野口純史の、更新は不定期で。

野口純史の、更新は不定期で。

シンガーソングライター野口純史のブログです。更新は不定期。そのまま。

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改めて、ヤンサン主題歌コンペを見てくださった方々ありがとうございました!皆さんの投票のおかげで、応募曲「Sweet Berry」が、来年からのヤングサンデーのオープニング曲の1つに選ばれました。本当に嬉しい。ありがとうございます。

 

 

→自分の曲が流れるのは、後半の有料放送のパートからです。ニコ動からチャンネル登録すると見れますよ〜。→

http://ch.nicovideo.jp/yamadareiji


当日は観覧にも行ったので、現地でめっちゃドキドキしながら見てました。自分の曲がなかなか流されないので、「間違ってエンディングの応募したか??」と焦り、こっそり自分が送ったメールをチェックしたりしてました。無事流されて一安心。みなさんのコメントを読んで嬉しい気持ちになり、主題歌に選ばれてテンションMAXになり。緊張と歓喜のジェットコースターの高低差がやばかったです。あー疲れたw。

こんだけ個人的で、恥ずかしさも全部丸出しの歌を、ここまで色んな人が支持してくださるとは…、と今でも思います。本当にわからないもんです。ただヤングサンデーに出して、みなさんに聴いてもらえたおかげで、自分個人の歌ではなく皆さんの歌になりました。放送前はできた後もあんまり聴きたくなかったのですが、放送が終わったあとは自分で聴いてもあんまり苦しくなくなりました笑。

しかもこの曲に映像をつけてくださるんだもんなぁ…。どんな映像が送られてくるんだろう。その映像のコンペ会はまた観覧に行こうと思いますw。

実は今年の1月くらいに「今年の未来予想図」みたいなのをノートに書いたんですね。で、この前見返したら「ヤンサンフェスに出る」って書いてあって。夢がひとつ実現したぞ!とあん時の自分に教えてあげたい。

今日のエンディング決定戦も可能な限りリアタイで見られたならと思います。

ではでは!

 


10代のときは、恋愛でも音楽でもなんでも完璧主義で、それが自分を苦しめていたと思う。

 

こんなんでいいはずがない。こんなんで認められるはずがない。

その葛藤が何かに挑戦することを阻んでいた。

 

自分の中にずっと自分を監視しているもう一人の自分がいて、そいつに許しをもらえたものじゃないと、外に向けて発信してはいけない。そういう意識があった。

 

今はそれを意識的に捨てようとしている。脱ぎ去ろうとしている。

こんな簡単なのでいいのか?と思うこともたくさんある。けどその度に「まずはやってみようよ。話はそれからだ」と言い聞かせている。

そして実際手をつけてみると、やる前まで悩んでいたことは気にならなくなっているんだよな。そういう経験を経て、「ああ、あのとき悩んでいたのは本当に大事なことではなかったのかも…。こんな簡単に消えちゃったんだもん。」と思うようになった。

 

どんなときでも、やらないやつより、やったやつの方がえらい。薄々気付いていたけど、最近は特にそう思う。どんなロジカルや思考も、たった一回の「やった」経験には絶対に勝てない。

 

そして実際に行動したことで、誰かに迷惑をかけることってそこまでない。結局不安は自分の頭の中にしか存在しないのだと強く思う。

っていう質問を最近身の回りの人にちょくちょくしている。


単純にその人に何があったか知りたいし、楽しいことだったら一緒に喜びたい。普段同じ職場で働く同僚でも、知らないことはゴマンとある。意外な一面を知ることができたらそれだけその人を近くに感じることができるし、思わず「らしいなぁ」と思えるのも楽しい。


そう考えて聞いてみるんだけど、今日は「楽しいこと、特にないなぁ」って返される率が高かった。同僚の一人は「大人に聞かれたら『最近兄に子供が生まれたんですよ~』とか答えるけどな。でも自分にとって嬉しかったことなんて特にないし。」とのこと。うーむ。つまり建前で答えられることはあるけど、心から楽しいと思えたことはない、っていうことなんだろうか。それは正直さみしい。



