通州事件に学ぶ   中国の残虐ぶりは世界でも例を見ない | サファイアのブログ

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通州事件に学ぶ



】通州事件に学ぶ(1/3)
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「通州事件(つうしゅうじけん)」が発生したのは、昭和12(1937)年7月29日のことです。

ねずブロでこの事件を最初にご紹介したのは、平成21(2009)年6月のことですが、当時この事件について知る人は、限られたごく一部の人たちだけでした。
事件そのものについても、名前を聞いた事があるくらで、それがいなかる非道行為であったかについてまで知る人は、ほとんど稀という情況でした。

いまは、かなりの人がこの通州事件の惨劇についてご存知のこととなっています。
消された歴史を暴き、また二度と日本のみならず世界の人類史上繰り返す事があってはならない事件として、この事件は、もっと多くの人に、日本の常識、世界の常識として知っていただかなくてはならない、まだまだ拡散し続けなければならない事件であると思っています。

この事件について、公開して以降、さまざまなサイトにおいて、この通州事件が「存在しなかった」、「ねずのでっちあげだ」等々、さまざまな論評が飛び出したそうです。

けれど、この事件が実際にあったことは、読売新聞の記事が、厳然と証明しています。
↓これです。↓
http://blog-imgs-57-origin.fc2.com/n/e/z/nezu621/201307261239139aa.jpeg


通州事件の惨劇は、私たちが考えなければならない大きな現実を教えてくれています。

ひとつは、支那人の残酷性です。
通州事件は、人類史上例をみない残虐な虐殺事件です。

では、私たち日本人が、二度とこうした被害に遭わないためには、何が必要なのでしょうか。
そこを考えなければ、歴史が何の教訓も与えてくれなかったことになるし、もっというなら、通州事件の被害者の方々が浮かばれません。

通州事件について、そこで何があったかは、以下のURLの記事を
参照してください。
ここに、実際に
通州事件の現場に居合わせた女性の体験談が載っています。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1025.html


今日、申し上げるのは、その通州事件後のお話です。

実は、通州事件では、「船津工作」といって、邦人被害について日本は全部目をつむる。それまでの支那国民党の要望を全部受け入れる。だから仲良くしましょうという和平案を、日本は提示しているのです。

これは格別の提案です。
なぜなら、被害者の側が、その被害を不問に付すから、仲良くしましょうともちかけているのです。

ずいぶんと弱腰と思われる方がおいでになるかもしれません。
けれど、当時の支那の陸軍兵力は、日本の10倍です。
しかも、当時の支那には、一方において、日本が認めた汪兆銘政権(南京政権)があり、多数の在留邦人がいたのです。
ですから戦いを仕掛けてくる国民党と、極力戦火を避けたかったし、それ以上に日本陸軍が支那に駐屯している理由も、対ソ連向けの警戒が主要な任務だったのです。
ですから、この和平案には、当時の陸軍省も海軍省も賛成しています。

ところがその和平調印の当日、大山中尉虐殺事件が起こりました。
さらに第二次上海事変にまで突入してしまっています。
日本が、仲良くしようと平和を望んだことが、逆に、戦乱を招いてしまったのです。


ひとつ疑問に思えることがあります。
なぜ通州にいた邦人が狙われ、欧州人は狙われなかったのか、ということです。
ここは、非常に大切なポイントです。

「やったらやり返す」という言葉があります。
「やり返す」というのは、もちろん暴力行為ですが、やられたから「やり返した」というのは、国際社会では、正当な行為です。
欧米人は、やられたら必ずやり返します。
実にシンプルな話なのです。
だから襲われない。

もうひとつは、歴史上、支那人(その影響を受けた朝鮮人もですが)が大量に日本にやってくると、ミニ通州事件が全国いたるところで起こる、ということです。
遣唐使、遣隋使の時代、平家の時代、安土桃山時代、それらの時代のあと、日本は鎖国をしていますが、本来、交易は儲かるのです。
みんなが豊かになれるはずの交易を、なぜ日本はやめて、鎖国したのか。
その答えも、支那人、朝鮮人等の渡来人の残虐性にあります。
ミニ通州事件が、全国あちこちで起こったのです。
だから、鎖国した。

