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Kou

音楽雑感と読書感想を主に、初老の日々に徒然に。
ブログタイトル『氷雨月のスケッチ』は、はっぴいえんどの同名曲から拝借しました。

 吉田拓郎の歌は、彼自身が書いた詞が多い。シンガーソングライターだから当然のことです。それでも他者が書いたものも数多く歌ってきました。その代表となると、初期のファンならやはり岡本おさみを思い浮かべるでしょう。当時拓郎に熱中していた者にとって、作詞家岡本おさみは忘れられない存在です。

 だが意外なことに、吉田拓郎と岡本おさみの関係性は、公私とも希薄でした。酒席など「私」を共にすることはなく、「公」である詞の授受も郵便でおこなわれ、必要な会話は電話で済ませていた。というのも、拓郎は岡本おさみが嫌いでした。「顔を見ると虫酸が走る」とまで口走ったこともあり、性格的に合わなかったようです。それでも岡本の詞を採用し続けました。相性の悪さを上回る、大きな魅力があったことになります。拓郎いわく、自分の言いたいことを、岡本が表現していたという。

 それでも80年代に入ると、およそ10年にわたった共作関係は解消されました。昨年のラジオ番組『オールナイトニッポンゴールド』で、拓郎はその理由を語っていました。岡本の世界観に違和感をおぼえた始めたからだと。ブログ筆者は、この間の事情を知りたいと思いました。

 図書館で岡本の本を探すと、その経緯が記されていました。1984年に書かれた『うたのことばが聴えてくる』です。ここで岡本は、「拓郎は実は自分を嫌っていなかった」としていて、拓郎の話とは食い違う、興味深い話になっています。以下にその一節を引用させてもらいました。

 一方で岡本は、1977年の自著『旅に唄あり』で、大ヒット曲『襟裳岬』と、拓郎に提供したR&Bテイスト曲、『君去りし後』の創作エピソードを語っています。前者は言うまでもない有名な歌ですが、後者は知る人ぞ知るといった歌でしょう。傑作とされる『ライブ73』で歌われて、ブログ筆者の大のお気に入りです。ですが詞の意味するところが不明でした。同著によりそれが明かされていたことも、拙文を書く動機となりました。

 

 岡本おさみが亡くなって早5年。吉田拓郎の全盛期を支えたこの作詞家の、その人となりを知る一助として、拙文が拓郎ファンの方々の目にとまることを願っています。

 



引用させていただいた資料

岡本おさみ著
『旅に唄あり』
『うたのことばが聴えてくる』

『サンデー毎日』岡本おさみ再始動 2003年12月7日号

 

 

 


『旅に唄あり』

 

 

 

襟裳岬

 

 (昭和)四十九年、日本歌謡大賞の生放送で、きらびやかな服装にまじり、ジーパンで乱れ髪の男が作詞者と呼ばれ紹介されたのを記憶している方があるかもしれない。ほんの一瞬テレビにぼくが映った。


 これには裏話がある。
 

 十一月になってまもなく一通の封書が届いた。正確な文面は覚えていないが、「あなたの『襟裳岬』が歌謡大賞にノミネートされたので当日武道館においで下さい」といった内容だった。さらっと読むとごく事務的な文だけれど、あることに気づくと失礼な招待状に思えてきた。まだ賞が決定した訳じゃない。それなのに客席に居て、発表を待てという内容である。そういうことにも耐えるのが職業とするものの宿命なのかもしれない。しかしテレビに限らずラジオでもコンテストと名のつくものは″感動″がお好きなようで、放送の仕事にたずさわり。その種のことをやってきたぼくには、ああまたやってるな、と腹だたしく思える。


 眼のまえに肉をぶらさげ、犬を並べる。しかし肉は一匹にしか与えられない。
「こんな招待状は気にいらないね」
 一読して破き、クズ箱にぽいと捨てた。それを見て奥さんは、
「破らなくてもいいのに」と言った。


 それで発表日がいつなのかも忘れていたけれど、なぜか奥さんは覚えていた。
「今日は発表日よ。テレビで生中継するわ」
 朝刊を差し出した。
 なんだか気になりだした。
 

 朝、電話が鳴った。歌謡大賞事務局と名のる女性からで、
「今日は御出席になれますか」
「いえ、欠席します」
「そうですか」女性は事務的に答えて、あっさり電話を切った。
 

