戦争  みえないところで真実は始まる  通化事件 (1) | サファイアのブログ

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終戦も押し迫った昭和20年8月、ソ連の150万の大軍団が、満州国国境を越えて攻め込んできたのです。

石頭予備士官学校があった東京(とんきん)方面に向けられたソ連軍は、航空部隊や戦車部隊を含めて約50万。
メレンコフ元帥が直接率いたこのソ連部隊は、歩兵4師団、十二個狙撃師団、戦車二個師団、十五個国境守備隊、大隊砲3500門、ロケット砲430門、戦車約1000両、他に空挺部隊を保有する、ソ連の最強軍団だった。

これを迎え撃った石頭予備士官候補生たちは、わずか3600名です。
歩兵銃も乏しい、火力としては数少ない重機関銃があるくらい。しかも弾は乏しい。

そんな状態で、彼らは圧倒的兵力を持つソ連軍に立ち向かいました。

会戦地に向かう予備士官候補生たちは、途中でトラックの荷台に詰め込めれるだけ詰め込まれた満州北部の在留邦人の避難民たちとすれ違います。
ほとんどが女子供だった。

彼女たちは、トラックの荷台の上から、
「お願いしま~す」
「頑張ってくださ~い」と、悲痛な声で叫んだ。
そして祈るようなまなざしを向けた。

今日のお話しは、そんな婦女子たち避難民が、その後どうなったか、という物語です



かつて、満州国に、通化省通化市という街がありました。
場所は、いまの北朝鮮と支那の国境付近です。

終戦時、通化市は、中華民国(蒋介石・国民党)政府の統治下に置かれていました。
満州北部から戦災を逃れて避難した邦人達は、日本に帰国するため、いったんここに集まった。

その数17000人です。

石頭予備士官候補生の戦いにあるように、男たちが必死に命を犠牲にして時間稼ぎの戦いをしている間に、みんなで避難してきました。

しかし、彼女たちは、無事に落ち延びることができたわけではありません。

落ちる途中で、支那人や朝鮮人たちによって、ようやく持ち出した手回り品やわずかばかりの財産全部を奪われた。
暴行も受けた。
強姦被害に遭った。

厳寒の地で衣類さえも奪われ、麻袋に穴を空けたものをわずかに身に着けただけの半裸の姿で、ようやく一定の治安が保たれた通化にたどり着いたのです。

そこに昭和20(1945)年8月24日、ソ連軍がやってきた。
将校20人、兵士200人です。
彼らは市内の竜泉ホテルに司令部を設置した。

将校たちといえば、立派な人を想像するかもしれません。
ところが、この連中は最悪だった。

日本人居留民の家屋に押し入り、財物や衣類を奪い、奪うモノがなくなると、日本人女性や少女を強姦し、抵抗する男性や老人は平気で暴力をふるい、殺害した。

武装解除されたとはいえ、通化市にはごく少数の日本軍憲兵隊がいました。

原憲兵准尉は、ソ連兵が白昼の路上で日本女性を裸にして強姦していた現場に駆け付けた。
女性を救おうと制止した。
しかし銃を持っていず、体の小さな日本人憲兵など、武装したソ連兵たちは、ただ笑い者にするだけです。
原准尉の制止を完全無視して、強姦をやめなかった。

准尉は、やむなく軍刀を抜き、その強姦兵たちを一刀のもとに斬り捨てました。しかしその場で原准尉は、別のソビエト兵に射殺された。

この事件以降、日本人は、憲兵といわず民間人といわず、日本刀まで没収されます。

完全に丸腰となり、身を守る術を持たなくなった日本人遺留民に対し、ソ連の軍司令部は、公然と日本人女性を慰安婦として供出せよと命じました。

ご存知の通り、朝鮮半島における従軍慰安婦などというのは、まったくのデタラメな捏造でしかありません。
朝鮮人の女衒たちが、同国人の女性をさらって独身男性が大量にいる日本軍兵舎横で売春宿を開いていただけの話です。

