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番外編:『君よ、涙の谷を渡れ』について
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この御法話は経典にもなっておりますが、
有名な最後のくだりの部分、この箇所について
未だに「間違った記憶」をされている方が多かったので
(時々、出家者でも間違っているので驚きます)
念のため、ここで強調しておきたいと思うのです。
その箇所と言うのは
経典『君よ、涙の谷を渡れ』p175にあります、次の御言葉です。
どうか 信じてついてきてください。
ただ、ついてきてください。
判断はしなくて結構です。
ついてきてください。
私についてきてください。
それが、いちばん単純化された信仰の姿です。
この御言葉を誤解してしまい
「『考えなくて』ついていけばいいのだ」というふうに、
間違った理解をする人が多いのです。
正確に読まなくてはならないと思います。
『しなくて結構です』とおっしゃっているのは『判断』ですね。
「判断」というのは何かというと、この文脈では
「主についていくか、いかないか」の判断のことです。
これは「しなくて結構」ということです。
つまり、主には、ただついていくしかないわけです。
「わたしにはわからないので、ついていけない」
というのは「ナシ」よ。ということです。
主が「政治をやる」と仰ったら「はい!」となるのが弟子です。
主が音楽や、はいくや、小説を下さったら「素直に学ぶ」のが弟子の姿です。
主が「三帰者に期待すること」を説かれたら「わかりました」と素直に実践するのが弟子の姿ですね。
今、主がお姿を消されたのならば「どういうことか」と考えつつも、主の御帰りをひたすらに祈りつつ
その間、主からお預かりしているサンガを今こそ護り抜き、さらに発展させようとするべく、
できうる限りのことをするのが弟子の姿です。
そこに、ついていくかどうか、なんて、判断はいらない。
判断しているうちは、本当の意味での弟子ではありません。
しかし、
同時に、「考える」ことはやめろとは一言もおっしゃってはいませんよ!(笑)ということです。
それは単なる思考停止のロボットになるからです。
主は、サンガを盲信狂信の団体にしようとは思っておられません。
ここのところが整理がついていないと間違います。
主がなされることにはひたすらに素直についていく。
しかし、「考えながらついていく」
ということです。
わかっていただけるでしょうか?
念のため、もう少しかみ砕きますと
×「主についていかない」し「考えない」
×「主についていかない」で「考えている」
△「主についていく」が「考えていない」
〇「主についていき」ながら「考え続ける」
ということです。
決して、
主は、『考えること』を「しなくて結構」とは「おっしゃっていない」ことを、
再度、ここに強調しておきたいと思います。
なぜなら、
「考える」ことの重要性については、
以下のように、繰り返し、様々な経典にてお教えくださっているからです。
それは当たり前といえば当たり前です。
幸福の科学の基本教義には「知」がはいっているのですから・・・
「正しく思うということは、正しく考えるということなのだ」経典『永遠の仏陀』第4章
「考えることができるだけでも、たいしたものであって、世の中には、考えることができない人が大勢います。常に手先だけで動いている方、ものごとを条件反射的にしか判断できない方が大勢いるのです。」経典『仏陀の証明』p36
「未来を幸福なものにしようと思うならば、肯定的な種子を心のなかにまき、育てなければいけません。その種子を育てるには、常に繰り返し考えることです。」『鋼鉄の法』72ページ
「困った時には、よくよく考えることだ。《中略》考えて、考えて、考え抜くのだ」『心の指針87 決断しきる技術』
「弟子たちの『できません』に『考え、考え、考えなさい』」(経典『悪魔からの防衛術』p86
「少なくとも、民主主義の中心的な担い手になるべき人々は、やはり『考える人』でなければならないと、私は思っているのです。『考える人』でなくてはいけません。それはシンキング・マン、というか、造語になるかもしれませんけれども、シンカブル・マンです。「考えることができる人間」によって、民主主義的な成果が紡ぎだされていかなくてはならないと思います。」(経典『政治哲学の原点』p72
ごらんのように、実は本当の「民主」を成り立たせるためには
参加者一同が、自分の考えをもっていなければなりません。
しかし、同時にそれは、「主についていく」方向での考えである必要があります。
その「主が示される方向」というのを見失ったからこそ民主主義は堕落したわけですから。
そして「考え続ける」ということも、
ある意味では、苦しい修行ではあります。
長時間、「わからない」ことに耐えなければいけないからです。
「なぜ、主はこうおっしゃったのか」
「なぜ、主はこうされたのか」
すぐには、主の念いをつかみきることはできません。
ある意味、この「わからない」ことに「耐えきれなくて」離れていく人も多いものです。
理解できないことを、自分の成長の余地や努力の余地だと考えるのではなく
「ついていけない」と自分なりに踏ん切りをつけてしまうのですね。
これはよくよく深層心理をみつめれば
「わからないことに耐えきれない」からだと思います。
それは永遠の理想であり、永遠の不思議でありつづけます。
しかし、その永遠の理想に向かって、
悟れない自分にも耐え忍びながら、考え、考え、考え、続ける。
そして、ささやかながらも、
各人がつかみとったものを、
喜んで伝えあい、学びあい、お互いに成長していく・・・
それこそが私たちの進む道であります。
法談や、伝道も、その営みの中にあるのではないでしょうか。