 昼過ぎ、ぼくは旅のフイルムと現像タンクを紙袋に入れて、友人でカメラをいじっている奥村くんの暗室にでかけていった。
 

 暗室で現像タンクをいじりながら雑談していると扉の向うで電話がきてると、声がした。電話の主はテレビ局を名乗った。偉い人らしい。「『襟裳岬』も最終候補に残ったのでぜひおいで下さい」。偉い人は伝えてくれた。「ええ。でも仕事してますから」短いやりとりをして暗室に戻り煙草をふかしていると、また電話がきた。電話の主は森進一さんのディレクターで、『冬の旅』『さらば友よ』などをてがけたH氏。二度ほど顔を合わせたことがある。
 

 「森くんと昨夜会って話したんですがね。拓郎さんは沖縄でコンサート中だし、もし授賞ってことになれば、森くんの肉親は弟さんと妹さんでしょう。作詞作曲者もいないと淋しいものになるなあ。いえ、森くんとはもし授賞になれば岡本さんは来てくれるかな、と話してたんですよ」
 「森さんのため、にはでかけたいです。しかし賞ってものは決定してから喜んでみたりするわけでしょう。まだ決ってもいないのに、のこのこでかけるのは、もの欲しそうでいやあな気がするんです」
 「わかります。しかしもし授賞ってことになれば、千葉からでは生放送にまにあいません」H氏の説得はさすがディレクターだけあって巧みだった。
 「仕事中なんですか」
 「ええ、急いでるんです」。嘘をついてしまった。こんな風な嘘を過去にもついたことがあるような気がする。いくどかあるはずだが記憶が薄れている。ぼくに巣食っているやっかいな自意識がそうさせるのだけれど、いつまでたってもなおらない気がする。
 

 また暗室に戻ってタンクをいじっていると、今度は奥さんから電話がきた。妙に慌てた様子だ。
 「電話きたでしょう」
 「うん」
 「早く連絡しようと思ってダイヤル廻すんだけど話し中なの」
 「ふたつ電話があったよ」
 「そう・・・もう来たの・・・困ったわ」
 「なぜ?」
 「それがね.御主人は武道館にむかわれましたか、って言われるから、近くの友達のところに行ってますって言ったのよ」
 「その通りだからいいじやない」
 「そこまではいいんだけれど.御主人はお仕事で行かれましたか、って言われたから、遊びに行ってます、って言っちゃったの」

 武道館ではディレクターのH氏がむかえてくれた。八時をまわっていたからTVは本番にはいっていた。席に案内された。拓郎の代理である顔なじみの陣山くんが隣りに居た。やあ、と挨拶して座りこんでいたけれど、落ちつかない。歌謡曲のコンサートに初めてきたのだけれど、今までなじんできたコンサートと雰囲気がちがう。次々歌われるものも退屈きわまりないし、なぜこんなに空虚であるか考えてみることにした。まず服装。ぼくらのコンサートといえば客席もスタッフも楽屋も、長い髪とジーパン。つまり普段着が溢れていた。着飾りすぎて、席には歌を作るより歌を商売とする背広姿が並んでいた。ぼくらもうたをはじめた初心に較べれば汚れて、うたで食べていたけれど、それでもなにかが決定的にちがうのである。それは何なんだろう。
 

 授賞です、決まりました。通知があって、陣山くんとぼくは袖に待機することになった。袖にいると司会者である高島忠夫さんが近づいて、岡本さんですか、と言った。はい、と言うと、「『襟裳岬』は好きでした。よかったですね」と丁寧に言われた。やさしい人なんだな、と思ったけれど、高島さんの服装があまりきらびやかで拒否したい気持があったから、そのときどう答えたのか覚えていない。今度会ったときは気楽に、お茶でも飲みたいものだ。
 

 授賞があって、そのショーは終った。森進一さんは嬉しそうで来てよかったと思った。陣山くんは用があるらしく帰ってしまい、ぼくは東京で飲むことも考えたけれど、ひとりで飲むのも何やら淋しいし、家に帰ることにした。武道館のまわりは人の群れでいっぱいだった。ぼくはトロフィーと賞状を持ってその人の群れにまじり帰っていった。人の群れにまじると、何だかほっとした。夜風が気持よかった。お客さんたちは誰ひとりぼくに気づくものはなかった。ぼくは客のひとりになった。


