atsuchanの空想旅行 ~旅路の果てに~

atsuchanの空想旅行 ~旅路の果てに~

心理カウンセラー、認定心理士、心理相談員、介護福祉士と色々資格を持ってます。4年間で資格が12個増えました♡(>◡<)♡

日々に起きた出来事を書いていきますよ(≧∇≦)



キャスで色んなことやってます。見に来てください!

http://twitcasting.tv/atsuchan2010

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オタ活も長くなったな〜。

色んな演者を見てますが、

おーと思う演者もいれば

そうでない演者も…。

色々見てると奥が深い。

そして今は他を探すというか

捕まえますよ。現行犯でね!
まだ去年。仕事はあるけどなかなかやりたいのはない。更には障害の方で失業保険ももらっていて、相談に乗っているので
介護の仕事はごくわずか、しかも遠い。
ナビゲーターは「長く仕事を続けて貰いたい」僕もそうだ。
でも一般だと続かないのをナビゲーターは懸念している。
さあどうしよう。
両方で活動しよう。一般は一般で介護、心理の分野、障害は事務が多いので事務でもいい。とにかく仕事に就きたい。
その一心だった。1月になると来期4月からの仕事が出てくる。
たまたま障害枠で一般事務補助があり、さらには公務というのがあった。電車で1本だし。
ここにしよう。金額は休めだけど
とにかく1年働いて考えてみよう。
でも今の介護の方からストップが
やっぱり人不足なんです。
抜けられるとキツイと言われたのもあり。
それでここを選んだのもある。
書類を出し、結果を待つ。
それを10通以上。そのうち返信があるのは2〜3通。
面接に行って分かるのは書類に目を通してなかったり、人の封筒の中にドサっと入れているのは論外。
そんな所には行かないし、いい仕事なんて出来ないから。
ちゃんと質問に返してくれないと。
意外と少ないです。
障害枠で内定を貰いました。
2月半ば、まだ他の所も受けてましたが、早く結果が欲しいと。
なので事務をやろうと。
初めてだけど、やれるはず。
自分の力を信じて。
それからはダブルワーク。暑い時はキツかったけど。
最初は仕事も順調だったし、やりがいもあった。
ただ会社自体には不穏はあった。
また異動。異動先が近くて遠い。
更には、仕事をしても評価はされない。
そんな中、介護福祉士の資格をゲットした。始めての国家資格。これでやる気も半減したのかもしれない。
介護福祉士があれば、介護のところでは
ほとんど出来るし、給与も上がるから。

