読んだ本リストとか書いてみようかと
数学史のレポートを書くためにクーンを読んでいる。『構造』の翻訳は信頼できないそうなので、原文でとろとろ読んでいる。まあそれではクーンの全体像を把握するころには夏休みなんぞとうの昔、それはまずい。というわけで『本質的緊張』、『構造以来の道』は翻訳で読んでいる。今考えているテーマは数学における誤謬についてというもの。さまざまなレベルの誤謬があるだろう、ワイルズのフェルマーの最終定理の証明で犯した誤り、ラプラスの数百年指摘されなかった、もしくはそのことが広くは共有されなかったとされる誤り、厳密とされるルベーグの積分体系における、その厳密さによる誤り(要するに基礎を厳密にする必要があったので厳密にしたら正しいと思っていたものが誤りとなってしまったのです。)などさまざまな誤りがある。ここでは紹介しないが解釈の誤りというものもある(斎藤憲氏の論説)。それらをある程度整理して分類できないかと。
あと 大野克嗣、『非線形の世界』 が面白い。
学問の自律性と、外界依存性についてここ数日考えている。科学者側の主張と科学論者からの主張の拮抗。僕は科学者になるべきなのか?科学論者になるべきなのか?再びラディカルな問が頭をもたげる。
畢竟僕がしたいのは自己の変革で、それをするためには学問(=過去との対話、現在との対話、未来との対話)が手段としては最もすぐれていると思う。得意だからというのが一番の理由である。ドラッガーから借りてきた所詮借り物の理由。だからこれも問い直さなければならない。大抵どちらかに属している人はオルタナティブの悪口しか言えないので耳を傾けるのは面倒だけど、ね。駒場の面々はどちらにも理解がある人が多くて助かる。
結局人と遊んでもあんまり楽しくないし、人と議論するのは自分のためだ。学問をするのは自分のため、人に敬意を払うのは自分のため。すごくさびしい考え方だがこれを認識することから逃れてはならないだろう、”である"は常に変容するものであるということと、いま、"である"ということとは峻別しなければならない。ともかく誠実に強く生きること。