 東京駅から津田沼へゆく電車にのりこんで、酔っ払いや、夕刊を読む大たちにもまれながら、北の岬のことをおもった。

カスペ型の道南端
の断崖。

更に飛火模様に。
ごつい岩丈な厳巌がつづき。
ぐるりは泡波のあぶく。

 草野心平の詩の一節である。襟裳岬は激しくうねり流動する岬だという印象を長い間持ち続けていた。しかしそれは詩人の心の躍動で、バスを下りて見まわした襟裳の印象はひどく淋しいものだった。老いた詩人は何歳でこの詩を書いたのだろう。青年のように骨太いことば、三十歳を少しまわったばかりのぼくはその精神のある場所のちがいにとまどった。土がむきだしになった道をのぼると左に白いホテルがあった。赤茶色と灰色にくすんだ風景の中でそのホテルだけが白くうきだし、まわりの暮しの色に溶けこまない。日暮れて冷たい風が吹きおろしてくる。ゆっくり歩いていくとペンキで花の名前を書いた民宿があった。それは素朴な日本の花の名で、おさなくてらいのない名の付け方がなぜか気にいったのだった。ガラス戸をあけると、それはあたりまえの暮しの始まる家の匂いがあった。普段着のおばさんが現われ、二階に案内された。ベニヤ板で区切った部屋が四つあった。三畳ほどの小さな部屋である。どうやら二階に建て増して、いくつかの部屋を区切って境界線を設けた程度のものらしい。部屋には先客の男が二人居た。つめこまれたな、と思ったけれど、そんな殺風景な部屋にほうりこまれるのは、よくあることなので、別に気にならない。わけのわからない憂鬱に神経をやられて北を流れて、わけもなく草野心平の詩を覚えていた、という理由だけで、襟裳岬に足が向いたのだから、そこに人がいようがいまいが、別に話したくない。ただ黙っていればよかったのだ。


 おばさんが紙っ切れ一枚とボール・ペンを持って現われ差し出した。「これに住所と名前を書いて下さいな」。小さな紙だった。これはひと部屋分の名前をしるす紙なのか、それとも小さな字で書いて隣室などとの連名をするのか。と少し考えた。部屋はみな満ぱいだから泊まり客は十人以上になる。とりあえず小さな字で書いておくと、おばさんがとりにきた。耳をすましていると隣室をノックする音がする。連名だったらしい。小さな字でしるしておいてよかった。


 夕方になっておじさんが現われ、ふとんを敷きます、と言う。おねがいします、と応えて待っていると。おじさんは少しはなれた押入から廊下づたいにふとんを運んでくる。その時初めて判ったのだが。おじさんは片腕だった。片手でふとんを持ち、片腕の脇にふとんをはさんで、廊下をひきずりながら運んでくる。こちらは遊びのような旅できてるわけだから、こういうのには弱い。


 日々の暮しはいやでもという一行にはその時の印象が残っていて、自分がたどってきたことや、いろんな含みがあるけれど、その一行を思うと、片腕のないおじさんの姿がみえてくる。なぜ片腕を失くしたのか知らない。漁師だったが片腕を失くし陸にあがらざるを得なくなって、民宿をはじめたのかもしれない。本当のことは知らない。が知らなくていいと思う。


 「襟裳岬」のことばの原型は以前に書いた「焚火」と言うことばをもちだしたものだった。

北の街ではもう
悲しみを暖炉で
燃やしはじめてるらしい
理由のわからないことで
悩んでいるうちに
老いぼれてしまうから
黙りとおした歳月を
ひろいあつめて
暖めあおう

君は二杯目だね
コーヒー・カップに
角砂糖ひとつ
捨ててきてしまった
わずらわしさを
くるくるかきまわして
通りすぎた夏の匂い
想い出して
恥ずかしいね

いつもテレビは、ね!
あまりにも他愛なくて
かえっておかしいね
いじけることだけが
生きることだと
飼いならしすぎたので
身構えなければ なにも
できないなんて
臆病だね