そういう自分はどうなんだろう?試しに「最近あった楽しかったこと」を列挙してみる。


・チャットモンチーの武道館。泣きまくった。中学の自分と今が繋がってめっちゃ感動した。


・「万引き家族」。じーんと染み渡る映画だった。家族の呪縛とそれでも家族という形を求めずにはいられない人々を優しく描いた作品だった。


・高橋久美子さんのエッセイ集「いっぴき」。特に感動したのは書き下ろされた「音楽2」というエッセイ。最近ブログで毎日エッセイを書いているのは、この本の影響です。


・最果タヒさんの詩集と小説。やばい。自分の奥から10代の頃のモンスターが呼び起こされる感覚。その状態でいると仕事に支障をきたすので、少しずつだけ読むようにしている。まともに食らうと、やばい。


・このブログで最近毎日エッセイを書いていること。自分の考えが整理されるし、書き終えると一通りモヤモヤを排泄できた気がして、正直気持ちがいいw。恥ずかしいことがなくなる。


・今日仕事を早めに切り上げて、カフェに21時に来れたこと。仕事終わりのあったかいコーヒー、最高。


こんなとこだろうか。こう書いてみると、フォーカスを当てただけでたくさん出てくる。嬉しいことだ。様々な作品や出来事から、自分はエネルギーをもらって生きているんだな。


そして思うのは、自分は自分にとっての楽しさを優先できる環境で育てられたのだ、ということ。「楽しいことは?」と自分に聞いてすぐポンポン出てくるのは、それを考えて実際にそれをやることが許される環境にいたと思うからだ。願っても許されない環境なら、願うこと自体諦めてやめてしまうだろう。特に親からの承認が自分の価値に大きな割合を占める子ども時代だったら尚更だ。自分はおそらく、子どもの頃から末っ子の長男という立場で、守られ許され育てられてきたんだと思う。贅沢な話である。


もちろん自分の楽しさを優先するということは、他の人とぶつかる回数も増えるということ。だから自分を持ちつつ、他の人とどう上手く共存していくか、ということに関しては、今も絶賛修行中だ。そういう面においては、自分はスロースターターなんだろう。でも、家族や周りの環境が育ててくれた、楽しいことをすぐ見つけることができる脳に、今はとても感謝している。


昨日大学時代のサークルの先輩から、ライブ出演のお誘いがあった。また楽しいことがまた一つ増えるなぁ。誰に来てもらおうか。やっぱり楽しいことを持って来てくれるのはいつだって自分以外の誰かなんだよな。

あなたが話しかけてくれるから

私は声を出せるの

あなたが笑ってくれるから

私の顔は動くの


もしもこの世に私以外誰もいなかったら

私は永久に時間の迷子

言葉も何も出てこない

永遠に沈黙の檻の中


ねえもう一度その声で

私の名前を呼んで

この心が消えないように

まだ私が私であるうちに


私一人の中は

ただ宇宙が広がってるだけ

私さえわからないブラックホール

あなたにもきっとあるでしょう


あなたといた想い出があるから

私はひとりでもひとりじゃない

このお腹に宿るろうそくの火が

私を前に進ませてくれる

10代の頃のことはもう正直覚えていないことが多い。

今更だけど、15歳がすでに10年前という事実にびっくりする。チャットモンチーに夢中になり、BUMP OF CHICKENのギルドに救われたような気になっていた君は、一体どこに行ってしまったんでしょう、と思うほどに。今では顔もわからない赤の他人のように思える。


