三連休はつくばに視覚障害者の方の釣り大会に行ってきました。
こういうの、すごく久しぶりです。
なんかずっと現場から逃げていました。
怖くて。自分の身のおきどころのなさを感じるのがこわくて。
学生時代みたいに飛び込めない。
新しい人に会うのも怖い。
自分のことを言うのも怖い。
でも行っていろんな発見がありました。
わたし、障害児教育を専攻していたとき、
視覚障害に全く興味をもたなかった。
なぜか解からないけど、
ありのままに言葉にするならば、
体が動くほうが障害が軽いのではないかって
自分の中で判断をくだした気がする。
だから肢体不自由を専攻した気がする。
そんな自分勝手な思考回路がふとよみがえってきました。
でも1日ではあったけども
視覚障害者の方と接する中でいろんな発見がありました。
すごい楽しかった。
お話をした方が良かったのかも知れないけど。
わたし、どこか見えない人に対し、
相手が見えないことに気を使わなきゃって思って
目に見えるものとか感じたこととか
話題や言葉を選びながら話をしてました。
お土産をみるのも手で解かるものじゃないと
話題にしちゃいけないって。
月がキレイとかって禁句だと。
でも見える私は、見えるものを見たままに
伝えることができるんだということを知りました。
それを望まれていることもあると。
「右手に、ほぼ満月の月がすごくキレイに見えますよー
少し黄色感じです。」
そうしたら、
「明日が十五夜だからねえ」て。
この方は十五夜というのを知っているんだと。
どういう風に感じているのかわからないけど、
その人なりのイメージがあるんだと。
それは私となんら変わらない。
私が海外の見たこともない風景をイメージするときに
今まで自分が見たものからイメージを膨らませ、
勝手にイメージをする。
それと何ら変わらない。
それよりむしろ、見たものをありのままに相手に伝えること
このほうが難しいと感じた。
相手にイメージできるように。
ありのままを伝えること。
何らコミュニケーションの本質は、
日ごろ私が会社や友達としているものと変わらないこと。
帰りの電車でそれからいろんなことが蘇ってきた。
大学3年のニイリエの『ノーマライゼーションの8つの原則』を
原文で読んで、みんなの前で発表しなくちゃいけなかった時のこと。
『natural』という単語が『普通』にあたるんだけど、
先生にその『普通』とは何ですか?って質問され、
解からなくて。。。その場をどうやりきったかも覚えていない
最近、会社で『このやり方普通じゃないでしょ??おかしいと思わない?』と
毎日のように言われ、私はひねくれているので
『わかりません。おっしゃっているようにおかしい部分もありますけども・・・』の一点張り。
だって、本当にわからないんだもん。
言われていることはごもっともで、私はなんて考えが及ばないんだろうって
いつも反省しているけど・・・。
普通じゃないって言われると、普通って何なんだろう?と思う。
普通をもっと勉強しなきゃって思う。
なんとなくこの2つの事象が自分の中でつながった。
でもまだ自分の中で言語化できるほどに
明確にはなっていないけど。
普通って何?って私が思ったのは基準が私の中にないから。
正確には基準を知らないから。
基準に拠らない多様性こそが普通ではないのかしら。
多様性を普通というならば、基準とは何か。
なんか今なら、3回生のときに先生に聞かれた質問に
自分なりの回答と文章上の解釈ができる気がする。
遅いけどね。
有意義な1日でした。