売春が合法だった時代です。
ですから日本兵はちゃんと金を払って彼女たちを買っていました。

当時、日本兵の給料が将校クラスで25円、兵隊クラスで15円です。
その時代に、朝鮮人売春婦たちは、2年もすると3~5万円の貯金ができたといいます。

当時のお金で3~5万円というのは、いまの貨幣価値にしたら3~5億円の大金です。ですから一家の女の子が日本人相手の売春婦になるというと、当時の朝鮮人は、一族をあげて大喜びしたくらいです。

しかも日本は、彼女たちによって性病がまん延するのを防ぐために、公費を使って彼女たちの健康診断までしました。
ついでにいうと、当時荒稼ぎできた成功体験から、韓国ではいまでも売春がさかんです。

韓国で床屋に行くと、マッサージ嬢というのが出てきます。
売春婦です。
男性が髪を切っている間、その女性が男性の下半身の世話をします。
それが床屋の「サービス」になっている。
いまだにそんな習慣が残っているというのは、ひらたくいえば、彼ら鮮人たちにとって、売春が国家的成功体験になっているということです。

世界の常識は日本の常識とは異なります。
戦いに勝てば、負けた側の財産や女を略奪し放題にする。
それが兵士たちの稼ぎになるというのが当時の世界の常識です。

白ロシアという地名があります。これはベラ・ルーシュの訳です。ベラというのは処女の意です。
つまり白ロシアというのは、処女のロシア(ルーシュ)という意味の地名です。

なぜそういう地名になったかというと、かつてモンゴルが攻めてきたとき、湿地帯である白ロシア地方は、馬での交通が不便だったために、その地を避けて通った。
そのため、そこの地は強姦被害に遭わなかったから、ベラ(処女)ロシア、と呼ばれるようになったのです。

負けた側に対しては、何をしても許される。
それが世界の常識です。
私たち日本人の感覚とはほど遠い。

ですから日本が朝鮮半島を侵略し、朝鮮人女性をセックス・スレイブ(性奴隷)にしたといわれると、大陸の人たちは、なるほど、と簡単に信じます。
それが彼らの常識だからです。
しかしそれは、彼らの常識であって、日本人の常識ではない。

しかし、もし日本人がそういう非道を行う人種だったら、台湾でも、南洋諸島でも、東南アジアでも、かつての大日本帝国の版図になっていた地域には、必ず性奴隷がいて、現地人と日本人の混血孤児が大量に生まれていたはずです。
けれど、そういう話は、まったくありません。
なぜか。
日本人は、そのような非道をしなかったからです。

話が脱線しました。
ソ連の通化市への進駐軍は、日本人から武器を奪い取るだけでなく、女性の供出を求め、さらに日本人が外部の情報を得ることがないように、ラジオを全部没収します。

さらに支那共産党軍は、ソ連進駐軍の下請けとして日本軍の脱走兵狩りを行い、男性600人を検挙し吉林へ連行した。

つまり、通化市を、日本人の女子供と老人ばかりにしたのです。

ソ連軍が撤退すると、通化の支配を委譲された支那共産党軍は、通化市の市役所の幹部職員全員を連行しました。
そして旧満州人の役人全員を殺害します。
つまり通化市の行政機能を奪ったのです。

それが済むと、次は「清算運動」と称して、旧満州人たちの民家に片端から侵入し、金品を掠奪します。

昭和21(1946)年9月22日には、共産党軍が、公式な国際的連合国軍であった中華民国政府軍に攻撃を仕掛けます。
そして、通化市から中華民国軍を追い払った。

10月23日になると、支那共産党軍の一個師団が新たに通化市に進駐してきます。
11月2日には、支那共産党軍劉東元司令が着任します。

そして同日付けで、支那共産党軍は、17000名を超える日本人遺留民に対して、収容能力5000名以下しかない旧関東軍司令部へ「全員、移動せよ」と命令した。

移動した日本人遺留民に対し、支那共産党軍は、即日「遼東日本人民解放連盟通化支部(日解連)」の設立を命じました。

日解連というのは、日本人に対する中国共産党軍の命令下達や、日本人への共産主義教育を担当する支那共産党の下請け的な共産党組織です。

このことは大事なポイントなのですが、およそ民族支配をしようとする者たちは、必ず民族の分断工作をします。

欧米列強が東南アジア諸国を支配するに際して、最貧層だった少数民族の華僑を利用したり、日本を占領したGHQが、在日朝鮮人を利用して武器を与え朝鮮進駐軍を名乗らせたのも、そうした分断工作のうちです。

