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佐賀新聞 さんが全文掲載してくれました。
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私が事件の事を知ったのは、
病院からの電話でした。
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いつものように子供たちを少し遠い集団登校の集合場所まで送って行き、
自宅に戻った私は朝ご飯を食べる暇もなく
私の夫、洋君の病院へ行くための身支度をしていました。
けたたましく鳴る携帯に慌てて出ると
『旦那さんが撃たれたので、すぐ病院にきてください』
と、言われ、私は撃たれたとの意味がわからず、
だけど電話口の相手の慌てた口調に
ただごとでは無い…と、感じ、思わず
『洋君に、意識はあるんですよね?』と、確認しました。
電話口の相手は、自分には何もわからないんです。と答え、
そのまま電話を切ることになり
私は、何が何だがわからないまま、だけどただ事では無い何かが起こった
病院へ行くために寒い冬の朝、上着を羽織るのも忘れて、
慌てて自宅を飛び出しました。
病院に着くまでに、私はいろいろなことを頭の中で考えていましたが
まさか、こんな事件だと思いもしなかったので
『病院のロビーか待合所で銃の乱射のような事件があって
たまたまそこに居た洋君を含む何人かの人が流れ弾に当たって
洋君も巻き込まれてけがでもしたのかなぁ…』
と、おぼろげながらに考えながら
必死にハンドルを握り締め車を病院へと急がせたのです。
病院へ到着したら、いつもすーっと通れる駐車場の入り口には
黄色いテープが貼られ、沢山の人が集まっていて、
簡単に中に入れそうな雰囲気でも無く、
車を病院のそばに止めて歩いて入り口の傍まで行き
『身内のものですけど…』と、
恐る恐る、病院関係者らしき人に声をかけました。
すると『あつきさんですか?』と、声をかけられ、
さらに『被害者の奥さんが到着されました!早く通して!』
と、辺りが急にざわつき始め、
私だけを待っていた様子だったので、どうして私だけ?
と、急に怖くなり体中がガタガタと震えだしました
。
それを見た看護師さんが私に駆け寄り、よりそい、
支えるように私を抱いたので
『洋君はどこで撃たれたと?』と聞くと、
ちいさな声で『入院してらっしゃる病室の中で、』と申し訳なさそうに
目を合わせられない様子で看護師さんは答えました。
毎日通っていた病室です。
狭くて逃げる場所も、隠れる場所も無い事を私は知っていました。
病室と言う事は、洋くん一人しか居ない場所です。
それに洋君の足はまだ歩くことすら不自由です。
まさか、もしや…洋君はもう生きていないんじゃないかと感じ、
不安で、早く無事を知りたい一心で、
私は、その看護師さんに『洋君に意識はあるとやろ?』と、
目を合わせ、問いつめるように聞きました。
そうしたら、看護師さんから
『蘇生はしてるけど…』との答えが返ってきて、
どうしてこんな事になるのか分からないけれど
『蘇生はしてるって事は、もう一回は死んだって事でしょう?』
と、私はその看護師さんをゆさぶりに強く確認しました。
やり場のない怒りや不安をそこに居た看護師さんにぶつけるしかありませんでした。
しばらく入り口で待って、病院の中に通された後、
刑事さんがそばに来ると
『残念ですが、ご主人は8時20分に病室で亡くなっている
今から二階にある病室について来て下さい。』と、
洋君の死を告げられたのです。
私は、亡くなったと言う言葉の意味はわかりましたが、
私が昨日、またね!と病室で
手を振って別れた、私の夫の洋君が亡くなった。
しかも、たった一人で
誰が傍に行く時間も無いまま病室の中で…と言う事を
受け止めることができず、それを理解したくも無く、ただ呆然と
『そんな…』
と言葉を出すのがやっとでした。
刑事さんについて病室まで歩く時にも、
まだ信じられず洋君がそんなに簡単に死ぬわけないよ
きっと嘘か、これは夢なんだよと、