寒い友だちが来たよ
えんりょはいらないから
暖まってゆきなよ
         「焚火Ⅰ」

わずらわしさを
ひとまとめにくるんで
さあ急いでかきあつめなくちゃあ
人間くささって奴をかきあつめて
ひょいと裏返しにして炎にすてる
ふふしめしめこれでよい!
ふたりでほほえんで
手をあたためなくては

         「焚火Ⅱ」

 Tという男が電話をくれた。彼は「走れコータロー」という唄で一時期にぎやかだった、ソルティ・シュガーというグループの残党である。懐かしいが突然連絡があったのはそれなりの理由があった。現在はビクター・レコードに就職してディレクター稼業をやってると近況を述べ、ついては今度、森進一さんの曲を担当することになった、と言った。新人ディレクターに歌手ひとりひとりを担当させる、腕試しらしい。ぼくらはいくつかの約束事をした。歌詞についてはそちらの注文を一切出さないこと。いわゆる森進一らしい歌詞は書くつもりのないこと。曲がついて編曲まえの原型ができるまでは、こちらの勝手な作業にさせてもらうこと。その代り、できあがった作品は、気に入ればレコードにし、気に入らなければ没にして作業は打ち切る。


「思い切ったことをやってみたいんです」。Tは言って、こちらも本気になった。


 吉田拓郎から電話があって曲がついたけれど、いくつかことばを考えたい、と言った。曲との関係で、「二杯目だね」が「二杯目だよね」「角砂糖ひとつ」が「ひとつだったね」「わずらわしさを」が「わずらわしさだけを」にその場でらくに改められた。その方がメロディに素直に溶けこむ。


 思い出して恥ずかしいね。がなんだかメロディをつけてみるとひっかかるんだが、と彼は言うのだった。過去の傷を思い出にするようなうしろめたさがあったけれど、この部分も、懐かしいね、と改めた。


 「『いつもテレビは、ね!』のとこだけど、つまんなくないかい。ちっちゃいよ、こういうのは」と拓郎が言った。「ちっちゃいよ」という言葉でやられた、という気がした。そう言われれば、テレビが他愛ないなんてどうでもいいことじゃないか。「それに森進一さんがうたうとなると変だぜ」と拓郎が言った。そりゃそうだなと笑ってしまった。どうしようか、ということになって、片腕のなかった、おじさんの姿が浮かんできた、日々の暮しはいやでも、の一行は電話で話しながら出てきた。「襟裳岬」に関しては、だから共同作業だったという気持が強い。ぼくはぼくなりに勝手にことばを吐いた。拓郎はそれに拓郎の文体で曲をつけた。森進一さんは森進一にひっぱって歌っている。それが気持がいい。これは三人の共同作品である。


 「襟裳岬」が巷に流れたころ、顔を合わせたこともない評論家の人たちや、いろんな人が、このちっぽけな唄のことを書いてくれておもしろかった。「襟裳の春は何もない春です」の一行にからんで「襟裳は昆布だってあるし魚も豊かである」と写真つきで書く記事もあった。ジョークであるものもあったが、まじめなものもあって笑ってしまった。北へ行って放送局勤務のMさんと会うと「襟裳に住む男から酔って長電話があってねえ。『襟裳に何もないとは何事だ。そんなことを言うから若いもんが街にでていってしまうんだ」ってからむんです。とっても気持のいい酔っぱらいなんですけどねえ」その時のことを思い出して話してくれた。


 「それでどう答えましたか」
 「作詞してる男を知ってるから今度会ったら、日本の将来のためにも、よく説教しときます」
 「迷惑かけましたねえ」

 たかが歌なのだが、かんちがいされている方のために自註すると、「襟裳の春は何もない春です」は「日々の暮しはいやでも」とつながっていて、また春がやってくるけれど、年が変って過ぎゆくけれど。その先は何も変らないし、暮しなんて同じ繰り返しさ、という気持を述べたものだった。


 和田誠さんの「日曜日は歌謡曲」という本を読むと「進一版はたいそう新鮮であるかわりに何のことやら訳がわからない。ま、森進一版『襟裳岬』はこの訳のわからないところが受けたのだろうとぼくは思うのですけれども」とあって、「いったい誰が」「悩んで」「老いぼれて」「身構えながら話して」「臆病」なのかなあ。とあるのです。

