実家でごろごろしていたら「紅白の舞台裏」という番組を流していたので、ながら視聴でなんとなく全部見てしまいました。
普通に見れば「ああそうか」で終わってしまう位の内容なんですが、ときどき「ん?」と思う瞬間があり、それが面白かったです。たとえばリハーサルの最中に急にモザイクで隠されている人物が出ているカットがあって、ステージの上を見るとSMAPがいるので、ああこれはかの有名なジャニー喜多川氏に違いない、と思ったり、モーニング娘。の再結成話が完全に中澤裕子メインで描かれていて、それはきっと夏まゆみやら他の現役メンバーでは、他の仕事が忙しすぎて追っかけ切れなかったからではないか、と思ったり。
あと顕著だったのは、「猛獣」みのもんたをどう使うか、という部分。3人ぐらいプロデューサーがいて、この番組の本当の責任者は誰か、というとこれがよく分からない。その都度みのの言うことに対してその場では対応するのだけど全部受け身になっているというか、そもそもキャスティング時点で予想されたに違いない事態に本番前日になって対応しているのはどういうもんでしょうな。もう一つ思ったのは、やっぱり詰め込みすぎということ。曲と曲の空気がちゃんと切り替わらないうちにつぎつぎと現れて余韻がない。本当にこれで曲を大切にしているといえるのかどうか、かなり疑わしいですな。
で、思ったのは、紅白というのは歌の「おせち料理」みたいなもんではないのか、ということです。個別の料理の完成度、というのは二の次で、それが「おせち」であることに意味がある。この料理が好かれるか、おいしいか、というのはまあそこそこの路線を追っかけておけばよくて、仕切りがあって、重箱にほぼ等分にならべてなんとなく見た目がお正月っぽい。
僕は昔からお節料理はそんなに好きではなくて、食べるなら栗きんとんを腹いっぱい食べられればそれでいい口なので、お節料理万歳、とはならないのですが、つまり紅白もそういうことなのではないかと。それがトータルとして「紅白」という枠組みに収まっていれば、個別の楽曲の完成度やメッセージ性はあんまり問うても仕方がない。みのもんたというのはまさにお節料理の重箱と仕切り板が豪勢になったみたいな感じなんでしょう。
だからなんだと聞かれても困るんですが、視聴率がどうの、と言う風に言うときも、僕はそういうことなんじゃないか、と思うのです。つまりお節料理は家族そろって食べることだけに意味があるのと同様、紅白もいろんな世代向けのいろんな歌があって、それが一つのパッケージになっていることに意味がある。いまは番組だってせち辛くなって、ターゲットは何、とか、スポンサーがつくのつかないの、ということを考えないと作れない時代ですが、本来紅白は大勢で見ながら、あの歌手のどこがいいの、とかあの歌は聴いたことがないけどなんかいいね、とか、わいわい雑談しながら見れればそれでいいんじゃないかと。
そういう世代を隔てた家族の形態が次第に崩れていることの象徴としての、紅白の視聴率低下があるのであって、紅白をどうするか、なんてのはおいといて、この日本の家族のありかたをどうするか、を考えた方がよっぽど意味があることなんじゃないかなぁ、と思ったりしたわけで。
普通に見れば「ああそうか」で終わってしまう位の内容なんですが、ときどき「ん?」と思う瞬間があり、それが面白かったです。たとえばリハーサルの最中に急にモザイクで隠されている人物が出ているカットがあって、ステージの上を見るとSMAPがいるので、ああこれはかの有名なジャニー喜多川氏に違いない、と思ったり、モーニング娘。の再結成話が完全に中澤裕子メインで描かれていて、それはきっと夏まゆみやら他の現役メンバーでは、他の仕事が忙しすぎて追っかけ切れなかったからではないか、と思ったり。
あと顕著だったのは、「猛獣」みのもんたをどう使うか、という部分。3人ぐらいプロデューサーがいて、この番組の本当の責任者は誰か、というとこれがよく分からない。その都度みのの言うことに対してその場では対応するのだけど全部受け身になっているというか、そもそもキャスティング時点で予想されたに違いない事態に本番前日になって対応しているのはどういうもんでしょうな。もう一つ思ったのは、やっぱり詰め込みすぎということ。曲と曲の空気がちゃんと切り替わらないうちにつぎつぎと現れて余韻がない。本当にこれで曲を大切にしているといえるのかどうか、かなり疑わしいですな。
で、思ったのは、紅白というのは歌の「おせち料理」みたいなもんではないのか、ということです。個別の料理の完成度、というのは二の次で、それが「おせち」であることに意味がある。この料理が好かれるか、おいしいか、というのはまあそこそこの路線を追っかけておけばよくて、仕切りがあって、重箱にほぼ等分にならべてなんとなく見た目がお正月っぽい。
僕は昔からお節料理はそんなに好きではなくて、食べるなら栗きんとんを腹いっぱい食べられればそれでいい口なので、お節料理万歳、とはならないのですが、つまり紅白もそういうことなのではないかと。それがトータルとして「紅白」という枠組みに収まっていれば、個別の楽曲の完成度やメッセージ性はあんまり問うても仕方がない。みのもんたというのはまさにお節料理の重箱と仕切り板が豪勢になったみたいな感じなんでしょう。
だからなんだと聞かれても困るんですが、視聴率がどうの、と言う風に言うときも、僕はそういうことなんじゃないか、と思うのです。つまりお節料理は家族そろって食べることだけに意味があるのと同様、紅白もいろんな世代向けのいろんな歌があって、それが一つのパッケージになっていることに意味がある。いまは番組だってせち辛くなって、ターゲットは何、とか、スポンサーがつくのつかないの、ということを考えないと作れない時代ですが、本来紅白は大勢で見ながら、あの歌手のどこがいいの、とかあの歌は聴いたことがないけどなんかいいね、とか、わいわい雑談しながら見れればそれでいいんじゃないかと。
そういう世代を隔てた家族の形態が次第に崩れていることの象徴としての、紅白の視聴率低下があるのであって、紅白をどうするか、なんてのはおいといて、この日本の家族のありかたをどうするか、を考えた方がよっぽど意味があることなんじゃないかなぁ、と思ったりしたわけで。