満洲の通化でも、日本人遺留民の分断工作のために、支那の共産主義を受け入れる者にある種の特権を与え、同民族同士での分断工作が行われました。

それが日解連だったわけです。

日解連は、日本人のスパイとなり、支那共産兵に、どこぞの日本人宅には、これこれの財産がまだ隠されている、誰々の家には、美人の娘さんがいるなどの情報を、支那共産党軍に与えます。

日解連は、支那共産党軍の指示に従い、日本人遺留民の財産を全て没収しようとします。
これに対し、日本人遺留民たちは、正々堂々、最低限の衣類や食糧の確保の嘆願を続けます。

すると支那共産党は、没収を見合わせる条件として、日本人全員が共産主義者になることへの誓約を要求しました。

11月17日、支那共産党に応じない元満鉄総裁の大村卓一さんが、満鉄総裁であったことを罪状として逮捕、投獄されてしまう。

この間も、支那共産党の兵士たちは、武器捜索を名目に、日本人の家屋に押し入っては、略奪・暴行・強姦を、連日続けています。


12月23日、日解連の通化日本人遺留民大会が、通化劇場で開催されました。
劇場には、中国共産党万歳、日本天皇制打倒、民族解放戦線統一などのスローガンがおどっていた。

大会には、劉東元司令を始めとする支那共産党の幹部が列席し、日解連幹部らも檀上に勢ぞろいした。
そこに日本人遺留民3000人が出席します。

議長は、日解連幹部で元満州国官吏の井手俊太郎が務めます。
彼は、「自由に思うことを話して、日本人同士のわだかまりを解いてもらいたい」と、冒頭に発言しました。

日解連幹部たちは、自分たちのこれまでのやり方の手ぬるさの謝罪が行われ、「我々が生きていられるのは中国共産党軍のお陰です」などと、連日乱暴狼藉を働く支那共産党に媚びた発言がなされます。

しかし発言を求められた日本人遺留民たちは、その席で、日解連を堂々と非難したのです。
そして明治天皇の御製を読み上げ「日本は元来民主主義である」などの発言を、次々に繰り広げます。

そして山口嘉一郎老人が、
「宮城遥拝し、天皇陛下万歳三唱をさせていただきたい」と提案しました。

会場に、満座の拍手が沸き起こります。
議長が苦い顔で、賛意を示す者に起立を求めました。
会場のほぼ全員が起立した。




中国八路軍のことごとに理不尽な暴圧に堪えかねた旧日本軍の一部と、在留邦人の中の抗議派の人々が、国府軍と手を組んで、ついに立ち上がった。

その中心人物は藤田大佐で、かつて戦車隊長として雷名をとどろかせた猛将として有名だった。
昨年6月、通化にやってき今利中将ひきいる第百二十五師団の参謀長だった。

この人たちが、どのような手段で決起したのか知る由もなかったが、総勢、約千名が、2月3日の未明を期して一斉に蜂起した。

それは暴動のようなものではなく、それぞれ攻撃目標を定めた組織的な反乱だった。

しかし、たのみの国民党軍は呼応しなかったし、同時に立ち上がる予定の航空隊は、八路軍(支那共産党軍)の先制攻撃を受けて参加できず、それ以上悪いことに、反乱軍の動きは、八路軍のスパイによって探知されていたため、奇襲攻撃はことごとく失敗に終わった。