利用者ありき仕事と思うのに、
それをないがしろにする会社。
更にはいわれた通り仕事して
文句言われる。
また病気が再発してしまった。
面倒なのはゴメンなので
正直に病気のことを話した。
なんの仕事をしているのか分からないし
社内メールとガラケーのメール
社内に従っちゃいけない!
聞いてもいけない!
仲良くなってもいけない!
そんなんで連携なんて出来ないし。
ガラケーはうちの会社のメールで
ショートメールで90文字って。
この後に及んでショートメールじゃ
伝えられないでしょ。
毎回バンバン打って。
打たないと怒られるし。
いくら給与が良くてもダメだなって。
人を人としてみない。実績もそうだが
何より人でないといけない。
8キロ痩せた。障害の理解もない。
そんなんで福祉業は出来ない。
ただ手帳と体調不良で辞めたので、いつもより多く失業日数が出た。
まずは気持ちと体力の回復を。
そしたら今度はデイサービスの方で問題が。
あの、頼まれてきたのに、なぜ文句を言われなくちゃならないの?
人が少ないというから言われたのに、事務とかやってくれたらって。
倒れられても困るし。いつ僕が3年間やってて倒れましたか?
バカにしてんじゃないか?
資格についても言われましたよ。
資格だけあっても活かせないと。
活かし方知らないし、内部事情を非公開にしてるからタチが悪い。
こっちから願い下げしました。
二度と敷居を跨がないって。
ということで、3年半働き、辛いスケジュールやって、感謝もなく、あっけなく終わりました。
知識はいらない、と言われたので。
バカばっかりな会社にいても、自分が成長しないし。
その話を今の所でも話してます。
そこは失業保険のことや障害のことも話してます。
失業保険を貰いながら、軽く働く。それが回復へと繋がると思ったから。
2015年、今年は正月も休めると思ったら友人が「実務者研修を受けないか?」と言われる。1月は心理相談員の資格で5万飛ぶのに、さらに7万とぶのか。
悩みに悩んで結局受けることに。介護福祉士の試験の実技免除になるのは大きいが
金額も大きい。正月はこの自宅学習を3日で仕上げる。
3回、通った。東京だったが、アクが強すぎるし、とてもじゃないが、考え方が違うし、生き方が汚い。それがわかるのだ。
後は振替して埼玉で受けることに。埼玉は全然違う。こんなにも違うのかと思うくらい。人は尊敬してナンボだ。
先生は僕が心理士というのを話したら、相手がどう感じるかを考えることを教えてくれた。いい勉強であった。
もう何もない、と思ったら行動援護の資格を取れと会社から命令があった。しかも自腹。
僕は反発した。
資格は自発的に取らなければ意味がないのだ。
取らされた資格は価値がないのだ。
なので最初は断ったが、強制なので腹が立ちながら、反発しながらやってた。
こんなのは初めてだった。
まだガイドヘルパーの方が価値がある。
ただ2回は東京で受けたが教室が狭い。
やっぱり埼玉なのだ。いいのは。
こんなこともあったが、デイサービスの非常勤だけでは、とてもじゃないが、足りないし、心理士の資格を活かしたいと思い、就活をして10月から生活支援員として働くことに、デイサービスは入らなければ切っていいよと言ったにもかかわらず、何も答えない。どっちやねん。
結局ダブルワークしながら、介護福祉士の勉強をしながら、そんな感じでこなしていた。研修2ヶ月は新宿で、12月は川崎で。
この時はまだ良かったと感じた時だった。
僕が学んだのは心理学だけではない。
youtubeでも学んでいた。
かつて人気になったマネーの虎。
その社長さん達の考え方を学んでいた。
社長というのは色んなことを考えていなければならない。売り上げだけでなく人間を上げていくやり方など、参考になることが多かった。

2014年も正月返上でレポート。しかもデイサービスが朝から晩まで。しかも2週間に1度しか休みがない。
スクーリングもあるし、仕事も勉学も中途半端になる。そして減薬をしようと思い新しい薬を飲みことに。その反動が出ることは分かっていたので、仕事を離れようと、ただ籍は残しておくかどうかと聞かれたので、どちらでも良かったし。ただ名前があればいいのかと安易な考えで。
4月からは新しい薬を入れたが、凄かった。反動がすごい。肝臓がぱんぱんになる感じで肉も食べれない。ずっと寝込んでいたが、最後のテストの為にやらなければ。
5月にテストだが全く自信がない。
ただその為に仕事を辞めたはずだったが…。
その後も何度かデイサービスから電話やLINEが。
なぜか、ドライバーがいないんです。
家を覚えるというのは車を運転出来るだけではダメで、それを瞬時に覚えたので。
それが週1からどんどん増え、結局、何もなかったようになった。夏には別の仕事が増えた。スポットだったが、中学生の介助員を5日間だけやってほしいと。
ただものすごく後悔している。
それまで幾度となく食事に行った友人が亡くなった。3週間前まで何も無かったのに。
急死だったが、その週に葬儀をやるということで。周りは行けるかも知れないが、僕に代わりはいないのだ。どうするこうするを言われていらいらする。
どうすることも出来ねーんだよ!といった。
人の気持ちを分からない人間が多い。

