日本人を怒らせたばかりに出るわ出るわ   つづきます | サファイアのブログ

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スピリットの成長と日々の変化を日記にしていきます。
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私の三十八度線突破記録  梶山緑
北鮮に入って来たソ連軍は、満州におけると同様、略奪、放火、殺人、暴行、強姦をほしいままにし、
在留日本人は一瞬にして奈落の底に投じられる事になった。
白昼、妻は夫の前で犯され、泣き叫ぶセーラー服の女学生はソ連軍のトラックで集団的にら致された。
反抗したもの、暴行を阻止しようとした者は容赦なく射殺された。

ソ連兵に触発された朝鮮人の暴行も多かった。

富坪の避難民3000名中、その半数が死亡した。
一日も早く引揚げさせてくれという要望はソ連軍当局によって無視され、日本人はただただ餓死を待つよりほかない状況に追い込まれた。
 在留日本人社会では「38度線さえ越えれば」というのが唯一の悲願となった。やせこけた身体に乞食のようなボロをまとい、山を越え谷を歩き強盗にささやかな所持品を奪われ、歩哨の銃弾に倒れ、人々は南に辿り着いた。
「韓国・朝鮮と日本人」 若槻泰雄 
日本敗戦後一年が過ぎても北朝鮮内の日本人の移動は禁じられていた。筆者のグループは賄賂を使ってトラックを雇い南朝鮮への脱出を決行する事になった。昭和21年9月中旬、朝鮮警察のトラックを使用する。料金は一人千円ということで、赤ん坊も含めて、私は六千円を支払った。
 市辺里で全員トラックから下ろされ、後は徒歩になったのだが、牛車が2台待っていて使用を強制され、荷物を載せて身軽で歩いた。牛車代は多額が要求され、次の部落では次の牛車に載せ替えられてまた金を巻き上げられる。山の中腹に煙が見えた。そこはチゲ部隊の交替地であった。
 もうこの頃には、醵出する金は無くなっていたが、物でもいいと言われ、せっかく、わざわざここまで運んできた物を大部分取上げられてしまう。稜線まできたチゲ部隊に、
「こんな少しばかりで、お前ら、日本へ帰れると思うのか。もっと出せ出せ!!」
と威かくされ、残りの物まで投げ出し、疲労困憊の老幼男女は、狂気のようにこの38度線の山稜を駆け下る。
生きて祖国へ5 死の三十八度線  引揚体験集編集委員会編
http://create21.iza.ne.jp/blog/entry/1463002/
http://megalodon.jp/2013-0514-0234-08/create21.iza.ne.jp/blog/entry/1463002/