が、そんな風に大人になったふりをしていた自分の横っ面を張っ倒す本に今日出会ってしまった。最果タヒと言う人が書いた「十代に共感する奴はみんな嘘つき」。


最初の文章からいきなり詩のような文体で感情を畳み掛けてくる。独白パートかな、と思いながら読み進めているとこれが一向に終わらない。そこで唐突に主人公がある男の子に告白した、という描写が差し込まれ、その後も独白は止まらない。独白と主人公たちの会話が渾然一体となり物語が進んでいき、最後まで怒涛の勢いで突っ走る。その勢いに乗せられて最後まで読み切ってしまった。


真実がほしくて、揺るぎない確かなものが欲しくて、自分だけはそれに気づいていると周りを少しバカにしていて、そのくせ少しでも傷つけられたと感じると、感情がモンスターのように暴れ出して手がつけられなかった、あの感覚。そのまま生き続けるにはあまりに身が持たないから、自分から選んで捨てたはずのその感覚を生々しく思い出させられた。頭がクラクラした。


そして何より自分が思い出したのは、自分の姉のことだ。

(ここからは多少、勇気を持って書く)


人生には「この人がいなければ今の自分は存在していない」という人が何人かいるけれど、姉はそのひとりだ。それくらい自分の思春期において姉は絶対的な存在だった。当時の自分にとって姉は憧れのすべてだった。

自分と姉は子どもの頃から仲がめちゃくちゃ良かった訳ではなく、急接近したのは自分が中学生になってからだ。その頃姉がレミオロメンとかTHE BLUE HEARTSとか色んな音楽を好きになり始めていて、それを俺に紹介してくれたのがきっかけだったと思う。


思春期になってまず初めに気づくのが親の弱さだと、俺は思う。父は正しいような顔をして、全然正しくない短気で感情のコントロールができない人だったし、母は母で弱くて心配性で愛が重たくて、それに自分はイライラしていた。

そんな中でそれまでは大人しかった姉が、俺が中学に上がる頃、急に自分の言葉で正論をはっきり言うようになった。親を信じられなくなっていた当時の自分にとってはその姿がひどく眩しかった。姉の意見は当時の自分にとって唯一信じられるものだった。「どうしたらこの人が見れる景色を自分も見られるんだろう」と本気で悩んだ。バカでしょう。バカなんだけど、それくらい何か確かに見えるものが欲しかったんだと思う。


学校から家に帰るたび、母親に「◯◯ちゃん(姉のこと)帰ってきてる?」と確認し、姉の部屋に行っては音楽のことや学校での出来事とか色んなことを話した。姉が言う正論に言い返せなくて凹むこともしばしばあった。何かの時に「あんたはずるい。いつも逃げてる。学校では周りを騙せてるかもしれないけど、私は騙せないから」と言われて、それは今でも自分の中に残っている。


そしてこの小説の主人公の感情の動きとか考え方を見ていると、当時の姉を思い出してしまい、こちらも一気にあの頃に引き戻されたようになってしまった。


この小説の主人公は、今の自分から見てると非常にめんどくさい。そのめんどくささが当時の姉と重なるのだ(ごめんなさい)。そして姉の機嫌が悪くなったり感情が揺れるたびに、オタオタして「どうしよう。自分に何ができるんだろう」と思っていた、当時の自分をもまた思い出して、平常心ではいられなくなる。顔から火が出るほど恥ずかしい。こうして書いてる今も恥ずかしくて、顔を隠したくなる。


今姉とはあの頃みたいに正面から互いの心と心をぶつけ合うように話すことはなく、たまに実家に帰ってくる時に映画を観るくらいだ。今の姉にあの頃の救いようのない憧れや尊敬の念を持つことはないが、その記憶は今も自分の中にある。当時感じたことや姉に言われたことは楔のように自分に突き刺さったままだ。それをまざまざと思い知らされた。


今もあの当時の自分は違う星に生きているんじゃないか、とたまに思うことがある。初めて自分が屈服せざるを得ない人が現れ、その人に認められたくて、乗り越えたくてやっきになっていた自分。彼と無理やり再会させられたような、そんな小説だった。

「いらっしゃいませ…あ!お疲れ様です」

 