結局祈るしか無かったし、卒業にはこぎつけられた。これで、認定心理士も児童心理司も手にした。
そんな波乱な2014年は終わった。
訪問介護も1月のみになった時に真ん中の姉は引っ越していった。やっぱり昔住んだ所がいいと。それに旦那さんも職場までの通勤が辛そうだったから。
これで家には1人になった。
デイサービスは良かったけど電車だと遠いし、車だと駐車場代が高い。
そして何より看護師と合わないのが決定的だった。どちらにしても2月、3月はスクーリングだから、それを理由に辞めた。
今度は他の友人から児童のデイサービスをやらないかと言われる。
ちょうどスクーリング中だったけど。
障害って分からなかった。
結構奥が深いって思ったけど。
ガンガン入ってたし、居宅にも出た。ただ学業最優先なのは変わらないし、テスト前には休みを取る。1日だけ。
でもテスト前には体調を崩す。
それでテストを受けての繰り返し。
そんなこんなで2013年は終わったのだ。
大学は楽しい場所。
本当は1ヶ月の期間だけだったが、忙しいらしくもう1ヶ月仕事をお願いされた。
遠かったけど、それはそれで働ける喜びを味わった。ただ家のことが完全に終わっていないことにまたしても1番上の姉が出て来る。
人は亡くなると遺産相続や財産分与とかある。生前、父親は1番上の姉には残さないといってはいたが、財産分与を分けないことで、人が使い込んでいると思われたこと、僕の病気の原因、真ん中の姉が病気になりそうだったことに関して、激しく対立した。そして、自分から縁を切っていった。金はちゃっかりしてる。
そうはいっても僕にもこれからのことがある。
単発のバイトをしつつ、ハロワに通う。
その中で雇用対策でヘルパー2級の資格が取れるというのが、あった。実は2011年も応募したが、父親のことがあり、出席は難しく落選になったので。今回は絶対取りたいと思って説明会にも行った。
心では分かっていても父親を落とされたのには納得がいってなかったから。でも資格がない人間が何を言っても通用しない世の中だと思うし。
結果は通過。3ヶ月間、頑張れば資格はとれる。少し視界は広がった。
実際はこれが1番デカかった。
心配は身体だけ。それだけだった。
3ヶ月通って学んでいるうちに介護は気持ちや声掛けが必要と考え、心理学の大学に行くことを決めた。今、出来ることをやる。働きながら、勉強をしようと。
知識がなければ何も語れないのだ。
ヘルパーの資格を取った時には人目を憚らず泣いた。何はともあれ資格の重要さが分かっていたから。
その1ヶ月後、訪問介護に働いた。
この時は病気のことも話していた。
最初は順調だったが、出来ないことがあると障害のせいにされてしまうのが悔しく、回数も減らされてしまった。
もう無理かなと思った時に介護の時の友人に高齢者デイサービスをやってみないか。と言われた。ただ遠かったけど。
こうして渡りながら、夜には通信教育の大学のレポートやスクーリングに出たりしていた。
僕には姉が2人いるが1番上の姉とは
全く合わなくて、よく衝突した。
やり方が気にくわないとかケチをつけたがるのだ。人の段取りより、自分の考え。
これが絶対であって自分がミスした時には棚にあげる。
それが許せなかった。
確かに大阪から出て来るのは大変だけど
寝てないとかは自分の不摂生が悪いわけで
とりわけ父親とは合わなかった。
だからというわけではないが
真ん中を取り持てる僕がやった方が無難かなと。うちらだって転院して。1週間で亡くなるなんて思わなかった。それくらい元気ではあったから。
それが納骨の問題もケチをつけた。
父親は宮崎出身なので分骨にしたらどうか?バカな。身体が2つになって納骨したら供養も出来ない。
勝手に自分が周りを引き連れて何かやろうとしてたので、それは任せた。
それでもケチをつける。
葬儀で悲しんでいる場合でもない。手続きもある。