 昭和20年7月26日、ベルリン郊外のポツダムで、米英中華共同の対日宣言が発表されたが、当時の日本人の殆どは、ポツダム宣言受諾の動きなど未だ知らず、ヒタヒタと迫り来る連合軍の包囲下にあって、本土決戦、一億総特攻のかけ声に、いよいよ生と死の対決に迫られる時がきたのを感じていました。
 やがて広島、長崎に原爆が投下され、両市は一瞬のうちに壊滅しました。そして同年8月9日、ソ聯軍が対日参戦。ソ聯軍侵攻と同時に満州は戦火にさらされ、満州在住日本人は避難を開始し、ソ聯軍の攻撃に合い、暴徒と化した満人の襲撃を受け、大勢の人々が殺されたり、集団自決をしたり、略奪されたり、大変悲惨な運命にさらされていました。
 ソ聯軍は満州だけでなく、日本海に面した北朝鮮の、羅津や清津の港町にも上陸を開始し、これらの街は火の海と化し、多くの日本人が避難を開始しました。満州や北朝鮮北部の避難民が着のみ着のままで一挙に南下してきて、北朝鮮一の大都市であった平壤の街も大混乱をきたしていました。
 当時平壤中学の生徒であった私達は、これらの避難民を、学校やお寺や旅館やその他収容できる建物へ誘導してゆく役割に
日々追いまわされていました。当時平壤の人口は約40余万人、その内日本人は4万人余、避難民は在住日本人の約30%といわれています。
 やがて8月15日終戦の日を迎えました。真夏の炎天下の校庭で終戦の報に接した時は、負けて残念というより目の前が明るくなり、これで助かったという思いの方が強かった感じでした。
 当時私達一家が住んでいた巖町の社宅の下には、平壤刑務所の赤レンガの建物が広がって見え、毎日毎晩釈放されたばかりの政治犯を取り囲み、各種の団体のデモ隊が「独立万歳」を叫び、怒号と喚声と歌声とで騒然として不気味で怨念に満ちた雰囲気に包まれていました。
 8月25日、そっとカーテンの隙間から眼下の路上に目をむけると、草色の詰め襟に半長靴スタイルのソ聯軍兵士の姿が望見され、これらの兵隊達は一様に肩から小型の自動小銃をぶら下げていました。私達はこれをマンドリンと呼びました。日本軍は実弾の管理が厳しかったようですが、軍規の弛んだソ聯軍は、これらの兵士に丸型又は縦型の70数発の実弾入り弾薬の携帯も許していましたから、彼らは街中を歩きながらでも面白半分に発砲するのです。
 それからというものはマンドリンを突きつけてのソ聯兵の凄まじい略奪が始まりました。
略奪に加えて・・・暴行、強姦、拉致、殺傷などの行為は、周囲の目を意識せず公然と行うのです。
私の家にもこれらのソ聯兵が土足のまま上がって来て時計やアクセサリー等めぼしい物を略奪していきました。
 その頃。北朝鮮と南朝鮮との境界とされた38度線はソ聯軍によって完全に封鎖されたため、私達日本人は北朝鮮に閉じ込められたことになりました。やがて日本軍将兵は武装解除され、平壤市郊外の秋乙にあった旧師団に終結させられ、満州の延吉経由でシベリアに送られ、その後数年も酷寒のシベリアで過酷な強制労働に服することになります。これらの将兵達を満載したトラックの列は、平壤市内を毎日走り抜けたが、将兵達は一様に 「一足先に日本に帰ってお待ちします」 と叫び、私達は 「兵隊さん頑張って」 と叫び、お互い手を振って別れを見送ったものの、まさかこれらの将兵が酷寒のシベリア送りになるとは思いもしませんでした。
 またソ聯軍は日本軍の員数が不足しているという理由で軍人でない18才から40才までの一般男子を街頭から連行し、同じくシベリアに送り強制労働に服させたのです。私は船橋里の広場でこれらの人々がソ聯兵に連行されて行く姿を恐怖心を抱きつっ見送ったものです。私達少年は毎日の様に使役と称して飛行場や兵舎、倉庫やその他施設の資材などの運搬や貨車への積込などの労働に無償でかり出されました。また日本人の警察官、司法関係者、行政官庁の職員、大会社の幹部社員等はその頃創立されたばかりの北朝鮮保安隊に逮捕拘留されました。当時62才だった私の父も前職が刑務所長であったということで大同保安署の留置場に拘留されました。日本人がこうして逮捕、収監されたので留置場はすしづめの状態となりましたが、父達は居房内で正座を強いられ、姿勢を崩すと棒で強く叩かれたりしたそうです。父はその後3ヶ月ほど拘禁され、北朝鮮では官吏として勤務した経歴はないという主張が通って12月中旬釈放されました。
 やがて北朝鮮当局から接収という名目で私達一家は社宅から追い出されることになります。それも1時間以内に立ち退けという命令で、私達は長年愛着して使っていた家財道具を捨て、持てるだけの衣類や日用品をリックに詰め仮住まいの住居に住むことになりました。このようにしてソ聯軍の幹部達は日本人の住宅を接収して進駐中、家族を呼び寄せました。北朝鮮の当局者達もこれにならって日本人の住宅を接収して、短時間の内に立ち退きを強要し、建物のみか残された家具、調度品、その他の荷物はすべて没収してしまうのです。