自動ドアをくぐると顔馴染みの店員さんが、こちらに気づいて声をかけてくれた。軽く会釈を返していつもの席に重たいカバンを下ろす。レジまで行っていつものコーヒーを注文して、ぼーっとコーヒーが出来上がるのを待つ。

 

1年くらい前から、仕事終わりにこのカフェに来るのが日課になっている。同じ時期に、毎日その日やったこととか感じたことをノートに書き出してゆっくり整理するということを始めていて、それができる場所を探していた。遅くまでやっているマクドナルドや居酒屋は落ち着いて自分と向かい合うにはちょっとうるさい。けれど落ち着ける静かなカフェは遅くても夜10時には閉まってしまう。このカフェは駅から少し離れたところにあって静かだし、なおかつ11時まで営業しているというなかなか例を見ない好条件のお店だった。

 

通っていると、だんだん店員さんの顔も覚えていく。この人新しく入って来たなーとか、この人落ち着いてるな、歴長いのかなとか。勝手に想像を膨らませるのも楽しい。店員さん側もほぼ毎日来る変わった客の顔を覚えてくれたらしく、コーヒーを作ってくれる僅かな間、話しかけてくれたりこちらから話すようになった。

今日コーヒーを入れてくれる彼は学生さんで、今は就活の真っ最中なんだとか。たまに私服でここに勉強しに来ているのを何度か見たことがある。それを見て懐かしくなったり、自分のあまりにもいい加減な就活時代を思い出して苦笑いしたり。そんなことを考えているとコーヒーが出来上がった。こぼさないようにゆっくりと自分のテーブルまで運んでいく。席について一息ついて、ゆっくりカップに口をつける。

 

自分はカフェが好きだ。というより好きになった。最初にカフェと名前につくところに行ったのは、確か中学生の頃だったと思う。姉に一緒に勉強しようと誘われ、スターバックスに行った。おしゃれな内装と、知らないコーヒーの名前ばかりずらっと並ぶメニューボードと、店員さんの徹底された接客スマイルと。「うわぁ、なんか場違いなところ来ちゃった…」というのが最初の感想だった。ださい学生服の男子校生にはおしゃんてぃーすぎるわ、と。

 

その後姉と一緒に何度か行くようになって、手のひらを返したようにすっかりカフェに慣れた自分は、一人でも勉強しにそのスタバに行くようになった。少しガヤガヤした店内でイヤホンを両耳に突っ込み、自分の世界に入って勉強できるのは心地よかった。学校でも家でもない、日常から少し離れた場所で、自分ひとりになりたい人のためにカフェはあるのかもしれないなと思った。

 

その後国内・海外問わずひとりで旅行に行くときはよく現地のカフェに訪れるようになった。特に記憶に残っているのは、カンボジアのシェムリアップで行ったとあるカフェだ。猥雑な路地の中で、場違いなほど目立つスカイブルーの建物。暑さに参って店内に飛び込むと、外観同様ポップなパステルカラーの壁。1階の注文スペースで飲み物と料理(確か麺類だった)を頼んで、2階の飲食スペースに登るとなんとくつろげるソファまであるではないか!軽快なBGMに、そこで思い思いに過ごす人々。

 

さっき路地の先で行った市場で、豚の足やら頭やらを見てからここに来たから、その差に頭がクラクラした。生と死の匂いの立ち込める市場と、作り物のように清潔に整えられたこのカフェと…。どっちも同居しているのがこの街なんだ。どちらも内包しているのが人の暮らしなんだ。自分はいいとこどりだけをして生きてきたんだな、と心底感じた瞬間だった。

 

「カップかたしますね」

 

店員さんの声で我に帰る。顔を上げるとコーヒーはすっかり冷え、人も次第に少なくなっていた。時計を見るともう10時50分。そろそろこのカフェも閉まる時間だ。

 