全て終えて、残すは法務局のみだけを残し、短期間の働きに出た。
もう後ろで支えてくれる人はいない。
働かないと食べてはいけないのだ。
そんな中、派遣の仕事をしていた。
時折、息苦しくなるのはパニック障害と診断された。
急に予期もなく起こるから辛いのだ。
なんでもセロトニンが入りすぎて過剰に感知するらしい。
そんな中、父親の手術があった。予定の3時間が過ぎても出てこない。
主刀医から呼ばれた。
胃の摘出は出来たがその下の腸に腹膜播種といってガンが飛び散っていてそれは取れないらしい。
もうステージ4と分かっていたけど、手術は行った。胃の全摘と胆嚢の全摘。
写真も見たがボロボロだった。
胃を取ったわけだから当然食べれない。
栄養の取り方を教わり、作った。2週間すれば抗がん剤治療だから、それまでなら。
料理は得意だし。真ん中の姉と交代で作って、再入院。ここまでは予定通りだった。
いつから始めるか?
先生はそれを決めたかったが、食べれないので栄養が行き届かず点滴も無理。
なので、胸に簡単な手術をして栄養と抗がん剤を入れる。さらに悪化した時には先進治療の免疫の血液を採取して培養してあるのを投与する。
これが、決まっていた。
だが、入院した棟が悪かった。
食事は出さない。看護師が勘違いしていてさらには見守り不足で、その手術の日の朝に父親が震えているのでおかしいと思い、看護師を呼んだら、誤嚥性肺炎を起こしていた。
決定打だった。医師からは催促が来る。ただ僕だけでは決められない。最後は父親の意思を尊重するしかない。
ギリギリまで待った答えはやらないという答えだった。
そして一度家に帰りたいとのことで先生と相談した。1日だけ外泊許可が出て、車で帰り、車椅子で自宅へ。何をするわけではない、ただぼんやりテレビをつけて見てるだけ。その時に父親は悟ったのかも知れない。
母親の時もそうだったから。この風景を焼き付けておこうと。
帰りの車では戻しながら、病院へ。
でもまだその時は元気だったから。
ただ転院先を探さないといけない。
遠いのはつらいということで
近場の所に転院した。
これが1番良くなかったかも。
ベッドに移乗する際、女性2人で担ぎ上げて、滑ってベッドに落とされた。
介護士は笑ってた。
そして看護師は心拍、血圧計や吸引を強引にやったり。あれで、大量の血が出たのだろう。1週間後、父親は亡くなった。
姉は普段泣かないのに泣いた。
僕は泣けずにいた。
まだ終わりではないから。
なんとかトレーニングして車にも乗れるようになった。大地震も起き、電力セーブしながら、PCもつけず、ひたすらラジオを聴いていた。
5月に悪夢。
父親が病気になった。
近くに住んではいたものの、あまり行ったりはしなかった。
この頃、父親はご飯が通らないと言ってたらしいが、人には言わないのだった。病院にも行かない。古い人間だから。
僕もそうだったし。
さすがに職場の施設長に言われしぶしぶ
病院へ。結果は転院して検査とのことだった。
なんだこれ、なんか変だぞ!
医師だけが病名を知っていて
「大変だけど頑張って!」
なんだ、大変って?
知らされぬまま、東大病院へ入院となった。
検査の後、胃がんと分かった、しかも噴門の所が塞がれて、ほとんど空いていない。
これでは内視鏡も通るはずはない。
結論としては手術で胃の全摘と脾臓、胆嚢を摘出が必要になった。
ここで初めて胃がんと分かったのだ。
しかも手術の3日前に。とらなければ3ヶ月しか持たないと。
先生は知っているものだと思い、当惑していた。父親も悩んでいた。
先生は軽く、とりあえず取り除けば回復しますよ。というが、今、胃がんですと言われて、決断なんかなかなか出来ない。
何かをかけなければ、打開出来ない。
「手術したら、後は全部、僕が見るよ。」
その一言だった。僕もまだ療養中。出来ることは限られてる。それでもやるんだと思って。
それから日本医科大と東大の往復が始まった。