 その頃父は大同保安署に留置されていたので、これらの立ち退き作業は当時43才だった母の采配で行われました。だがその第二の住宅も間もなく接収され私達は船橋里の旅館跡に押しこまれます。そして10月の中旬にはその旅館跡からも追い出され、第4の仮住まいは同じ船橋里の一軒家の四畳半の部屋に押し込まれました。 この家の前に医師の一家が仮住まいし、医院の方はソ聯の将校が居住していました。その将校の当番兵にグレイシヤという好青年がおり私達はこの若い兵士と仲良くなりました。 
 その頃「マダムダワイ」という怒号と銃声と、建物の入り口を銃床で叩いたりするソ聯兵が夜毎あとをたちませんでしたが、その都度グレイシヤがで出てきて追っ払ってくれて、
この一画だけはソ聯兵の婦女暴行の魔手から逃れることが出来ました。
それでもこの一画から一歩でも出ると、そこには日本人婦女子にとっては恐怖と汚辱とに満ちた世界であり、夜毎ソ聯兵が踏みこんできて、銃で威嚇し、女性と見れば見境なく、衆人監視の中でも平然と強姦に及びました。 
婦女子は髪を切り、顔を汚して、男のような服装をして、床下に穴を掘って隠れる等で身を守りました。
当時警察の任にあった保安隊も、日本人から検問と称して金品を奪ったり、特別な理由もないのに逮捕拷問したりする存在で、
このような時でも私達を守ってくれるどころか、私達日本人にとっては恐怖の組織にすぎませんでした。
 やがて北朝鮮にも凄惨な冬将軍が訪れます。 夏の盛り満州から着の身着のままで避難してきた人々にとってはまさに地獄の季節でした。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~k-kuri/no19.htm
 夏の盛り満州から着の身着のままで避難してきた人々にとってはまさに地獄の季節でした。満足な食料の配給もなく、バラック小屋などに詰み込まれて、朝になると冷たく凍った死体と化していく人々。零下20度をこえる寒気の中で、栄養失調と発疹チフスで死んでいった遺体はカチカチに凍り、菰包みにして船橋里日本人会の倉庫に積み重ねられていました。私達は日本人会の要請により、これらの遺体を大八車に山と積んで、毎日、平壤東北数キロ離れた山の中に埋葬に行きました。そして発疹チフスで亡くなられた遺体は焼却場に運びました。遺体を運んで埋葬した山には、冬期は土が凍って埋葬しにくいため、
あらかじめ日本人会の手により、暖かい季節に塹壕のような長い帯状の墓穴が掘られていました。しかし墓穴はすぐに一杯になり、私達はツルハシで凍土を削って1日かかって穴らしいものを掘ります。そして山麓からバケツリレーの要領で山の中腹に掘った墓穴まで運び埋葬し、板切れに死亡者の名前を墨で書いて墓碑として打ち込みました。やがて山全体に針の山のように墓碑が隙間もなく打ち込まれてゆきます・・・その悲惨な様子に、胸がつぶれる思いがしました。このようにして私達は毎日のように大八車に山のように菰包みにした遺体を積んで、大同江を渡り、平壤市内の中心街を通り山に運びました。
 道路には大きな金日成将軍の肖像額が掲げられて、なにかの式典が開催されていたり、多くの朝鮮人から罵声を浴びせられたりで敗戦国民の情けなさと、恐怖心を味わいました。  
 あとで知ったのですが、越冬した日本人の死亡率の最も高かったのは、ソ聯占領軍司令部、北朝鮮政権があった平壤を中心とする西北朝鮮でした。権力者のお膝元だけに、日本人に対する締め付けは厳しく、平壤地区では満州などからの避難民の死亡者は実に40%にも達していたそうです。
 戦後、北朝鮮だけは国交が正常化してないため、巡拝者や遺骨収集団などの訪問も許されずに今日に至っています。祖国に引揚の夢を抱きつつ、無念のも異国の土となられた方々のご冥福を祈るばかりです。
 当時私達は、ソ聯や北朝鮮当局の命令で使役と称する労働に駆り出されたり、日本人会の要請で遺体運搬、埋葬などの労働につきましたが、これら労働の報酬として賃金をもらったり食糧の配給を受けたりした記憶はありません。
 創立したばかりの北朝鮮の政府は、自己の政権維持に精一杯で、日本人のことなど、かまってる暇は全くなかったようです。また、ソ聯軍当局も、満州や樺太と同様、日本人の帰国や生活、その生死にさえ全く無関心であったそうです。
 だだ地区によっても異なっているようですが、北朝鮮の人民委員会から終戦の昭和20年に成人1日当たり米8勺程度、雑穀6,6勺程度の配給があったとの記録を読んだことがあります。
 こうしている内に、私達平壤在住日本人の殆どが所持金も衣類その他の物資を失って、飢餓感は日増しに強くなり、帰国への希望は益々強くなっていきました。特に満州などからの避難民の場合は、売る衣料などなにもないので、その焦燥感はより強かったものと思います。 