毎日このカフェでノートに自分の感情を書き出すことでわかったのは、自分自身のことを全然知らなかったということだ。特に仕事で腹がたつことや煮え切らないことがあった日こそ、ノートに向き合って自分の感情を吐き出していく。そして自分がどうしてそう感じたのかを、さらに考え書き出していく。そうして至る結論はいつもだいたい一緒で、「自分を認めてほしかったから」だった。「なんだよ、結局自分がかまってちゃんだったってことじゃん」とその度に凹んだ。けどそうやってひとつひとつ自分の小ささを認めることは、自分を少しずつ楽にしてくれた。余計なプライドがなくなったというか、変なところで肩肘張らなくなったというか。

 

まあ大体自分の人生で失敗してきたことって、自分の傲慢さとかプライドが原因なんだよなぁと思う。バンドのメンバーの脱退とかまさにそうだった。自分の気持ちばっかり先走りすぎなんだよなぁ、毎回。人の気持ちも考えなさいよ、あんた、と過去の自分に言いたくなることもあるけど、それも懐かしく思ったりする。まあこんなこと書いといて、今も同じようなことで失敗することはあるんですけどね。その度に情けないなぁと思い、またノートにひとつひとつ書いていくのだ。

 

ひとしきり書き終えてノートをカバンにしまう。重たい荷物をまた肩にかけて、さっきの店員さんに「ご馳走様でした」と声をかけて、店を後にした。今日は早くお風呂に入って寝てしまおう。ゆっくりでも強かに日々を泳いでいくのだ。遠くに光る街の灯りが綺麗だった。

初めて歌を作ったときのことを、今でも覚えている。

 

朝、誰もいない音楽室。まだ開いてない黒いカーテンからゆらゆらと差し込む朝日。ずらっと並んだ机と椅子から放射状に伸びる影。「なんか今なら書けるかも」。そう思って何台も立てかけてあったギターから一つを選んで、Gのコードを鳴らした。

 

音楽を聴くことも、歌うことも子どもの頃から好きだった。幼稚園がカトリックだったこともあって、昼寝の時間に流れる「きよしこの夜」がお気に入りだった。小学生になって教科書で習った「勇気一つを共にして」の寂しげなメロディーに子どもながら強く惹かれた。それから高学年になるにつれ、カーステで流れていたスピッツ、宇多田ヒカル、ミスチルが大好きになった。初めてフルコーラスで曲も歌詞も覚えたのは、スピッツのロビンソン。

 

中学生になって、文化祭で「Singing Contest」なるものをやることになった。英語と音楽両方の教育ということで、洋楽をクラスで合唱するというもの。完全に先生たち主導の企画に、男子校の中坊がノリノリになるはずもなく、まあしょうがないか、とクラスのほとんどがなっていた。だけどそこでギターを弾いてくれる人をクラスで募集するとなったとき、自分の中のアンテナが強烈に反応した。「ギターが弾ける!」。そう思って真っ先に立候補した。曲はThe BeatlesのLet It Be。

ギターを弾けることが嬉しくて仕方なかった。その頃、姉に教えてもらったバンド音楽にやられて、ギターに憧れを持っていたから。最初は痛くて仕方なかった指の皮が次第に厚くなっていく。弾けるコード、曲がどんどん増えていく。昨日より今日、今日より明日、上手くなれるのが楽しくて、昼休みだけじゃなく、放課後や朝誰もいない時間にもギターを弾きに音楽室に入り浸った。

 

高校生になって軽音楽部に入ってから、より音楽熱は加速していった。色んなアーティストのコピーをして、そこから曲の構成作りやアレンジの妙を学んだ。2年生になってから自分が主体となれるバンドを無理やり組んで、文化祭で中学2年生以来のオリジナル曲を作り披露した。けど自分しては満足のいくできではなかった。「もっとできるはずだ」。メンバーが抜けて3年生になると今度は後輩をまた無理に誘って、バンドを作った。

 