部分的に要所を占領した部隊もあったが、それも数時間で壊滅してしまい、敵弾にたおれ、傷ついて捕虜になった者も多く、壮絶な戦死を遂げた者もすくなくなかった。

この反乱は、わずか数時間の後に完全に鎮圧されてしまった。

血に彩られた旧正月の朝は明けた。
おびただしい死体が各所に散乱していた。

この事件は八路軍に大きな衝撃を与え、日本人に対する怒りは頂点に達した。
これは日本人弾圧の絶好の口実となった。

やがて恐ろしい報復が行われ始めた。
元旦を祝って家族がささやかな朝食についたとき、八路軍の兵士が侵入し、夫たちを引き立てて行った。

通化市内では、16歳以上60歳までの日本人男子は、ことごとく八路軍兵舎その他に集合せよと眼入れされた。市内は恐怖のるつぼと化した。

八路軍側は、抗戦派だけでなく、すべての日本人に対して、仮借なく復讐しようとしたのである。
この反乱にまったく無関係の者も、反乱に反対だった者も、ほとんど差別されなかった。

とくに兵舎の前に集合させられた数百名の日本人は、身震いしておののいていた。
そこにひとりの将校があらわれて、絶叫するように叫んだ。

「今朝、日本人を主とした反乱軍のために、わが軍は多大の犠牲を受けた。諸君は同胞として、その罪を免れることはできない。わが軍は報復として、ただちに諸君を銃殺に処する」

その瞬間、兵舎の窓から十数台の機関銃が一斉に火を噴いた。みるみるうちに、ばたばたと倒れた。

重傷を負って死にきれない者に対しては、容赦なくピストルが撃ち込まれた。

死体は待機していたトラックに次々と積み込まれ、一部は渾江の橋の上から凍結した川面に投げ捨てられ、一部は近くの谷間に投げ込まれた。

逮捕拘引された日本人は、およそ三千人に及び、元憲兵隊の監獄や、公署の防空壕の中に分散監禁された。

監禁された日本人は、狭い部屋に何十人も押し込まれ、身動きすらできない中で大小便垂れ流しのまま5日間もの間立ったままにされた。

苦しさのあまり「出してくれ」と叫んだ者があると、銃弾が撃ち込まれてくる。
発狂する者もあれば、中には立ったまま死んだ者もあった。

しばらくして取り調べがはじまると、ひとりひとり引き出され、反乱軍との関係の有無を詰問される。
そのとき態度が悪かったり、言葉に詰まったりすると、こん棒や革のムチで容赦なく、力いっぱい打ちのめされた。

その場で悲鳴をあげて倒れる者、全身を殴りつけられて意識を失い、ついに動けなくなった者も少なくなかった。

そうすると、そのまま戸外に放り出されてしまう。
酷寒二月のことである。たちまち寒気のために不動のまま凍死してしまった。

やがて材木のようにトラックに積まれ、谷間に投げ込まれる。

するとどこからともなく貧民が集まってきて、硬直した死体から着衣をはぎとってゆく。
全裸の死体は、荷物のように運ばれて、渾江の橋の上から投げ込まれる。
これが毎日のように行われた。

なんという地獄絵図だろうか。

一週間目ごろから、ぽつぽつ釈放者が出るようになったが、帰って来た人も、無傷な人はいなかった。
手を折られた人、足を折られた人、杖にすがってやっと家にたどり着いた人。
帰ってからも発熱のために苦しむ者。凍傷のため、廃疾者同然になった者などが大部分で、五体満足で帰って来た人はわずかであった。