 しかし、このことばは、とてもわかりやすい歌詞だと思っている。「悩んで」「老いぼれて」「身構えながら話して」「臆病」なのは、うたを吐いた本人以外ないじゃないですか。だって作詞した者が吐いたことばだもの。思うにうたってのは歌手に合わせて作るものだという古い考えがどこかにあって、そういう風に考えたりすると、このことばは、なるほどやっかいに思われるのかも知れない。だげれども、ぼくは自分の気持を書くのに精一杯で、歌手に合わせて書くほどの余裕がない。和田誠さんにはお会いしたことはないけれど、イラストも文もとても素敵で、愛読しているひとりであります。その和田誠さんにさえ、誤解された。だとすると、まるっきり訳のわからない人がまだまだ沢山いるんだなァ、と思え、お先真っ闇になる。歌のことばはやさしいほどいい、というのが、ぼくが心がけている第一のことで、活字の詩とうたの詩の境があるとしたら、そのことだろう。「襟裳岬」は自分のたどってきた暮しの気持を書いたけれど、森進一さんは自分のことのように思ったらしい。


 ぼくのことばが、森進一さんの心境を代弁するような結果になったとしたら、それはうたの作業として最も嬉しい。


 うた作りの過程は、そんな風にされるのが好きだ。ことばを書くものは、その時々の心境をノートにメモし、述べる。作曲者はそのノートから、まるで店先で立ち読みした人物のように気にいったことばに曲をつける。歌手は又、そのうたで、気にいったものだけをうたえばよい。みんながそんな作業に入ったら、すてきだ。

 

 

 

 

祭のあと

 

 

 新宿の飲み屋が並ぶ路地のひとつに、そのスナックがあった。店と店とが肩をいからしている間にはさまるようにして階段が覗いている。歩幅が狭く前のめりに落ちてしまいそうな階段を、踵で支えるようにして地底に下りると、白いペンキでぬりたくった扉がある。肩で押すと、一日中陽の射さない小さな空間があった。新宿繁華街の人の群れとネオン稼業。まぶしさから闇にもぐりこむような、饒舌から沈黙につき落とされるような、そんな空間に酒をひっかけたくてよく通った。


 殺気だった魂はジャックナイフのように飢えていた。

 とてもすてきだ きみ
 暗闇をさがそう
 でなけりや安いベッドで
 そしてキスして遊ぼう
 それから あれも
  からっ風が吹いてゆく
  からっ風が吹いてゆく

 ただじゃすまない男と女
 つかのまの夢だ 含みは
 強く抱いてはなさないで
 それでもまだとどかない
 とどいてはくれない
 もいちど抱いて
  からっ風が吹いてゆく
  からっ風が吹いてゆく
  ひとつにゃなれない男と女
        (からっ風のブルース)

 このうたのことばにその頃の殺気だった野良犬の吠える心情がある。拓郎が曲をつけ、うたったのは数年も経ってからだが、村岡健のサックスが疾風のように心臓の荒野を駆けぬけてゆき、女のスキャッ卜が引き裂かれた悲鳴のようにからむ。


 ぼくはどこの党にも学生運動にも加わらなかった。なぜ加わらなかったんだろう。それはお定まりのアジと群れのせいだ。ワレワレワァ、と声を合せて叫べない。叫ぶという激しい行為。群れて同じ言葉を吐くという行為が精神の内部にない。群れて行動するなら、一匹で動く方が性格に合っている。いつも一匹でいたし、いつも孤りでいたような気がする。衝動のままデモの中でもみくちゃにされ、わけのわからぬことを吽んだ日々もある。


 「この野郎、ちくしょう」催涙ガスで限をやられ機動隊とお巡りを憎んだ。デモの列の最前線におしだされ、機動隊の楯が顔と腹にぶつかり蹴られなぐられた。だから今も機動隊だけは憎んでいる。もみくちゃになってスナックに逃げこみ、そこで一夜を明かし、デモの集まったふりだしの広場に戻ると.角材や新聞やビラ、くぼんだ眼球にガスが残っていて、犯された瞳には.なにもかも憎しみに写った。