見慣れた白い廊下をフラフラと歩きながら考えていました。
二階に上がり、廊下に出ると
入院患者さんと看護師さんが沢山集まって居て、
そこには隣の部屋の入院患者さんで
洋君と仲の良かった患者さんが車椅子で半狂乱になっている姿が見えましたが、
私はそれを気にする余裕はありません。
ただ看護師さんに抱き支えられて、
沢山の患者さんたちの中をかき分けるように呆然と歩き、
病室の入り口にたどり着くと、そこからはベッドのすぐ傍で横になって
まるで、寝ているような洋君の姿が見えました。
嘘でも夢でも無い現実に起こってしまった事を目の当たりにして、
私は足がガクガクして立っていることも出来なくなり
『ひろ君、なんで…』と泣き崩れました。
気がつくと車椅子に乗っていました。
一緒にいた刑事さんが
『しっかりせんば!旦那さんに話を聞くことはもう出来ないから
犯人を捕まえるためにはあなたが代わりにしっかりせんば!』
と、言われ、付け加えて
『すぐそばに行きたいでしょうが、
犯人を捕まえるために色々調べないといけないから
ここから先には入ってお別れをしてもらうことが出来ません。
奥さん以外の方にも捜査が落ち着くまでは
旦那さんに会わせることはできません。』
と申し訳なさそうに説明されました。
妻ですら、身内ですら病室の入り口から中には入る事は許され無かったのです。
すぐ傍に駆け寄って抱き上げて声をかけたい気持ちはありましたが、
私は、そばにいけない辛さより
犯人を捕まえるために私がしっかりしなければ!
早く犯人を捕まえて貰わなければいけないと
捜査に出来る限り協力し、一刻も早く、
すぐにでも事情聴取を受けたいと考えました。
病院で事情聴取を受けながらも、一番気になったのは子供達のことでした。
このことを何と説明すればいいのか…
そして、これを知った子供たちの気持ちを考えると、
どう考えても10歳やそこらで受け止めきれるものではなくて、
今まですぐ傍で守ってくれた
二人の大好きなお父さんが、
こんな事で命を落としたことを…どんな風に、子供たちに伝え、
説明すればいいのか考えれば考えるほど、
私は本当に辛く、苦しく、悲しく思いました。
早朝に発生した事件でしたが、
私が事情聴取その他の事を終えて
ようやく自宅に戻ったのは午後4時半を回ったところでした。
子供たちは、先に病院を出て学校に迎えに行ってもらった
私の両親に
『何があったの?誰かに何かがあったの?』と、
詰問していて、私の父が私に代わり、
洋君が間違われて撃たれて亡くなった、と伝えており、
私が帰ると子供たち二人が、グローブを手にはめ、
ボールを持って泣きながら玄関に立っていました。
『もう聞いた?』と、半泣きになりながら私が尋ねたら
二人とも、目を真っ赤にしながら
黙って頷くと玄関を出て行こうとしました。
『どこに行こうとしよると?』と、聞いたら
『キャッチボールしに』と、言うので
『なんでこんな時に!』と止めると
『黙ってここにおっても何のためにもならんけん、
お父さんのために野球を練習する!』
と、怒ったように長男が答えました。
私は、二人を抱きしめ、こっちにきんしゃい。話があるけん。
と、二人を部屋に連れ戻しました、
事件のことを出来るだけ詳しく、二人に説明しました。
お父さんは何にも悪くないこと
だけど間違われたこと
犯人はまだ捕まっていないこと
拳銃で撃たれたこと
本当に亡くなってしまった事……
長男は
『ケガを治すために病院に居たのに、なんで殺されて死なんばいかんとよ!』
と激しく怒り、次男は『犯人はどこにおると!絶対に許さん!』と号泣しました。
それでも、これから家族全員で力を合わせて乗り越えていこうね。
と私が諭すと、検体を終え、
夜は10時半も過ぎて帰ってくる洋君を自宅に迎えるまで
子供達は二人とも、おとなしく家でお父さんの帰りを待っていました。
その姿は、まだ信じられないんだ、と言う風に語っていると感じました。
家に洋君の亡骸が帰る頃には、
洋君の幼い頃からのお友達や仕事の仲間も集まり洋君を迎えて、
みんなこの事件が本当に現実に起きてしまい、
そして、洋君と二度と言葉を交わすことは
出来ないんだ、と言うことを改めて実感していました。
