で。です。

 

そうなるためには、ひらたくいえば

「一生懸命に、必死になって生きる」

ことが必要だと思います。

 

ばくぜーんと、なんとなーく生きて

新しい、素晴らしい自分を発見はできませんものね。

 

 

悩みや苦しみを乗り越えるときに

あるいは発展的に自分に目標を課してそれを乗り越えるときは

必死になって日々を生きる。時々刻々を生きる。

だからこそ、

新しい自分を、自分で見出せるのだ。

ということかと思います。

 

 

日々、新しい自分を発見できるように、

主から与えられた人生を、大切に生きながら、

学習、伝道、反省のサイクルを回してまいりたいものですね♪

 

つづく

💖💖💖💖💖💖💖

御生誕70周年まで

あと21日

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🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟

限界突破の喜びーその1

🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟

 

私事ながら、我が支部では、先日、法人『限界突破祈願』を奉納いたしまして、

目下、主の繁栄の霊流を賜り、ヘルメス神の御指導が臨んでいるところですので、

御生誕祭までは、限界突破をテーマに書かせていただこうと思っております。

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

さて、おそらく、このブログを読まれている皆様ならば、

すでに、毎日を、精一杯に生きておられると思うのです。

必死で毎日の努力を重ねておられて、

その真っ只中において、

「限界突破!」という言葉を聞けば、

正直、さけて通りたいかも・・・

という気持ちが生じるのもよくわかります(笑)

 

 

(@_@;)「いや~これ以上がんばれませんので💦

 

(@_@;)限界突破は、もう、したくないかも・・・」

 

という気持ちですね(笑)よくわかります。

 

 

特にお仕事をされているようなかたは、

どうしても「限界突破!」という言葉のイメージに

この世的なノルマ達成とか、

営業目標達成のようなイメージを描いてしまいがちであります。

はちまきをして、グラフがあって、

よしゃ!限界突破じゃ~!みたいなw

 

 

 

しかし、

ここで、もう一度、

思い出したいと思いますのは、

 

 

 

🌟「私たちは、すでに何度も何度も限界突破してきた魂たちなのだ。」ということ、です。

 

今世だけではなくて、

過去世において、

幾転生において。

 

「魂の限界突破」を、しつづけてきたのが、

私たちではないでしょうか?

 

私たちの魂の歴史は、

限界を突破してき続けてきた

その歴史だと言っても

よいのではないでしょうか?

 

 

たとえば、いま、私たちの支部では

💖伝道の限界突破をしようとしています。

 

もっと幸福の科学の教えをひろめたい。

エル・カンターレ信仰を広めたい。

「でも、なかなか、思うようには拡がらないなぁ。。。」

という限界の突破ですね。

 

でも、よくよく考えてみれば、

こういう「伝道の壁」って、

過去世でも、

似たような体験をしていると思うんですよね。

 

過去世において・・・

キリスト教においても・・・

仏教においても・・・

あるいは、その他でも・・・

 

例えば、キリスト教ならば、

ローマの国教になるまでは、

実に392年の歳月がかかっています。

その間、弾圧され、

迫害されつづけてきた。

殉教者ばかりです。

 

また、仏教においても、

釈尊の御帰天後しばらくまでは

栄えておりましたが

 

500年ほどたった後から急激に衰退し、

かなり伝道に苦労していますし、

「不殺生」の戒を護るがゆえに、

他宗教との争いで、かなりの死者も出ています。

インドから中国、

中国から日本へと伝来する際には、

「言語の限界」「翻訳の限界」というのもありました。

 

さらには

聖徳太子が日本で仏教を広める際に、

国内で争いが起きたのもご存じかと思います。

 

その後も、時代が下り、

翻訳を繰り返すうちに

いよいよ本来の釈尊の御教えが

わからなくなってしまう

という限界ができましたし

 

それを突破するために、

命をかけて入唐求法される僧侶もおられました。

 

さらには、

仏教を弾圧する動きも、

日本の歴史上なんども起きています。

 

このように

さまざまな限界を乗り越えつつ

 

その経験を通して、

信仰を磨き、

魂を鍛え続けてきたのが

私たちエル・カンターレの弟子の

今までの歩みでありました。

 

これからもそうでありましょう。

 

 

よくよくそのことを考えれば、

限界を突破する。

というのは、

「自分自身が鍛えられ、成長していくこと」と

同じということがわかります。

 

あるいは、

「過去世で、限界突破してきた、

その智慧を思い出し、

現代の人生にも応用していく」

(般若波羅蜜多)

ということにもなるかもしれませんね。

 

 