 ぼくは駆け出しの放送屋だった。有楽町にあるラジオ局で歌番組の構成をやって飯を食っていた。田舎からおふくろが出てきて、西荻のアパートで暮していた。台本の短い文はアパートでひねることもあったが、たいていは放送局の忙しく人がゆきかう制作局の机で、2Bの鉛筆を削りながら、ジョークや四季折々のことなどをこじつけながら書きとばしていた。ディスクージョッキーの構成はふた種類ある。ひとつはナレーターの個性にまかせたフリートーク。ひとつは一字一句書いて読ませるもので、出演者が忙しい場合は書きものになる。家庭の主婦向けに暮らしの体操の台本を書いたこともある。「いつも身体を動かしているといっても、人間ってのは同じ筋肉や同じ関節しか動かしていないものなんです。肩だって上にもちあげることはめったにありません。肩は錆びついてしまってるんですね。だから今朝は一分間だけ肩の錆びを落としてやりましょう。肩をあげて、はい下ろして。その調子! あげて、下げて!」


 およそ、こんな調子のものを毎日書き捨てていた。ジョークの才能などないものだから、ぼくの台本はきゅうくつで、しゃべり屋さん達に不評だった。本番で出演者がなめらかに話し、笑いのひとつもこぼれてディレクター氏が微笑めば、ひとつこなしたことになる。モれが放送稼業というものだが、ぼくの台本はギクシャクしてこなれが悪い。それでも飯を食うために、笑えもしないコントをひねる日々を続けていた。


 デモでよれよれになった躯を深夜のスナックで仮眠させ、気がつくとまだ台本を書いていない。録音はその夜だ。慌てて放送局にでかけてゆくと、山手線のホームで眩暈と吐き気をもよおし、柱にとっつかまっていると、風を巻きこみながら電車かホームにはいり、躯は倒れそうになるのだった。あの頃は空なんて見たこともなかった。空は汚れた鉛色で、心は読み捨てられた新聞紙みたいだった。制作局にはまだ誰もきていなくて、電話も鳴らない。昼頃までやっつけの台本をこなして夜の録音までのひまつぶしは、日比谷公園のベンチか。有楽町駅、派出所前の映画館だった。深夜に録音があるというのに台本を書いてないこともよくあった。そんな時は複写の青い紙からボールペンで直接書いてまにあわせる。なにを書くか、などというより、まにあうかまにあわぬかで首のつながる稼業だから台本屋と印刷屋を兼業するわけだ。この頃から、締切りまぎわにならないと何も始めない悪い習慣が身についてしまった。ぎりぎりになりゃあどうにかやれるさ。放送稼業の水を泳いできた者には、そんな癖がこびりついているのではないだろうか。夕方までならアルバイトの女性が数人複写係をはたしてくれ、放送屋たちのなぐり書きの乱れ文字を楷書で読みやすいものにしてくれたけれど、つまらぬ原稿を渡して、それを一字一句なぞられるのだと思うと、恥ずかしくて、ついぶっきら棒に手渡してしまうのだった。


 代々木公園から流れてきたデモの列が国会議事堂で過熱して、機動隊と憎みあった。頭上をコンクリートの大きなかけらがうなりをあげながらとび、機動隊は女子学生の髪をひっつかんでひきずりまむし、シャツをひっぺがし、ひきずりまわし、横っ腹を軍靴のような靴先で蹴りまくった。過激で野性に戻った人間たちは弱くやさしいものたちをまきこみなから憎悪だけが充満した。ぼくはぽかんとデモの後列でそれを見ていた。機動隊は制服でないものと見れば追いかけ警棒でなぐりかかった。前線にいると野性であった精神が後にいると醒めていた。憎しみあっても前線に居座りつづけるのがよいのか、冷静であるために身をずらすのがよいのか。三十歳を越した今でもまるで判らない。


 人間と人間が殺しあってらあ。


 醒めてしまった視線には、そんな風に見え、それから恐怖が襲ってきた。気がつくとデモの渦からはなれ、野次馬たちのなかに抜けでてしまっていた。それは奇妙な瞬間で、野次馬たちはタバコをふかし雑談しながら見ている。そこに戻ってしまったんだといううしろめたさ。だけれども気持をたてなおすには放心してしまって、足はただそこから離れてゆく。


 こんな殺しあいはもういやだ。と吐きすてるけれど、それは逃げてゆく自分の弁護にちがいない。
 洒を飲もう。新宿に流れた。

 肩で扉を押し陽の射さない暗闇に下りてゆくと、その女の子が歌っていた。煙草のけむりが薄暗いライトにけむっている。カウンターでは酔っぱらいのサラリーマン氏達が噂と愚痴をダラスに溶かし。髪の毛の長い男やジーンズの女の子たちが背中を丸めて椅子に座りこみ、コーヒーを飲んでいたりした。


