きょう、広島は、65回目の「原爆の日」を迎えた。
国連のパン・ギムン事務総長が始めて参列し、
原爆投下国のアメリカからは、ルース駐日大使が初の参列と、
歴史的な一日となった。
また、核保有国である、イギリス・フランスからも代表が参列した。
秋葉広島市長は、「2020年までの核兵器廃絶に向けて、
さらに大きなうねりをつくる」と平和宣言を世界に発した。
そして、日本政府に対しては、核の傘からの離脱を求めた。
ルース大使は、謝罪も、献花もしないで、広島を去ったが、
当のアメリカでは、最近世論が、核廃絶に向けて大きく
変化しているようだ。
アメリカの関係者は、アメリカ代表の参列については、
オバマ大統領の決断の結果をふまえ、
暗黙の謝罪だということも言っている。
その背景には、今や、核が、アメリカを敵視する国々に
行きわたりつつある現状がある。
アメリカは核を持ちながら、核保有国に包囲される可能性がある。
その式典のなか、小学6年生の二人が、「平和への誓い」を力強く
読み上げた。
そのひとり、高松樹南(みきな)さんについて、
中国新聞の朝刊に、こんな紹介記事があった。
その一部を掲載させていただく。
わが家の目と鼻の先にたたずむ原爆ドーム。
窓際のピアノや勉強机に向かえば、
世界遺産のシルエットが視界に飛び込んでくる。
爆心地のそばの寺で生まれ育った小6の高松樹南さんに
すれば変哲もない風景だったのだろう
▲「この地に原爆が落とされたことさえ忘れていました」。
気付かせてくれたのは家族旅行で境内の墓地に
立ち寄った福岡県の中学生。
熱線で焼け、石肌がざらつく墓をさすっていた。
いたわるような手つきや表情を目の当たりにした時、
恥ずかしさがこみ上げてきたという。
▲毎日が平和学習のような環境も「心ここにあらざれば
見れど見えず」。
▲「あたりまえ」を時には疑ってみたい。外からヒロシマに
向けるまなざしや感性に、わが身を省みることも多かろう。
1945年8月6日は、今日とおなじように、強い日差しが照りつける月曜日でした。
Sさんは、弟が建物疎開に出かけるための準備をしていました。
ところが、Sさんの弟、中学生になったばかりのKくん、頭が痛いから、
建物疎開の作業は休みたいといったのです。
でも、Sさんは、戦地に行って戦っておられる人たちのことを言って、
嫌がる弟Kくんを無理やり追い出したのです。
そして、8時15分。。。
Kくんは、八丁堀付近で被爆しました。
あの日から、Sさんの人生は大きく変わりました。
毎年、8月6日がくるたびに、Sさんは苦しみ続けました。
決して、Sさんは間違っていなかったのに・・・・・・・・・
少しでも多くの方に読んでいただきたいので、
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