 昭和21年、やっと遅い春が北朝鮮を訪れたと、平壤在住日本人のすべてが、このまま二回目の冬を迎えたら、間違いなく日本人の殆どが全滅してしまうことを肌で感じていたのです。依然として38度線はソ聯軍により封鎖されており、このまま平壤に残るのも死、逃げても死なら、万に一つの生への可能性のある逃げ方を選ぶのが自然です。
 当時日本人の入浴は月に1回とされていたので、日本人は皆不潔となり、その居住区はシラミやノミやダニ等の巣くつとなり、発疹チフスやコレラが蔓延し防疫上も好ましくない環境になっていました。昭和21年6月頃から、ソ聯軍や北朝鮮当局者の中にも、日本人をこのまま抑留させておくことに疑問を感じる者が多数出てくるようになり、ボツボツ日本人の平壤脱出は黙認の形で行われるようになりました。このようにして私達一家は、昭和21年8月5日、他の日本人避難民と共に、肩に食い込む程積めこんだリックを背にして平壤駅に集合しました。まる2日間、平壤駅に寝泊りしましたが、
その間もソ聯兵の 「マダム ダワイ」の怒声に悩まされました。
http://www2u.biglobe.ne.jp/~k-kuri/no20.htm
 北朝鮮脱出のため平壤駅で寝泊りしていた私達一家6人は、3日目の昼、北朝鮮の定州からの避難民を満載した貨物列車に乗り込むことが出来ました。列車の避難民引率者が「医師はいないか。いたら乗ってくれ。」と叫んでいたので、私達一家と同行していたT医師が、「 栗本さん一家と一緒でなければ乗らない 」とこれに応じ、私達一家も乗ることが出来たのです。
 貨物列車の中は想像を超える陰惨な情景がひろがっていました。 
丸坊主の表情を失った女性達がぎっしりと積みこまれていました。
私の前にいた女性の背中には、すでに息を引き取りむくろと化した赤ちゃんがしっかりと背負われていました。列車は間もなく発車しましたが、平壤から三つ目の黒橋という小さな駅に停車して、そのまま動かなくなりました。列車の中で仮泊2日。どうやらこの列車は動かないと見た私達は、列車を降りて避難民の体列を作り、38度線まで徒歩で行くことにしました。
 やがて背負えるだけの荷物を肩にして、山野を彷徨する避難民達に飢餓が迫ってきます。私達はその都度、現地の人と交渉して、リックの中の衣類などと食料品を物々交換して飢えをしのいで歩きました。同行のT医師の奥さんは、自分と背丈の変らない娘さんを背中に背負って歩かれた。身障者の娘さんを背にして、無事日本に帰るという常人ではなし得ない驚嘆すべき愛の力には今でも敬意を表し、忘れることの出来ない思い出となって私の脳裏に焼き付いています。
 河原に石を積んで竈を作り収穫後の畑に落ちた粟や高粱、野菜のくずを拾ってきて、川の水で炊事をします。食器はソ聯軍が捨てた缶詰の空缶です。たった一つの鍋を囲み薄汚れた顔、汚れた衣類、石ころの上で済ます食事、まるで乞食のようでした。
 時々北朝鮮保安隊員の検問があり、その都度「北に帰れ!」と怒号されましたが、北に戻ることは死を意味するので、無視して南に向って歩くだけです。夜は露営で地面にごろりと横になり、星空を眺めて夢路に入り、朝は夜露に濡れた衣類を乾かす間もなく、そのまま歩き続けるだけでした。
 やがて8月も中旬になり、黄州では終戦記念日が近くなり、日本人が出歩くことは危険という理由で保安署の留置場に1週間足止めされました。留置場の中に押収した密造酒のかめがあり、この香りをしたったヤブ蚊に顔や手足を刺され、腫れあがり、帰国後も私達一家はマラリアで苦しみました。                                  保安隊員は日本の避難民を待ち構えて、検問と称し残り少なくなったリックの中味と調べあげ、めぼしい物があれば強奪しましたが、逆に私達避難民の護衛として私達の前後につき、一般朝鮮人の暴徒から私達を守ってくれたりもしました。 
 発疹チフスやコレラに蔓延した家は赤い旗を揚げていました。
 日本人避難民はソ聯兵や保安隊に見付からない様に部落を避けながら山野そして川を越え一生懸命に南へ向って歩き続けました。山の中に死体が残されていました。老人や子供が多く力尽きて日本帰国を前にして無念であったであろうと万感の思いがしました。38度線を越えるまでは、どんなに苦しくても歩き続けるしかありません。しかし疲れ果て足が重い、一歩でも日本に近づきたい一心で歩きます。
 行く手に高い山が見えてきました。あの山の向こう側は、アメリカ軍の支配する南朝鮮だと聞かされました。国境線が近くなり、日本人避難民は、みんな一団となって坂の多い山道を最後の力をふりしぼり、あえぎながら登りました。
 頂上に着いた9月初旬。38度線を突破した!。豪雨の中、ずぶ濡れになりながら、米軍の管理する開城のテント村に保護されました。テントの中は筵や茣蓙でしたが、なんとも言えない温かみを感じ、ああこれで助かった!!!と涙があふれ出て、みんな言葉もなく泣いていました。