洋君が家に帰るまでは、近づくことも許されない状況でしたので、
息をしていない洋君を見る事すら
できませんでしたから、初めてそんな姿を見たみんなは黙って、
息苦しい空気の中洋君のそばでただ静かに涙を流して悲しんでいました。
洋君の死を信じられなかったのは子供たちだけでなく、
そばに居るみんなが信じられないことでした。
死んだことが信じられないくらい生きていた洋君のパワーは大きく輝いていました。
みなさんが、その日お帰りになったのは深夜遅くになりました。
みなさんを見送った後、
姿の残っている洋君のそばに居られるのはもうわずかの時間しか許されないんだと、
思い、隣に布団をしくと私は一緒に寝ることにしました。
そっと手を伸ばして洋君の手を探して触れたら、
びっくりするくらい冷たい手がそこにあり
あまりにも冷たくて血の通っていないことを思い知った私は苦しくなり
『やっぱり死んでしまったんだ』と涙が出ました。
眠ることもなく手をつないで横になっていた
別の部屋で寝ていたはずの長男が部屋に入ってきました。
私が、こっちにおいで、と、呼ぶと
だまって私と洋君の間に長男は入りじっとしていました。
お父さんの手を握ってもいいよ。最後だからね。
と、言うと洋君の布団に入り込んで寄り添うと、
声を殺して、身体や頬をなで泣いていました。
そうしているうちに次男も部屋へ来たので、
お父さんと一緒に寝ていいよ、と声をかけたら、
二人で洋君の冷たいからだが温まるほど長い時間そばに居て、
まるで生きているときみたいにお父さんが温まったね、
と話しながら寄り添って一夜を過ごしました。
葬儀会場は自宅ではない場所ですることを決めていて、
一ヶ月以上も入院していた洋君が
ようやく自宅に帰ってきていたので私達家族もなるだけ自宅に居させたい気持ちがあり、
洋君自身も、長くここに居たいだろうと考え、
自宅から洋君を葬儀会場に連れて行く時間を、
できるだけ遅い時間にして欲しいと葬儀社の人にお願いしました。
マスコミの方が沢山外にいらっしゃったので
、葬儀会場に送り出す時、洋君が青いシートに包まれている姿が
テレビや新聞に映るのが辛かったので、
みんなで話し合い棺の中に入ってもらって連れて行こう、と決めましたが、
長男は自宅から棺が出る時や、
それ以外にも洋君の死を認めざるを得ない節目節目の時には
決まっていつの間にかそこの場所から居なくなりました。
長男を探すと、いつも独りでベッドでうずくまってないていました。
しかし、葬儀会場ではそんな事もなく、
長男は自分から遺影を持ちたいと申し出たり、姿がなくなってしまう焼き場でも、
棺の窓を開け3人で『本当にありがとうございました』と、深く頭を下げ、
泣くことも無く最後の別れの挨拶をしました。
今思えば長男は、受け止めきれず、
ついには自分を殺したんだと思います。
あれから5ヶ月がたちました。
私たちは洋君が居なくなった自宅で、毎日過ごしています。
我が家の太陽であった父、洋くんが居なくなり、
今でも寂しくて沈んでばかりいるかと言うとそうではありません。
洋君は今でも我が家の太陽のまま、存在しています。
朝は言われたとおり野球の素振りをして、
生前口うるさく言われていた、宿題もきちんとできるようになりました。
毎朝、毎晩、私たちが食事の時は洋君の仏前にも同じものを供え
私や母はもちろん
子供達も何もいわれずに欠かさず線香を上げて挨拶をします。
出かけるときも前と変わらず
《お父さんがんばって来ます!》と家を出かけています。
それぞれ、自分ができる事を洋君に恥じないようにがんばっています。
『がんばっています。』と、言う言葉だけですめば幸せなのですが、
私達一家は、今でも暗い、そして底の見えない闇の中に居る事には変わりありません。
次男は、突然赤ちゃん言葉をしゃべったり、
長男は無表情と言いますか、悲しい顔で
呆然と立って居る時があり、以前の”元気な子”と、
表現出来ないほど子どもらしさを失いました。
子どもの躾、教育、家計など、どれ一つとしても将来や未来に光が見えません。
子供達も『もしも、お母さんまで死んだら僕たちどうなるの?』