自分が成長するまでの途中は、

悩んだり苦しんだりもしますが、

 

成長したことを自分でも確認できたときの、

魂の底から湧き上がるような喜びは

他には代えがたいものがあります。

魂の成長の喜びですね。

 

主は、過去においても、

私たちをそうやって育てて来られましたし

今も、そして未来においても、

同じように、成長することを期待されています。

この霊的な視点、

主との関係で考える視点こそが、

本当の「限界突破」だと思います。

 

つづく

🌟🌟🌟🌟🌟🌟

祈りについてーその12

🌟🌟🌟🌟🌟🌟

 

経典『不滅の法』p136より

 

 

私は、「『正心法語』には功徳がある」ということを

常々説いていますが、

 

現実に、

ものすごい功徳があることを実感しているのです。

 

特に、

悪霊などの”常駐”によって病気になっている人の場合、

『正心法語』などのCDを繰り返しかけていると、

ほぼまちがいなく悪霊が浮き出してきます。

 

悪霊は、「これを習慣的にかけられるのか」

と思って嫌がり、だんだん離れていくはずです。

 

ときには、

「CDをかけよう」と思い、

その動作に移ろうとする瞬間に、

苦しくなった悪霊が浮いて出てくることもあります。

 

単に『正心法語』を聴くだけでは受動的ですが、

さらに、そのもとになっている仏法真理を

日頃から勉強し、

理解を深めていけば、

もう一段、

効果が大きくなっていきます。

 

 

 

 

🌟自室の部屋に『正心法語』のCDをかけっぱなしにしておくのは、信者であれば、いまや、基本的な事項といってもよいかと思います。

 

 

 

🌟霊症や、憑依による病気の方に、「部屋で『正心法語』のCDかけてますか?」と確認すると、ほぼまちがいなく、やっておられません。こうした「基本的な悪霊対策」をやっていないと、やはりなかなか難しいものであることを実感しております。

 

もちろん私も部屋でかけておりますが、最近は、CDだとモーターなどがすり減って故障することが多いので、数年前からはSDカードなどでリピート再生しています。SDカードやUSBメモリが使える機器も最近は増えておりありがたいですね。

 

 

 

🌟CDをかけようとするだけで、悪霊が浮いてくる。つまり、CDをかけようとすることさえ、「いやだ」ということで妨害もやってきます。CDのスタートボタンと、リピートボタンを押すまでが勝負!

 

 

 

🌟CDの音量は、聞こえる範囲であることも大切なようです。とある方が主に質問をされて、「悪霊にも聞こえないと効果はない」という主旨のお答えを得たことがあったようです。音が適度に大きいことも大切ですネ。

 

 

 

🌟日々の様々なる仏法真理の内容、勉強を、『正心法語』の理解につなげて深めておくのも大切かと思います。

 

 

つづく

🌟🌟🌟🌟🌟🌟

祈りについてーその11

🌟🌟🌟🌟🌟🌟

 

経典『はじめての仏法真理』p64より

 

 

私は、いろいろな本を出していますが、

 

最後に残るものは何でしょうか。

 

千年たっても遺っているものがあるとすれば、

 

おそらく、『正心法語』と

 

『太陽の法』あたりになるだろうと思われます。

 

したがって、

 

このあたりに本心が表れていると言ってもよいと思います。

 

 

 

 

🌟私たちが、平均2~300年くらいで転生輪廻しているとすれば、1000年という時間は、3~5転生分にあたります。その時は必ず「現実」として顕れてくる時間です。

 

 

 

🌟それらの転生において、私たちは、おそらく日本語ではなく、外国語圏に生まれていることが多いのではないでしょうか。その時に、この日本語の『正心法語』や、あるいは外国語での『正心法語』がどのように感じ取られることでしょうか。

 

 

 

🌟決して、今のように、読誦し、学ぶことは、二度とできないであろう『正心法語』という奇跡の経文。その真意を、数多くの御著作で学び、また日々の教学や読誦で深めることができることはとてもありがたいことです。「いまだけ」です。一回一回の読誦をかけがえのないものとして、永遠の魂の記憶として刻むつもりが大切だと思います。

 

 

 

🌟過去の仏教における『般若心経』などは、釈尊が書かれたものではなく、後代の弟子がつくったものです。しかしこれを鳩摩羅什や、玄奘三蔵が、インドから命がけの旅で持ち帰り、翻訳し、編集し、以後、日本でも千年以上にもわたって読誦されて大切にされています。

 

 

 

🌟対して、主がご自身で書いてくださった『正心法語』は直説・金口。かけがえのない価値を持つ言魂です。大切にいたしたいものだと思います。

 