一例を申上げます。
平家は、支那、朝鮮との交易によって巨大な冨を築きました。
その源氏を倒したのは、源頼朝です。
では、なぜ坂東武者たちは、頼朝を押し立てて戦いを始めたのでしょうか。
どうして頼朝という看板が必要だったのでしょうか。
源氏だ、平家だという立て前だけでは、人は動きません。

人が、命がけで戦いまで起こそうというには、それなりの原因が必要です。
その答えも、渡来人にあります。
全国で神出鬼没で村人たちを襲い、殺戮をし、女性たちを強姦、残虐に殺害する。
通州事件で起きたような、こういう残虐な文化は日本にはありません。
それが全国あちこちで起き、犯人グループの渡来人たちは、神出鬼没で、全国をまたにかけて暴れ回る。
そうなれば、坂東武者たちは、頼朝という旗を押し立ててでも、決起せざるをえなくなる。
そしてそれをやった鎌倉幕府は、事実上の鎖国を行っています。

昨今、連日報道されているのが、殺人事件です。
毎日です。
民主党政権下で、渡来要件が緩和され、日本に大量の渡来人がやってきました。
その結果、いま、日本国内で、連日、ミニ通州事件が起こっています。
そして、これを放置すれば、次に何が起こるのか、通州事件は私たちに、たいへんおおきな警鐘を与えてくれていると思うのです。


通州事件が起こったのは、冒頭に記した通り、昭和12(1937)年7月29日のことです。
この事件が起こる3日前には廊坊事件、2日前には広安門事件が起きています。
そして半月前の7月7日には、盧溝橋事件が起きています。

なぜこの事件が起こったかといえば、それは中国共産党の策謀によるものです。

共産主義による世界革命(世界をクレムリンの支配下に置く)を標榜したコミンテルン(Communist International)は、ロシア皇帝を殺害し、ドイツ(プロイセン)皇帝を追い払い、はじめにヨーロッパ全土を共産主義の支配下におさめようとしました。

ところが欧州の列強各国は意外に手強い。
そこで欧州各国の富の源泉となっているアジアをまず共産党の支配下に置く、そのために、まずは混迷の続く支那を共産主義化することを、昭和10(1935)年の第7回コミンテルン世界大会で決定しました。
そして大量の工作員を支那に送り込み、毛沢東率いる支那共産党に莫大な経費を与え、支那の共産主義化の促進を図ったのです。

なぜこのとき支那が選ばれたのかには理由があります。
共産主義革命の基本は、「対立をあおること」です。
支那は古来、外国人が王朝を築いた国です。
つまり多民族によって住民が支配され収奪されることが常態化していた国であり、しかもその支配者であった女真族(満州族)の国家である清王朝が疲弊し、国内が混乱のルツボにありました。

ただでさえ混乱し、いわば無政府状態となって、さまざまな勢力が新たな王朝を築こうとしている、まさに混迷した情況下にある地域であり、しかもソ連と国境を接し、国土は広大で人口も多く、人が人を殺すことを何とも思わない。
悪魔が天使の顔をして入り込むのに、これほど好都合な国は他になかったのです。

この共産主義の介入に、もっとも抵抗したのが、大清帝国崩壊後、新たに統一中国を築こうとしていた辛亥革命の志士たちでした。
なかでも武力による強硬策推進派だった蒋介石は、支那国土の混迷混乱を加速させようとする共産党を嫌い、これに対して徹底的な弾圧を加えていました。

とにかく共産主義者とわかれば、片端から銃殺にしていたのです。
いま、日本軍がやったとされる暴行、殺害の証拠として使われている数々の写真の多くは、もともとはこの蒋介石率いる国民党が、共産党員を捕まえて処刑したときの写真です。
ちなみに蒋介石は、たいへんな写真好きで、国民党のこうした処刑などの「活躍」を、写真集にして多数出版もしていました。
下にある写真は、日本軍の蛮行として使われた有名な映像ですが、実際には、殺害されているのが共産党員、殺害しているのが国民党兵士です。
http://blog-imgs-57-origin.fc2.com/n/e/z/nezu621/20130726124241825.png


※明日のメルマガに続く   (ねずさんのメルマガより抜粋)