とか、『お父さんが死んで、お金とか大丈夫?』と、聞く事もあり、
洋君が居ない事で変わってしまった生活環境を
子どもなりに心配しているのでしょう。
本当ならこのような事を考える事の無かった
幼い子ども達の不安は消し去れません。
暗い闇の中底の見えない深い暗いところで
私達家族は今後も生活を続けなければなりません。
洋君の母親は、いつものように洗濯物を干す時洋君の洗濯物が無くて
『居ないんだな』と、悔しくなると話していました。
洋くんは外仕事だったので、
沢山汗をかくので日に何度も着替えて居ました。
なので洋君の洗濯物が人の何倍もあったのです。
私はと言うと、買物に出かけたとき洋君の好物を見つけたら、
ついつい買い物カゴに入れています。
無意識に洋君が好きだから買おう、と思ってしまうのです。
無意識に洋くんが居ないことを忘れようとしています。
亡くなったことを今も認めていません。
だけど、洋君が亡くなってから、子供達を孤児となさないために
車で一時間かけて通勤していたけれど少しでも身の安全をと、
始めた電車通勤で行き帰りの駅から自宅までの道に桜が咲いています。
舞い散る桜の下を通りながら結婚した頃から、
十年以上も毎年二人で見て来たその桜を
今年からは一緒に見ることができないんだな、と切なくなります。
帰りの電車を降りると、
ホームから改札へ向かう高架を渡りながら時々夕日がとても綺麗で
これを洋くんに見せたいなぁ、と思います。
だけど、この町のどこを探しても。
いえ、この地球の草の根分けてどこを探しても
洋くんは見つからないんだと言う事を、そこで思い出してしまいます。
それに気がついてしまった時、
私は、やり場の無い寂しさや心細さに襲われてどうしようもなくなり、
唯一独りで居られる自宅までの帰り道を、
涙でぐちゃぐちゃになりながら歩いて帰ることになります。
居ない事を認めたくないし、亡くなった事を考えたくも無い私ですが
花を見ても、空を見ても、何をしていても洋くんを思い出してしまうのです。
最近は洋君が工場で毎日使っていた
大きな板金を加工する機械を他の人に譲ることが決まり、運び出されました。
新しく使っていただく板金屋さんが
『寂しいでしょうが、洋さんはいつもここにいらっしゃるし機械は大切に使わせてもらいます』と、
約束してくださいました。
洋君の大切にしていたものを大切にしてくださる方が見つかり、
きっと洋君は嬉しく思っている事でしょう。
使ってもらえる事に感謝し、ありがたく感じました。
でも、やはり運び出される時は、
洋君が居ない事の一区切りなのでその場に居られないほど苦しかったです。
頑固といわれるほど真っ直ぐで、
間違っていると思うことは絶対にしなかった洋君
仕事熱心で、入院中、動くことすら出来ないにも関わらず
仕事の書類やノートやカタログを病室まで持ち込んでいた洋君
そして、一時も早く仕事に復帰したいと思い、
出来るだけ早く動けるようにと、1日の殆どの時間、
リハビリをしていた洋君。
洋君が子供のためにと書いた手紙の中にこんな一言があります。
『厳しくしつけをする事に、自分でも疑問に思う時も多々あるけれど、
子供に好かれる為に良い父親を演じようと思った事は一度もありません。
ただ、厳しくて怖い存在で充分です。』
子供達の為を真剣に思うがゆえに、
甘やかす事を自分に許さず、
悪いこと、言ってはいけないこと間違った事をした時は本気で怒り、
厳しくしつけました。
なので子供達は洋君がそばに居るだけで
背筋がシャンと伸びたものでした。
また、子供達が良い事をしたとき、上手に出来た時は手放しで喜び、
時間を見つけては子供達に色々なことを教えていたので
子供達も父親である洋君が大好きで、誰よりも大きな存在でした。
洋君は、子供達だけではなく、
周りのみんなにも同じような態度で接していたので、
彼が生きてこの先何十年と、人に与えた愛情を思うと、
それを奪われてしまった事がとても残念です。
この手紙の最後では
『これからもビシビシ厳しく鍛えていくのでよろしく!!!』
と、締めくくられています。亡くなる4日前、
11月4日に書かれた言葉でした。