 

つづく

🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟

番外編:『君よ、涙の谷を渡れ』について

🌟🌟🌟🌟🌟🌟🌟

 

 

この御法話は経典にもなっておりますが、

有名な最後のくだりの部分、この箇所について

未だに「間違った記憶」をされている方が多かったので

(時々、出家者でも間違っているので驚きます)

念のため、ここで強調しておきたいと思うのです。

 

その箇所と言うのは

経典『君よ、涙の谷を渡れ』p175にあります、次の御言葉です。

 

どうか 信じてついてきてください。

ただ、ついてきてください。

判断はしなくて結構です。

ついてきてください。

私についてきてください。

それが、いちばん単純化された信仰の姿です。

 

 

 

この御言葉を誤解してしまい

「『考えなくて』ついていけばいいのだ」というふうに、

間違った理解をする人が多いのです。

 

正確に読まなくてはならないと思います。

『しなくて結構です』とおっしゃっているのは『判断』ですね。

 

「判断」というのは何かというと、この文脈では

「主についていくか、いかないか」の判断のことです。

これは「しなくて結構」ということです。

つまり、主には、ただついていくしかないわけです。

 

「わたしにはわからないので、ついていけない」

というのは「ナシ」よ。ということです。

 

主が「政治をやる」と仰ったら「はい!」となるのが弟子です。

主が音楽や、はいくや、小説を下さったら「素直に学ぶ」のが弟子の姿です。

主が「三帰者に期待すること」を説かれたら「わかりました」と素直に実践するのが弟子の姿ですね。

今、主がお姿を消されたのならば「どういうことか」と考えつつも、主の御帰りをひたすらに祈りつつ

その間、主からお預かりしているサンガを今こそ護り抜き、さらに発展させようとするべく、

できうる限りのことをするのが弟子の姿です。

 

そこに、ついていくかどうか、なんて、判断はいらない。

判断しているうちは、本当の意味での弟子ではありません。

 

 

しかし、

同時に、「考える」ことはやめろとは一言もおっしゃってはいませんよ!(笑)ということです。

それは単なる思考停止のロボットになるからです。

主は、サンガを盲信狂信の団体にしようとは思っておられません。

ここのところが整理がついていないと間違います。

 

主がなされることにはひたすらに素直についていく。

しかし、「考えながらついていく」

ということです。

わかっていただけるでしょうか?

 

念のため、もう少しかみ砕きますと

×「主についていかない」し「考えない」

×「主についていかない」で「考えている」

△「主についていく」が「考えていない」

〇「主についていき」ながら「考え続ける」

 

ということです。

 

決して、

主は、『考えること』を「しなくて結構」とは「おっしゃっていない」ことを、

再度、ここに強調しておきたいと思います。

 

なぜなら、

「考える」ことの重要性については、

以下のように、繰り返し、様々な経典にてお教えくださっているからです。

それは当たり前といえば当たり前です。

幸福の科学の基本教義には「知」がはいっているのですから・・・

 

 

「正しく思うということは、正しく考えるということなのだ」経典『永遠の仏陀』第4章

 

「考えることができるだけでも、たいしたものであって、世の中には、考えることができない人が大勢います。常に手先だけで動いている方、ものごとを条件反射的にしか判断できない方が大勢いるのです。」経典『仏陀の証明』p36

 

「未来を幸福なものにしようと思うならば、肯定的な種子を心のなかにまき、育てなければいけません。その種子を育てるには、常に繰り返し考えることです。」『鋼鉄の法』72ページ

 

「困った時には、よくよく考えることだ。《中略》考えて、考えて、考え抜くのだ」『心の指針87 決断しきる技術』

 

「弟子たちの『できません』に『考え、考え、考えなさい』」(経典『悪魔からの防衛術』p86

 

「少なくとも、民主主義の中心的な担い手になるべき人々は、やはり『考える人』でなければならないと、私は思っているのです。『考える人』でなくてはいけません。それはシンキング・マン、というか、造語になるかもしれませんけれども、シンカブル・マンです。「考えることができる人間」によって、民主主義的な成果が紡ぎだされていかなくてはならないと思います。」(経典『政治哲学の原点』p72

 

ごらんのように、実は本当の「民主」を成り立たせるためには

参加者一同が、自分の考えをもっていなければなりません。

しかし、同時にそれは、「主についていく」方向での考えである必要があります。

その「主が示される方向」というのを見失ったからこそ民主主義は堕落したわけですから。

 

 

そして「考え続ける」ということも、

ある意味では、苦しい修行ではあります。

長時間、「わからない」ことに耐えなければいけないからです。

 

