11月に入り喪中欠礼ハガキを考える時期になった
昨今は年賀状仕舞いの友人も増えて、自身の年賀状は枚数も減っているが、高齢の親類や親がやり取りしていた知人はまだ多い
喪中欠礼も無視はできない
実家の片づけを亀の歩みで進めているが、未使用ハガキが続々と出てくる
古くは10円のハガキから昨年の年賀状用まで額面も様々、まとめると100枚近くになった
利用しない手はない
郵便局の窓口で恐縮しながら数十枚のハガキを新しく交換してもらった
現在のハガキ代1枚85円
結構な出費をおさえられた
11月に入り喪中欠礼ハガキを考える時期になった
昨今は年賀状仕舞いの友人も増えて、自身の年賀状は枚数も減っているが、高齢の親類や親がやり取りしていた知人はまだ多い
喪中欠礼も無視はできない
実家の片づけを亀の歩みで進めているが、未使用ハガキが続々と出てくる
古くは10円のハガキから昨年の年賀状用まで額面も様々、まとめると100枚近くになった
利用しない手はない
郵便局の窓口で恐縮しながら数十枚のハガキを新しく交換してもらった
現在のハガキ代1枚85円
結構な出費をおさえられた
ありがとう嬉しかった
別段改まることも無く、普段通りに淡々と、しかも凡ならざる言葉を残す人もいる。「万花図鑑」8巻「続万花図鑑」4巻で知られ、日展理事長を長く務めた辻永画伯がそうである。若い頃から無病息災で絵を描き続けていた画伯は昭和39年、80歳の時脳卒中で倒れた。2年後、再び発作に襲われ、以後、絵の制作は不能となり、発病10年後の昭和49年夏、90年の生涯を閉じた。
最晩年は病気のため発語できない状態になったが、奇跡のような意思疎通の道が見出される。画板に紙をとめて、筆を画伯の右手に握らせ、紙に筆をタッチさせつつ画板を少しづつずらせて動かすと、そこに假名文字が自然に書かれるのだった。
この方法で画伯は「死が近くなったと思う」と告げることも何回かあったという。そしてその朝も、画伯は字を書きたいことを体で表現した。画板を近づけると、画伯の右手は夫人と長く付き添った看護の人に向けて、次の文字を書き示した。
「アリガトウヨ オレハウレシカッタヨ
ソバニイテ テヲニギッテクレヨ
コレイジョウ ジヲカケナイカラ ワカレルヨ」
その10分後に画伯の呼吸は止まった。大往生である。
「ありがとう」と感謝し「おれは、もう、いくよ」と目をつぶることが自分にもできるかどうか。自信は無いが、そうありたいとは願っている。
風の声を聞きながら
老年とか晩年ということが頭にあって、いろいろと思いつくままに書いてきた。誕生日を迎えるごとに年齢を重ねるのは仕方のないことだけれど、年をとってようやく知り得るようなこともある。
例えば、風の声のひそかな囁きが耳に聞こえるといった類のことである。野をわたる風の声、流れる水、ゆく雲の動き等々が、すべて何かを語りかけてくる。若い頃は気にもとめなかった自然のたたずまいが、人生の哀歓や人の世の定め、あるいは運命の変転といったことを告げるように思える。
風や雲に限らない。日々のニュースやテレビドラマからも、風の声の如きものは聞こえてくる。六十数年を生きた心と体に積もった人生のさまざま、すなわち内なるものが外の現象と接するとき、風の声として聞こえてくるのであろうか。単に老年ゆえの気の迷いかもしれないが、それもまた晩年というものであろう。そのような思いで、風の声にも耳を澄ませながら「昏ルルニ未ダ遠キ」日々を過ごしている。
※
父の「ありがとう、もういくよ」には間に合わなかった後悔
生きていたら、今の世の中のニュースからどんな風の音を聞いたか、知りたいと願う思い
父がこの手記を書いた際の歳と同世代になりつつある自分の煩悩だらけの日々を振り返りつつ覚書として記録
幾とせの落葉
かなり古い話だけれど、昭和59年1月から10回、日曜日の夜に放映されたNHKの連続ドラマ「新・夢千代日記」が今も記憶に残っている。
ドラマのトップシーンには毎回、高さ41メートルの余部(あまるべ)鉄橋が現れ、浜坂町に向かって列車が走る。行き着く先の温泉宿で、夢千代は不治の病を抱え、迫りくる死を予期しつつ、健気に懸命に生きている。若いにもかかわらず晩年と言わざるを得ない日々である。
その生きざまも哀切を極めるが、もうひとつ強く心ひかれたのはドラマで紹介された薄命の歌人、前田純孝の存在であった。
知られることのあまりに少なかった実在の人の生涯を、詳しく知りたいと願う思いは多数の視聴者にあったとみえ、ドラマ放映と同時に歌人の地元、兵庫県美方郡浜坂町には全国各地から問い合わせが殺到したという。
西の啄木と言われる前田純孝(翠渓)は明治13年の生まれ。兵庫県師範学校から東京高等師範学校に進み、歌人としては初め与謝野鉄幹の明星派に属した。東京高師卒業後は26歳で大阪府立島之内高女教頭に就任したが、3年目に大喀血して校内に倒れる。
以後、故郷の浜坂町で孤独と貧苦の闘病生活を過ごし明治44年死去。31歳だった。急ぎ足で駆け抜けるような生涯である。
当時、肺結核は世にいれられぬ業病だった。純孝は古里の浜辺に独り身を横たえ、心の奥底を見つめては海鳴りに耳をすますような闘病の2年半を過ごす。血を吐くような短歌が死の床から生み出された。
さびしきは破れし障子海の音
手なる小鏡われが唇
人のため流る涙のこるかや
我もたふとしなほ生きてあらむ
病床は絶え間ない喀血に汚れていた。シラミも純孝を苦しめる。見舞う人も少ない。そんな中でも。なお歌人の魂は澄み、歌境は一段と深まったのである。
幾とせの前の落葉の上にまた
落葉かさなり落葉かさなる
与謝野鉄幹が特に賞賛した一首という。絶唱である。
はらはらと散り、積もっては重なりさらに重なる幾年、幾十年もの落葉。それは身動きもままならない病床にあった純孝の心象風景でもあろうか。しんしんと哀しく、しみじみと寂しい。
31年の短い生涯だったけれど、彼は多くの短歌を世に残した。とりわけ最晩年の辞世にも似た歌の数々は、今も光を放つ。