この頃からだんだん自分と周りの温度感の違いをはっきりと感じるようになっていった。四六時中、好きな音楽や自分が作る曲のことばかり考えていた俺は、周りがそこまでの熱を持っていないことが悲しくて、「なんでだよ!」と勝手に苛立っていた。今ならもうちょっと上手くやれたんだろうけど、17歳の俺にそれを受け入れられる大きな器はなかった。元いたバンドもやめて、逃げるように曲作りに没頭した。

 

そして高校3年生の文化祭。そのとき感じていた居心地の悪さや怒りをすべてぶつけてただひたすらに演奏した。主役に置いたコピー曲はイエモンの「BURN」やミッシェルの「世界の終わり」。オリジナルも2年のときのリベンジも兼ねて、「生き続ける」と「光」という2曲を書き上げ、演奏した。そのライブは今までにない快感で、その瞬間だけ自分が無敵のロックスターになったように思えた。その25分間の快感が忘れられず、今も音楽をやっている。

 

大学生に入ってからも、バンドになったり一人になったり、形は変わっても曲を書き続けて人前で演奏し続けた。今と昔で変わったことがあるとすれば、怒りだけでは曲を書けなくなったこと。あるときもう自分が怒りだけを燃料に走り続けられるほど強くないことに気づいて、愕然としたことがある。曲の書き方がまるでわからなくなり、途方にくれた。そこで初めて自分の弱い部分、寂しや情けなさを素直に曲にすることができた。その殻を破ってからは、誰かのために曲を書いたり、自分でお題を設けて曲を作ることができるようになった。歌詞も随分ストレートに、わかりやすくなった。

 

17歳のときに比べるとエライ変わったと思う。でも今は人を喜ばせるために曲を作りたいという気持ちが強い。理由はその方が楽しいから。そしてそうやって作った曲の方が人が喜んでくれる率が高い、ということに薄々勘付いてきた。「Indiana Indiana」はandymoriが大好きな気持ちが作らせた曲だし、「それをロックと呼ぶのなら」は、中学生のとき初めてロックに出会った時の「何これカッコいい!!!」という想いが作らせた曲だ。歌の書き手としての自分の性質なのかもしれない。愛情が真ん中にある曲の方が人が喜んでくれるのだ。

 

もし、歌を書かなくなる日が来たら…いやないんじゃないかな。何にしたってワンフレーズのアイデアは突然出てくるし、それをまとめて1曲にすることはなくなっても、そのひらめきはなくならないんじゃないかと思う。疲れ切って、何も感じられなくなって、錆びた自分の心に途方にくれたときこそ、えいやっ!と殻を破るように曲は生まれる。そしてギターを手にして、パソコンでリズムを組み立てる瞬間に、目の前に宇宙が広がる。その中を漂って泳ぐ快感を、今も変わらず求めているんだと思う。

昨日熱のことを書いて思い出したのは、祖母のことだ。

 

熱を出して3日目か4日目のこと。祖母がわざわざ夕飯をつくりに我が家に来てくれた。母はちょうどその日から、元々予定していた姉の引越しの手伝いに大阪に行ってしまって、昼間は自分ひとりだった。「輪るピングドラム」の2週目を見たり、部屋に大量にあった音楽雑誌をダンボールにしまったり、それはそれで楽しい時間だった。

けれど広い家に一人でいると、病気で弱った心にひたひたと悪い予感や妄想が忍び寄って来る。そうしてだんだん気分がどんよりしてきたときに、祖母が来てくれて一緒にご飯を食べられたことは、乾いたタオルに水が染み込んでいくように、心を潤してあっためてくれた。毎朝早起きして公園のラジオ体操に行く祖母は、同じように公園に来ている方と仲良くなったらしく、その人から聴いた旅行のエピソードを楽しそうに話してくれた。その話を聞くことは、その人が見てきた世界の街の景色や人生を祖母と一緒にひょこっと覗き込んでるようで、とても楽しい時間だった。

翌日も来てくれて、お腹を壊している自分のためにおじやと白身魚の料理を作って持ってきてくれた。祖母の手作りの料理はとても美味しかった。

 