「なぜ、主はこうおっしゃったのか」

「なぜ、主はこうされたのか」

 

すぐには、主の念いをつかみきることはできません。

 

ある意味、この「わからない」ことに「耐えきれなくて」離れていく人も多いものです。

理解できないことを、自分の成長の余地や努力の余地だと考えるのではなく

「ついていけない」と自分なりに踏ん切りをつけてしまうのですね。

これはよくよく深層心理をみつめれば

「わからないことに耐えきれない」からだと思います。

 

それは永遠の理想であり、永遠の不思議でありつづけます。

しかし、その永遠の理想に向かって、

悟れない自分にも耐え忍びながら、考え、考え、考え、続ける。

 

そして、ささやかながらも、

各人がつかみとったものを、

喜んで伝えあい、学びあい、お互いに成長していく・・・

それこそが私たちの進む道であります。

 

法談や、伝道も、その営みの中にあるのではないでしょうか。

 

🌟🌟🌟🌟🌟🌟

祈りについてーその9

🌟🌟🌟🌟🌟🌟

 

経典『幸福の科学の基本教義とは何か』p80より

 

 幸福の科学の支部や精舎に行くことは”健康診断”

 

だいたい、信仰から離れてくると、おそらく『正心法語』を聴くことも、私の説法を聴くことも苦しくなるので、できなくなると思います。『正心法語』を読みたくなくなり、私の著書を部屋の中に置いておくと、何かイライラしてくるでしょう。《中略》

 

そういう人は、もちろん、「何となく、幸福の科学の支部に行きにくい」という思いが出てくるはずです。その人に憑いているものが「行かせたくない」と考えているからです。

 

そういうときには、一回、締め直したほうがよいのです。「支部に行きたくない」「精舎に行きたくない」という気持ちが強い人は、気をつけないと危ないかもしれません。「もしかすると、行かせないようにしようとしているものが、あるのかもしれない」と思ってください。

 

したがって、「支部や精舎に定期的に行くことは”健康診断”のようなものだ」と思ってもよいかもしれません。「毎月のように”健康診断”を受け、支部や精舎に行けて、きちんと修行ができる」ということは、「大丈夫だ」ということです。

 

なんだかんだ理由をつけて、行きたくなくなってくるようであったり、家族の反対など、いろいろなことで行きたくない状況が出てくるようであれば、「何か邪魔が入っている」と考えてもよいのではないでしょうか。

 

 

 

 

🌟祈りにおいても「自宅で祈っておれば大丈夫」と思っているだけで、支部や精舎に足を運ぶことを怠っていると、いつしか自我の世界に閉じこもることになり、魔境に打ち克っていくことができなくなります。

 

 

🌟他の法友の仲間たちと、波長を合わせて祈りを捧げるというのは、自我を去り、調和を学ぶために大切な修行の一つだと思います。

 

 

🌟定期的に支部や精舎に行くようにするための、自分なりの「戒」を作っておくのがよいと思います。私も在家時代は「週に一度は必ず支部に行く」という決まりを自分に課しておりましたし、同じく在家時代、支部の役職を持つようになった後などは「とにかく支部が閉まっていてもいいから、支部の玄関までは毎日行くことにする」というような自分なりの戒めをつくって、それを守ろうとする努力を続けておりました。その姿勢が、自分自身を護るものだと本当に実感いたしました。

 

つづく

🌟🌟🌟🌟🌟🌟

祈りについてーその

🌟🌟🌟🌟🌟🌟

 

経典『はじめての信仰生活』第1章より

 

 私の著書は、七百冊以上あるので、

この内容を、全部、理解するのは、

そう簡単なことではありません。

 

ただ、基本的な考え方は『仏説・正心法語』を読めば分かります。

 

『仏説・正心法語』は、一冊の経典のかたちで

幸福の科学の基本的な考え方、

中心的な考えをまとめたものです。

《中略》

 

「仏陀のもともとの教えは、どういう内容だったのか」

ということを知ろうと思えば、

『仏説・正心法語』一冊を読めばよいのです。

 

『仏説・正心法語』は、

仏陀の基本的な考え方を、

全部、現代語で分かるようなレベルで説明し切ってあるからです。

 

したがって、

本来は、お寺のお坊さんたちに宗派を超えて集結してもらい、

研修会をしないといけないかもしれません。

 

「この『仏説・正心法語』を読んだら、仏教の教えの意味がわかるでしょう」

ということなのです。

 

 

 

🌟『正心法語』は、ただ声にだして音読すればよいというものではなく、だんだんと「内容を理解して深めていく」ことが大切であると思います。

 