遺された私たちはもちろん、
この世を去った洋君がどれだけ無念であることでしょうか。
彼はもう、喋ることができません。
誰かに、こんな気持ちだったよ、犯人に対してどう思うよ
と、伝えることは出来ません。
また、大切な人が突然、訳もなく殺された私は、
もっと話したいことがあったのに。
これから先相談しながら暮らして行き
たかったのに、もっともっとこれから楽しいこと嬉しいことが、
待っていたのに、本当に、これからだったのに。
子供たちが大きくなり成人し、いつか結婚したり
孫の姿を見ながらあんな事があったね、
こんな事もあったねと笑いながら話す、未来が待っていたはずなのに。
大切な人に、突然会うことも喋ることも出来なくなって、
ありえない形で突然奪われて、
後悔しない人はいないと思います。
出来ることならば洋君を返してください。
洋君が返ってくるのならば何でもします。
と言うような気持ちで一杯になりますが、
何をしても、その願いは叶えられません。
こうして洋君の代わりに、ここで想いを訴える事だけしか
してあげられる事が無いのです。
病院で、ケガを治すために治療していたにも関わらず、
まったく関係のない人に意味も分からず
いきなり襲われて、不自由な足で、逃げることも守る道具もなく、
この世を去らなければいけなかった彼はいったいどんな気持ちだったでしょうか?
今、どんな気持ちで私たちを見守っているでしょうか?
光市殺人事件での遺族、本村さんが
『無期懲役になると最短7年で社会に出てくることが出来る』
とおっしゃった事を受けて私は、インターネットで無期懲役を調べてみました。
それによると、犯人が成人である私たちの場合、
服役?年を経過した頃行政官庁が判断して服役の態度が良く、
充分な反省が認められれば仮釈放されると書いてありました。
訳も意味も理由も何もなく、人違いで
私の大切な人の命を、奪った相手が充分反省しているからと言う理由で、
この社会に出てくることを、私は許す事ができません。
そして、何の罪もない人を間違いで、
暴力団の抗争に巻き込んで殺しても判決が無期懲役で、
反省すれば当たり前のように、社会復帰できると言うような事では
私自身不安で暮らしていけません。
もし、無期などの判決で、数年経って出所し
”人を殺した英雄”として組織暴力団の中で出世し一般市民の中に戻り、こ
の社会で大手を振って歩き回り、隣に何くわぬ顔で生活することが
許されたら、他のヤクザの方もこれも真似る人が出てきます。
この先このような事件が繰り返されるような事があれば、
私達の子供であり、洋君の忘れ形見である我が子がいつ、
同じように暴力団の抗争によって巻き込まれて、間違われたり、
流れ弾に当たって命を落とす事になるかもしれないからです。
同様の事件が繰り返される事の無いように、
抗争を起こし市民を巻き込んだ事件が今後、また他にも
繰り返される事の無いように、
この洋君の裁判で正義の判決が下される事を私はお願いします。
私にとって、遺族にとって、洋君の周りにいた人達にとって、
一般市民にとって。
死刑しか確実に社会に二度と出てこない事が確定され、
約束されている刑が無いとすれば
選ぶ選択肢は死刑しかありません。
『あの判決があったから同様の事件が無くなった』
と、後世に伝えられる判決だけが夫、
洋君も一般市民の方も喜んで下さるものだと考えます。
私は法によって、誰かの命を奪うという事は望みません。
たとえ、死刑執行が、最終的にされなくとも良いので、
私たち一般市民がこの先に安心して暮らすためにこの事件の犯人が
永久に世間に出られない判決をお願いします。
頑固で厳しくて強くて、真っ直ぐで、だからこそ怖かった、
だからこそ信頼でき尊敬できた。
そんな洋君に代わり、ここで発言を許された妻の私として、
充分彼の想いを代弁できたかどうかは分かりませんが、
本来ならばここで本人が言いたかったであろうその気持ちを、
ここで述べさせていただきました。
彼ならばきっと、こう考え、必ずこう喋っただろうと思います。
長くなりましたが、最後までお聞き頂きありがとうございました。
2008年5月1日 宮元篤紀