祖母の家、つまり母の実家は家とそう遠くないこともあり、自分は小さい頃祖母によく遊んでもらった。当時折り紙にはまっていた自分は「ピョンピョンカエル」なるものを作るのが大好きだった。頭が三角のカエルの形をしたそれは、お尻の部分を押して離すと、弾力でピョン!と飛び上がるようになっていて、それを作っては一緒に遊んでもらってた。

中学生になっても、春休みとか夏休みに家だと集中できない宿題をやりに、よく祖母の家に行っていた。勉強に飽きて寝転んだ畳の乾いた匂いと、その向こうの障子から差し込む木漏れ日。おやつの時間になると、祖母がお歳暮でもらった果汁100%のジュースや、牛乳に浸すとふやけて一層美味しくなるお菓子(名前が思い出せない)を出してくれて祖父とともに3人で食べた。そういえば祖父がNHKの「みんなのうた」でBUMP OF CHICKENの「魔法の料理」を聴いて「いい曲だな」とつぶやいてたっけ。自分の好きなアーティストが認められたような気がして、勝手に誇らしい気持ちになったのを覚えている。

 

確か自分が社会人になってしばらくたったとき、何かのきっかけで祖母と二人で映画「この世界の片隅に」を見た。祖母は長野県の飯田という場所の出身で、戦前の生まれだ。戦争中に近くに疎開してくる子供達を見たこともあったという。映画を見終わった祖母は涙ぐんでいた。悲しい気持ちにさせてしまったのかと、罪悪感を感じたけれど、祖母は「一緒にこの映画を見られてよかった」と言ってくれた。家の真っ暗なリビングで真っ白なテレビの明かりに照らされたその涙を、俺はきっと忘れないと思う。

 

一緒にご飯を食べて食器の片付けをしたあと、家の扉から祖母が出て行く。自分はあと何回こんな風に祖母の背中を見送ることができるのだろう。そう考えると、心臓をぎゅーっと握られたように切なくなる。これから祖母はあの坂を下って、今はもう祖父のいないあの家にひとりで帰って行くんだろう。そんなことを思うと涙が出そうになる。どうか無事に帰れますように。そう思いながら、やがて家の影に消えていくまで、祖母を見送っていた。

最近、39度の熱を出した。

 

先々週の火曜日、整体のあと「妙に気分がだるいなぁ」と思いながら、頼んでいた新しいスーツの受け取りや、ずっと観たいと思ってた「万引き家族」を観た。映画館を出たあたりから一気に気分が悪くなり、行こうと思ってた本屋には寄らず、そそくさと家に帰った。家に帰って布団で少し寝て、起きたら体中が熱かった。熱を測ったら38℃。寝る頃には39℃まで上がって、ウンウン唸りながらその夜を過ごした。

目が覚めたら熱は下がっていたけれど、太い釘を頭にずっと打ち込まれているような頭痛と、お腹の痛みは治らなかった。病院で急性胃腸炎と判断され、結局1週間近く休みをもらった。

 

去年2回くらい同じように熱を出したことがあったからなのか、熱の出始めのときも「ああ、またね」とやけな冷静な自分がいて少し可笑しかった。けど、病気は人の心を弱らせる。新しくできた部下の指導や、日々の仕事に張り続けていた心の糸がプツンと切れたかのように、生産的なことをする気がなくなってしまった。けど普段できなかった部屋の整理をしたり、何の目的もなくのんびり過ごすうちに、幽体離脱していた素の自分が少しずつ自分自身に帰ってくるように感じた。

 

熱で休んだ1週間を経て、誰かにとっての自分ではなく自分自身にとっての自分を大事にしたいと思うようになった。4月から部署のリーダーになって「あれをしなきゃ、これをしなきゃ」という責任感に襲われていた。何かを任せてもらえる立場になったのはいいことだ。だけどそれによって、自分が何を楽しいと感じるのか、そのアンテナが少しずつ何に対しても反応しなくなっていった。