 

🌟『仏説・正心法語』に書かれてある悟りの境地は、全ての仏教の根本にあるべき「仏陀のもともとの教え」であり、本来は、すべてのお坊さんが集結して学ぶべき、素晴らしい内容であることを、私たち弟子がしっかり認識しておかねばならないと思います。

 

 

🌟その『仏説・正心法語』の理解を深めていくためには、まずは日々読誦しながら、経典『仏陀の証明』(あるいはその御講義経典)などで説かれている、経文の御解説を丁寧に、繰り返し学んでいくことが大切だと存じます。ほかにも経典『はじめての信仰生活』や、経典『信仰論』、経典『「エル・カンターレへの祈り」講義』などは重要かと思います。

 

 

 

 

『仏陀の証明』は、幸福の科学の根本経典である『仏説・正心法語』についての解説を兼ねた本ですから、基本書として非常に大切な位置づけになる本です。幸福の科学の会員は、毎日、『仏説・正心法語』を読んでいるでしょうが、勉強の際には、ときどき、この『仏陀の証明』を解説書としてひもとくことが大事です。(経典『仏陀の証明』講義より)

 

 

つづく

宇宙の諸相を超えて


音楽と


数学は


通用するという話がある





音楽は調べ。




奏でれば


その調べは


淡く消えてゆく。




同じ楽器


同じ譜面でも


同じ調べが出ることはない。




まさに、一期一会



しかしてその一方



数学は


万象を貫く数理を求める。




一つの数理は


万象を貫く。




万象はさまざまに変化すれども


数理は不変に輝いている。




調べと哲理。




まさに


諸行無常こそは


音楽の世界




諸法無我は


数理の世界




その交点に生かされる私。


🌟🌟🌟🌟🌟🌟

祈りについてーその7

🌟🌟🌟🌟🌟🌟

 

経典『信仰と情熱』第1章より

 

 

真実なるものは、深いところにその味わいがあります。

 

今は、実によくできた人工のダイヤモンドがあります。

原材料に圧力をかけて本物と同じ硬度につくられた、

ダイヤモンドに似たものがあるでしょう。

 

しかし、外見は、一見、同じもののようであっても、

それを見た瞬間に本物ではないことが分かってしまいます。

それはなぜでしょうか。

 

イミテーションのダイヤモンドは光りすぎるのです。

ダイヤモンドに似すぎているのです。

 

あまりにも直接的な光が出すぎているのです。

あまりにもキラキラしているのです。

 

なぜ、それほどキラキラしているか、

それがイミテーションであるところの理由なのです。

 

本物というのは、深いところから光が出ています。

 

その深いところから出ている光は、

決して、他の人々を挑発し、

他の人々を誘惑し、

迷いの中に引き込むような光ではありません

 

 

 

🌟祈りにおいて、「本物」であるためには、自分の内にある「ごまかし」に気づくことから始まると感じています。

 

 

 

🌟その「ごまかし」は、まず、読経の「調べ」「波長」にも表れると思います。読経の際だけ、声色をつけ、節をつけ、飾りをつける調べ、人に聞かせようとするような調べ、いかにも尊そうに読経しようとする心・・・イミテーションの読経・・・厳につつしみたいものです。

 

 

 

🌟他にも、自分の内にある「ごまかし」は根深く忍んでいます。例えば、『正心法語』ならば、「ここに誓う」が最後の言葉ですが、何を誓っているのかも意識せず、ただぼんやりと声に出してしまう。これが、「ごまかし」だと気づく。イミテーションだと気づく。ということではないでしょうか。

 

 

 

🌟例えば『主への祈り』ならば、「心より感謝いたします」が最後の言葉ですが、ほんとうに心から感謝しているのだろうか、何に対して感謝をしているのだろうか、ということさえも意識せず、ただぼんやりと声に出す。あるいはいかにも感謝していそうな声色をつくる。これこそ「ごまかし」だと気づく。にせものだと気づく。ということではないでしょうか。

 

 

 

🌟心にもないことを口に出すことをもって、「嘘」といいますが、祈りという最も大切な行為において、自覚さえもできずに、嘘をいう可能性がいくらでもありえるということ、この厳しさを常に感じながら、内にはらみながら、読経する。だからこそ、修行となるのだと思っております。そういう意味では一言一句が真剣勝負にならざるを得ません。雑念を出す余裕がなくなっていくのを感じます。

 

 

 

🌟そして、この厳しさを失わず、10年、20年と道を歩むからこそ、「ほんもの」に近づいていけるのではないかと、私は考えております。

 

 

つづく