抑留中は精神に異常をきたし声を出すものなどが続出したが、そのたびに窓から銃撃され、窓際の人間が殺害されました。

殺害された者はそのまま立ったままでいるか、他の抑留者の足元で踏み台とされました。
また、数百人が凍傷に罹り不具者となりました。

拘束から5日後、部屋から引き出されると、朝鮮人民義勇軍の兵士たちにこん棒で殴りつけられ、多くが、その場で撲殺されました。

撲殺を免れたものの多くは、骨折した手足をぶらぶらさせていました。

その後、支那共産党軍による拷問と尋問が行われ、凍結した川の上に引き出されて虐殺が行われました。

女性にも多数の処刑がされました。

渾江川の上には、服をはぎ取られた女性の裸の遺体が転がっていました。

男たちが拘束されている間、支那共産党軍の兵士たちは、日本人住居に押し入り、家族の前で女性を強姦することもあり、凌辱された女性の中には自殺するものもありました。

事件後、3月10日になると、市内の百貨店で支那共産党軍主催の二・三事件の展示会が開かれました。

戦利品の中央に、蜂起直前に拘束された孫耕暁通化国民党書記長と、2月5日に拘束された藤田実彦大佐が見せしめとして3日間に渡り立たせられました。

3月15日に藤田大佐が獄死すると、遺体は市内の広場で3週間さらされました。

渾江(鴨緑江の支流)では、夏になっても中州のよどみに日本人の虐殺死体が何体も浮かんでいました。
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日本は良くない国だ、という人たちがいます。
支那と仲良くすることが良いことだと言う人たちがいます。
支那、朝鮮、日本を東アジア共同体として、ひとつの国にまとめあげようという人たちがいます。

しかし、実際にそうなったときの実例が、通化事件にあります。

そんなことは何十年も昔の話だろう、という人もいます。

しかし、天安門事件、あるいはウイグル弾圧、チベット弾圧等々。いまも昔も、支那共産党はなんら変わらない。

家庭を守る。それは夫ならあたりまえに思うことです。
家族の平穏と安全、子供たちがすくすくと育つ環境。平和な社会。
それは、私たち普通の市民が、普通に思う心です。

しかしそうした家族の平穏、安全、社会環境、平和の一切は、国家がきちんとしていてはじめて成り立ちうる。私たちはそのことを決して忘れては行けないと思うのです。

国を失うということ。
それがどんなにみじめでたいへんなことなのか。
通化事件は、そのことを、私たちに教えてくれています。

私たちは、絶対に日本を失っちゃならない。
日本をもっと大事にしなきゃならない。
この国を守るために、必死に戦ってくれた先人たちに、もっと深く感謝しなければならない。
そして未来のために、私たちの子や孫のために、この日本を守り抜かなきゃならない。

ボクはそう思います。
みなさんはいかがですか?

そして高らかに、宮城遙拝と天皇陛下万歳三唱が行われた。

万歳のあと、山口老人は、

「我々は天皇陛下を中心とした国体で教育され来たので、いきなり180度変えた生き方にはなれません。ですから徐々に教育をお願いしたい」と述べます。
それはきわめて常識的な発言だった。

大会は、日本人有志の正々堂々とした発言で会場を取り仕切られました。
しかし、その日の翌日以降、大会で発言した者は、全員、支那共産党によって連行され、殺害されてしまいました。


大会から1週間が経過し、年が明けた昭和21(1946)年1月1日、支那共産党の工作員であった内海薫が、殺害されます。犯人はわかりません。

1月10日、支那共産党は、日解連幹部の高級官吏や日本人遺留民の指導者ら140名を、内海薫を殺害した容疑であるとして連行します。
そして全員を抑留した上で、日解連も強制的に解散させてしまった。

1月21日、支那共産党は、日本人4名を市中引き回しの上で、渾江の河原で公開処刑します。
日本人たちが見ている前で、彼らは遺体を何度も撃ち、銃剣で突き刺し、ハチの巣にしたうえで、切り刻みます。

日本人遺留民たちの怒りは、徐々に高まっていきます。

そして昭和21(1946)年2月3日、通化事件が起こったのです。

この通化事件の情況については、筆舌に尽くしがたい艱難辛苦の末、やっとの思いでどうにか無事祖国にたどり着くことができた外科医婦人中郷三己枝さん(当時27歳)の手記があります。
まるごとご紹介します。

出典は、高崎弥生氏の著書「実録、遥かなる回想」です。