二鬼子(アーグイズ) ・・・ 在日朝鮮人に占拠された日本メディアのタブーワード www

中国大陸が日本の支配下に置かれていた時期に、満州に住んでいた中国人が、
朝鮮人日本兵もしくは朝鮮人警察官を指して使った中国語の蔑称
転じて、朝鮮人その物に対する蔑称でもある。
 当時、日本軍は中国人に日本鬼子や鬼子兵と呼ばれており、朝鮮人はその下で働いていたので二鬼子と呼ばれるようになった。 似た意味の言葉に高麗棒子がある。

「二鬼子(意味は、傀儡(かいらい)軍)」、「高麗棒子」、これらの名称はすべて満州の国民の朝鮮日本兵と警官に対する俗称です。

蔑称の由来
「二鬼子」は傀儡軍: 満州国の領土で生活していた老人いわく、
「二鬼子」は第2次世界大戦時を指し、日本の関東軍を助け満州国を管理する朝鮮警察である。
 第二次世界大戦の中国への侵略した日本軍は、中国の庶民に、、日本の畜生、畜生兵と称されていた。 朝鮮の警察は、日本人のサービスに替わったもので、地位は日本人より高くない。だから“かいらい軍”といわれる。
「高麗棒子」: 日本人は、朝鮮半島人に対して信用しない。 だから、朝鮮の警官には、手に武器がありません。
朝鮮警察は、朝鮮婦女服の洗濯の棒を、人を打つ武器にするしかしようがなかった。
 満州の国民が、彼らをあざ笑うのためにいったのが、「高麗の棒」です。
http://xianxian8181.blog73.fc2.com/category36-1.html

「私は日本人を非常に尊重する。日本人は絶対、後から刃物でささない。だが、高麗棒子(中国人 が韓国人を侮って呼ぶ卑語)は違う。」
台湾のテリー・ゴー(郭台銘)鴻海(ホンハイ)精密工業会長

インドネシアで現地人を虐待していた朝鮮人憲兵 (二鬼子 www)


■ 「ニッポンは誤解されている」 日本教文社 1988 年 アルフレッド・スムラー著
                                     (フランスの雑誌リマッチ特派員)

 別に日本人戦犯の責任を軽減するつもりは毛頭ないが、
占領地域で最も嫌われたのは、このころ日本国籍を持っていた朝鮮人だったことに注意しておかなければならない。
その多くは憲兵隊に属し、のち戦犯に指定された。
 たとえば戦後十年たってインドネシアで現地民の証人たちが私に話してくれたところによると、彼らは当時これらの警察官から自分たちを保護してくれた点では日本の陸、海軍に感謝しているそうだ。

月刊誌「DATUMS」1995 年10 号 キヤンガン、山下将軍降伏の地―フィリピンの心象風景 色平 哲郎 内科医
http://www.net-ric.com/advocacy/datums/95_10irohira.html