 その女の子はギターを抱いて、ぽつんと一本、天井から落ちてきた光の輪の中で歌っていた。声は霧がかかったようで、マイクが安物のせいか肉声は固くしぼりとられている。彼女のデリケートな歌のふくらみはマイクの粗雑さにさえぎられてしまっていた。グラスの音や男だもの笑い声、氷の音、椅子をずらす音などが濁流のように部屋にあふれ、彼女の歌はほとんど聴こえない。ぼくはカウンターをはなれ、女の子のまえに座り、くたびれた精神をなげだして聴いていた。


 暗い唄だった。陽が一日中射さないので、息苦しくなって窓をあけると、その窓の向うにも汚れた空があり、空の遙かな彼方にもぽっかりと闇が落し穴のように口をひろげている。どこまでもどこまでも暗い空のような唄だった。彼女はちっとも正面を見ない。背中を丸め、ゆっくり指でギターを弾きながら歌っていた。巧くないギターだ。細い弦になるとほとんど響かない。低音部だけがベース音のように単調に繰り返しつぶやいて、そいつは汚れた空気をおそるおそる吸いこむ呼吸のようだ。


 拍手した。拍手したのはぼくだけだったので彼女はびっくりしたように顔をあげ微笑んだ。タバコを吸ったことのない女の、きれいな歯。


 彼女はマイクに向ってぽつりと話し始めた。アパート暮しをしていて、猫を飼いたいけれど管理人にみつかると住まわせてもらえなくなるから、とか。ひとりで眠っていると深夜の救急車のサイレンでさえ。なんだか身近に誰かが住んでいる実感に思えて、嬉しくなる。といった身の辺りの話だった。


 ぼくは群れからはなれ、新宿にかようようになった。その頃の気持を、あとになってうたのことばにしている。

 祭のあとの淋しさが
 いやでもやってくるのなら
 祭のあとの淋しさは
 たとえば女でまぎらわし
 もう帰ろう もう帰ってしまおう
 寝静まった街を抜けて

 人を怨むも恥かしく
 人をほめるも恥かしく
 なんのために憎むのか
 なんの怨みで憎むのか
 もう眠ろう もう眠ってしまおう
 臥待月のでるまでは

 徹夜が続いた。三、四時間仮眠しては放送局にでかけ台本を書きなぐり、録音につきあっていた。「祭のあと」をまとめたのは数年もたってからで、その頃は歌詞など書いてる時間なんてなかった。飲み屋の皿をたたいて飲んだくれてはホームのベンチに横たわり、酒は弱かったから、いつでも吐いた。うたというものではなかったけれど即興でうたった。旋律は確か「東京流れ者」だった。そいつをくずして歌う。

 右をみたら人ばかり
 左をみても人ばかり
 花の東京人だらけ
 暮しに追われ何処へ行く
 なんにも怒らぬ人ばかり
 酒を飲んだら酒ぴたり
 あ々 おいらもひとりの酔っぱらい

 右をみたら右がいる
 左をみても左いる
 花の東京、党だらけ
 群れを組んで何処へ行く
 ひとりにゃなれない人ばかり
 酒を飲んだら酒ぴたり
 あ々 おいらもひとりの酔っぱらい

 しばらく彼女の歌をきけなかった。放送局の秒にふりまわされる忙しさ。冗談と音の洪水。流行歌と早口とムード音楽とタレントのスケジュールにふりまわされる日々。三階のロビーにある喫茶ルームのソファに軀をまかせ眼をとじると、素朴な彼女の唄が聴こえてくるのだった。不器用で幼く、心の中のいちばん深く悲しいところに手のひらをおくような温かさ。

 日々を慰安が吹き荒れて
 帰ってゆける場所がない
 日々を慰安が吹きぬけて
 死んでしまうに早すぎる
 もう笑おう もう笑ってしまおう
 昨日の夢は冗談だったんだと

 別に死んじまっても、ひとりものの俺にはどうってことない、とやけっぱちだったんだけれど、あまりに早すぎらあ、という気持がそれをひきとめていた。彼女のうただけが慰めで、そういった溜り場や。慰めがあれば、人はけっこう日々を過ごしてゆけるものらしい。


