『いかにして文明は滅びるか』

 

これは社会生物学者のレベッカ・コスタの著書の名である。

 

この題名と書の示すところによると、

社会問題があまりに複雑化する(その状態を認知閾という)ことにより人々の脳はキャパオーバーを起こしてしまうという。

そうすると、人々は不合理な思い込みに走り、陰謀論に飛びついたり特定の政党・政治家にのみ原因を求めたり、

問題解決することを放り出して反対!批判!を連発したり衆愚政治に陥るなどの行動を起こす。

 

これが数世代続くことにより、社会問題の複雑化と社会変動の加速により認知閾は拡大し、社会は分裂して、国や文明は滅びの時を迎えるのだという。

 

こうした認知閾は、バブル崩壊後の失われた30年間の日本の姿やコロナ禍の混乱と分断と大きく重なる。

 

では、日本は、社会は滅び去るのであろうか?

 

私はまだ希望の道があると信じている。

 

かつて日本が認知閾に陥った状況としては元寇、モンゴルの襲来が挙げられる。

ある者は圧倒的なパワーを目の前にして弱腰になったり、実力差を加味せず御恩を求めて主戦的になる御家人たち、また社会不安から鎌倉仏教の数々が勃興し、幕府内では生産性のない議論が繰り広げられた。

しかし、残酷な蒙古軍は襲来したが、神風と大衆の仏教信仰による団結、御家人の武士道による必死の抵抗など様々な要因が重なり、二度の撃退に成功する。

 

この時の日本のリーダーは時すでに23の若造であった北条時宗である。

彼は圧倒的な軍事大国の侵攻に対し、大胆な閃きで国民団結の機運を作り出したことで宗教・政治・大衆を一体化させることに成功した。

神風と称するように、山東神道による本地垂迹説を基に「日本は神の国である」という集合意識を作り出し、バラバラであった当時の鎌倉日本社会を外在的に拘束し、モンゴルに従属しない理論的根拠と自衛の為の論理を作り上げた。

 

彼はモンゴル襲来時、一時的には認知閾を解消することに成功した。

しかし、その後の給料未払いや蒙古軍の拠点である朝鮮半島への攻撃の是非などの問題を巡り、再び認知閾の拡大を生み出し、鎌倉幕府の滅亡や後醍醐天皇の失政、南北朝時代といった問題を生み出す布石となる点は否めない。

 

認知閾の拡大を止めるワクチンは、「大胆なインスピレーション」であり、それを社会に応用することである。

 

ブラック企業でも、ある日、ワンマン社長が退任し上場企業からの出向者による改革で瞬時にホワイト化する例もあり、業績不振がたった一つの商品から建て直すこともある。

 

一発逆転思考はギャンブルやカルト集団的な発想だとして嫌煙されがちだが、あながちそうとも言い切れない。

発明王トーマス・エジソンは「天才は99%の努力と1%のインスピレーション」と言い、彼のライバルであったニコラ・テスラは「天才とは99%のインスピレーションと1%の努力」と言い放った。

 

大胆な閃きがないことにはどのような努力も水泡に帰すのだ。

受験でもそうだろう。ただ必死に歴史の単語や年表を覚える学生よりも、覚えやすい語呂合わせを作り効率的に頭に入れる学生とでは雲泥の差があるはずだ。

 

では、話は社会問題に戻そう。

現状の認知閾の解消に関するヒントはどこにあるのか?

 

ゲーム・アニメ・漫画として知られる『ひぐらしのなく頃に』シリーズの前原圭一は舞台となる雛見沢村における認知閾の解消に成功した主人公と言える。

古い因習に捉われ、風土病のウイルス性脳炎が蔓延し、相互に疑心暗鬼に陥った村に一人の少年が引っ越してくる。

物語は毎回、主人公や社会的テーマが異なる編がオムニバスで後退していき、第二シーズンとなる『ひぐらしのなく頃に解』でそれらの伏線を回収するという流れである。

ところで、私はこの作品(漫画版)を社会学の参考書とすることを強くすすめているが、まだ大きな反響を得ていないので話半分に聞いて欲しい。

 

前原は都会で問題を起こし、この村へと引っ越してきたお喋り上手な少年である。

物語の始まりにおいては、彼がウイルス性脳炎に罹患したことにより惨劇が引き起こされるが、

最終的にはウイルス性脳炎そのものを抽象的に概念化して、過剰に恐れることなく向き合い、ウイルスの兵器化に固執する集団と戦って勝利し、その結果、小さな雛見沢村の社会問題を文字通り「喝破する」のである。

 

ウイルス性脳炎(雛見沢症候群)は存在すら初期では知らされず、祟りや迷信といった扱いをされていた。

しかしながら、これが住民の疑心暗鬼や村の因習や分断に繋がっていたのである。

これに目を付けた極右集団(実際には共産国のスパイ? 1980年代の設定を考えれば考えられる)の一員である科学者がウイルスという具体的要因を仮説化し、それを利用して村の滅亡を、編ごとに目論んでいたのである。

しかし、症候群を分断の原因ではなく、村人自身が向き合い共存する為にすべきとして、因習に縛られない「部外者」前原は訴えたのである。

 

それが小さな村の問題と悪の科学者を打破することに繋がった。

それは「概念を希望的に再解釈する」ことによって為し得たことであった。

 

インスピレーションとは固定観念の概念を捻じ曲げることである。

前原のインスピレーションは自然科学が社会的に及ぼす問題に対して、革新的なポストモダン的発想の転換で解決を図った逆ソーカル事件と言えるだろう。

 

現実の閉塞的な日本社会では左右ポピュリズムの蔓延や比較重視の社会構造が支配的だ。ポピュリズムは目立ちたいだけの人間がその場しのぎで暴れるだけ暴れる結果を残し認知閾を拡大させ、比較重視の社会構造は生産性を低下させる。

しかし、左右両翼を弁証法的に止揚させる思考や、比較から適切な競争への転換といったような逆説が人々に受け入れられれば、認知閾の解消へと向かうことになるかもしれない。

 

現状、私にはその力はない。

しかし、誰かが前原圭一のようになってくれることは期待している。

 

最後になるが、認知閾解消の実例が示された漫画として『外れたみんなの頭のネジ』という漫画がおすすめだ。

時間があれば言及しようと思ったが、明日は早いのでこのくらいにしておく。