 

大人になるのがそういうことなんだとしたら、それはやっぱり嫌だなと思う。中学生のとき、母が仕事から疲れて帰ってくるのを見るのは悲しかった。頑張らなくていいから、好きなスポーツの話をするときのように楽しそうに笑っていてほしいと思っていた。それから学んだのは、どんなに頑張っていても、それをしている本人が楽しくなかったらそれは滲み出てしまうものなのだということ。学んだはずなのに、大人になった自分は同じことを繰り返している。

 

自分が何を楽しいと思うのか、どんなときに魂のヒダが波打ち震えるのか、それをゆっくり観察したい。その瞬間を見つけて、ゆっくり大事にしたいと思うのだ。そうして自分自身をケアして守っていくすべを身につけたい。もう25歳の大人だ。自分の面倒は自分で見られるようになりたい。

 

そう思った、初夏の夜なのでした。

気づけば、夜の公道にひとりだった。

 

バスを降りるとすぐ、冬の張り詰めた空気が、マフラーの隙間から容赦なく肌を刺す。指の先までじんじんと凍らせる寒さが、コートを押しのけゆっくりと体に侵食してくる。吐いたそばから白くなる息が、街灯に浮かび上がる。

 

目的地の温泉まではここから歩いて30分。柏駅から出るバスで行けるのはここまでだ。ここからは、手元のスマホだけを頼りにただただ足を進めていくしかない。さっきまで耳に押し込んでいたイヤホンを外し、寒空の下、少し空を見上げながら歩きだした。

 

しばらく歩くと、住宅街を抜け人気のない小さな森にたどり着いた。どうやらここを抜ける必要があるらしい。入り口に「千と千尋の神隠し」に出てくるようなお地蔵が立っている。夜の静けさや暗闇と相まって、余計この世ならざる気配を増していた。失礼しますと頭を下げて、森の中に入る。時折スマホで現在地を確認しながら森を歩いて行った。

 

しばらくして、遠くの方に街灯が見える。出口が近いのかも!と早足で坂を降っていくと、街灯に囲まれた大きな国道がその姿を現した。道路の向かい側にローソンが見えた。こういうときに見るコンビニの明かりって、なんでこんなに安心するんだろう…。

 

 

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国道に沿って、今度は坂を登っていく。伸ばされた影が街灯に近づくにつれ短くなり、また次の街灯の灯りに照らされ長くなる。影が現れ消えて、また次の影が現れ…その繰り返しをただただ眺めながら、ひたすら坂を登っていく。

 

 

誰もいない寒空の下で、こんな風にひとりになれるのが心地よかった。自分が誰なのかとか、どこに所属しているのかとか、そういう細かいもやが、この夜の風にさらわれて、静かに、静かに消えていく。ここに来られてよかった。いつか聴いた歌の一節が、胸をよぎっては消えて行く。

 

 

ーいつも通り夜はやってきて、君と僕も離れ離れだよ。ー

ー誰にもわからないようなスウィートスポット、あの彗星に連れて行かれたよ。ー

ー誰にも見つけられない星になれたら。誰にも見つけられない星になれたら。ー

(誰にも見つけられない星になれたら ーandymoriー)


 

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無事温泉にたどり着いて、心いくまで湯に浸かった。風呂を出て、ご飯を食べて好きなニコ生番組のアーカイブを見ながらボーッとしていた。それにも飽きて、元の服に着替えて、温泉を後にした。我孫子駅まで30分くらい歩いてようやくついて、柏のホテルまで着いたら、寝巻きに着替える前にすぐ寝てしまった。

 

夢うつつのなかで、次の日のことを考えていた。映画を見るまでどうしようかな。カフェでのんびりしようかな、それとも少し遠出するか。でもほんとは何だっていいのだ。ただただ気持ちを楽にしたい。そうできる素敵なことが待ってますように…。そう思って、深い眠りの中に落ちていった。