インドネシアで現地人を虐待していた朝鮮人憲兵 (二鬼子 www) その2

 山では仲間どうしの信頼関係が全てだ。 韓比日の3人で風雨の中、ピークを踏む寸前のこと、小休止のときアンがコリアンと知らないフィリピン人の彼が言った
日本の占領下で最も残虐だったのはコリアンだった。
赤ん坊を投げて銃剣でうけたのも彼らだった。
皆がそう信じている。
 一気に遭難しそうになったパーティを何とか支えつつ、私はキアンガンの将軍の亡霊を見たような心持だった。その日も各地でこの噂のような言説をきくたびに、愛国者たるアンの胸中が想われてならない
http://megalodon.jp/2013-0320-0808-04/resistance333.web.fc2.com/html/japanese_army_and_misunderstanding.htm

中国人による二鬼子についての証言  中国人は真実を知っている

「日本軍は香港で何をしたか」  著者 謝永光    翻訳 森幹夫 社会評論社 1993 年 36~37頁

 九龍が占領された翌朝、農夫の姿に変装した二人の女性が、有名な作家侶倫(原名李林風)の家の門を叩いた。
頭巾をとると、鑽石山(ダイヤモンド・ヒル)の某映画製作所に避難していた女優であることが分かった。 彼女たちは恐怖に引きつった表情で、日本軍の馬丁に暴行された昨夜の出来事を打明けた。
 当時の鑽石山はまだ一面の荒れ山で、未完成の映画制作所があるだけだった。 製作所の経営者は避難してきた彼の会社の管轄下の職員や俳優をかくまっていた。 最初の数日間は平穏無事で、「皇軍」の姿は全くみられなかった。 ところがある日、突然五、六人の‘獣兵‘が現れ、麻雀をしていた四人の女優を輪姦したという。 前述の女優は日本軍の馬丁に暴行されたが、この馬丁とは恐らく朝鮮人に違いなかった。
 当時朝鮮は亡国の運命を辿り、台湾も日本の植民地であった。 日本は兵力不足のため、大量の朝鮮人や台湾人が戦場に駆り出されていた。
香港占領期間中、多くの朝鮮人が日本の軍服を着ていたが、一般の日本人よりも背が高く、 日本の正規軍よりももっと凶暴だった。
このとき民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、 ほとんど日本人の手先となって悪事を働いていた朝鮮人であった。 当時香港住民は日本軍に対するよりももっと激しい憎悪の念を彼らに抱いた。

中国人による二鬼子についての証言 中国人は真実を知っている その2

「日本軍は香港で何をしたか」 著者 謝永光 翻訳 森幹夫 社会評論社 1993 年 142頁> ***(日本軍占領下の香港では)   アヘン販売や売春市場は、朝鮮人が中心となって取り仕切っていた。
『古野直也著 朝鮮軍司令部 1904/1945 国書刊行会』p.132-133
 昔から日本人は語学が拙ない。 地理・世情に不案内で朝鮮語がわからないから、どうしても朝鮮人の警官や憲兵補助員に頼ることになる。 ところがこれらの連中に不良が多く、住民を脅して私腹を肥すやら、女に手を出すやらの悪徳ぶりで、日本側はその取締りに忙しかったという。(略) 日中戦争中でも中国語が堪能な日本軍人はいないから、中隊単位で朝鮮人の通訳を雇う事になるのだが、この通訳は中国人を生かすも殺すも自由自在に裁量できるから蓄財に励む悪者が多く、日本軍が中国民衆に怨まれる大きな原因となった。
 通訳の中には、日本人の名前の標札を持ち歩いて中国人の門に打ち付けて豪邸を占拠する者がいたし、スパイだといって逮捕し、釈放するといって身代金を取ったりして連隊の中の高額所得者は朝鮮人通訳だった例が多い。
 中には雇いもしないのに軍隊の後方をのこのことついて歩く偽通訳もいた。 便利だからと使用してみると、いつの間にか日本軍の制服を貰って住み着いてしまうのだった。
http://megalodon.jp/2013-0320-0808-04/resistance333.web.fc2.com/html/japanese_army_and_misunderstanding.htm