 「放送で歌ってみたいな」 彼女がつぶやいた。喫茶店でぼくらは話すようになった。
 「放送なんてくだらないさ。やってる本人が言うんだからさ」
 「夢なの、電波にのるなんて」
 「ボロっきれみたいにすりきれちまうよ」
 「でもいろんな人に聴いてもらえるんでしょ」


 彼女は少しずつ陽気なブルースも歌いはじめた。監禁されていた魂に光が射して、太陽の恩恵に微笑むように丸い背筋をのばすようになった。胸いっぱい闇の空気を吸いこんで吐きだす唄は部屋のすみずみまでとどくようになり、ギターはかき弾らされた。男たちは飲む手を休め耳を傾けるようになった。


 スナックは、はやりだした。


 なじみの男客や若者だちか増えはじめた。ぼくがでかけると彼女は話したそうだったが、彼女に興味を持つ男たちは増え、特定の男と話すことは遠慮するのが店への礼儀というやつだから遠慮していた。ステージの回数はふえ深夜になるほど店はにぎわった。リクエストをせがむ客もいた。ブルースはまだ英語のままだった。暗い運命を背負ったニグロが、肉体労働のはての仲間の死や祝い、絶望と喜びがいりまじった唄を、彼女はうたっていたけれど、客が流行うたをリクエストするようになると、一つ二つ、そんなものも冗談でやってしまうようになった。彼女のアパートの階段をのぼったことがある。それは新宿から近い中央線のとある駅で、夜に働く女たちの多い安アパートだった。「男の人に部屋を見せるのは初めて」と彼女は言った。ぼくを扉の外に待たせ、慌てて散らかしたものをかたずけたらしい。


 「女の人ってきちっと整頓してるわよね。だから私は女として失格。でもいつもこんなふうだって思わないでね」


 窓枠に腰かけアパートの連なった露地を見下していた。なぜ窓枠に腰かけてしまうのだろう。若いひとり住いの女性のアパートを訪ねるとさっさと窓をあけ。腰をおろす習性が長くぼくの中にあった。それはぼくら兄弟がすべて男で、長い間、若い女の部屋に入る機会などなかったからだろう。視覚にも臭覚にも慣れないきらびやかさと甘ずっぱさがあって、それが息苦しくさせ、窓をあけると、気楽さをとりもどせる。そんな習性は、ひとりの女と暮しはじめるまでとれなかった。


 日暮れまでぼくらはその部屋に居た。
 彼女はいくつかのうたをギターをつまびいてうたってくれた。
 「寒いわ」と彼女が言った。


 窓は開いたまま、陽は沈みかかり深まってゆく秋の冷たい風が小さな部屋をひやして吹いていた。


 窓を閉めると沈黙がきた。狭い部屋に座りこんだ男と女は何もすることがなかった。彼女はいくっかのうたのレパートリーをうたい尽くしていたし。テレビはなかった。


「私の指は太くて恥ずかしいわ。あなたの指はほっそりしてきれいね」と彼女は言った。
「ほら」


 彼女は手のひらをぼくのまえに差し出した。ぼくも差し出して、手のひらをあわせた。
「あなたの方が女性みたいにきれいよ」
「しかし骨っぽい」
「そうね」


少しのおいた、ぼくらはあわせたままの手のひらを見ていた。指先に血液の流れてゆくけはいがした。

 「彼女に変な男がついちまってね。彼女をさかんに誘うんだよ」


 店のマスターが相談をもちかけてきた。ひとつの季節が通りすぎ。ぼくは、その当時噂になり始めたフォークソングというものの番組にとり組み始めていた。学生たちがまだ英語のままで歌っているコンサートを捜しては、はしごして観てまわった。それはぼくが一生やってゆく仕事、あるいは歌運動といったものになりそうな予感がした。番組創りに活気がでてきた。


 変な男とは、流行歌のプロダクションらしい。


 「で彼女は?」
 「それがさ。彼女食えないだろう。月給とって歌ってゆけるってんで、店をやめたいっていいだしてるのさ」
 「彼女の気持にまかせればいいんじゃないですか」
 「そんなつれないこといわないでよ。頼むから。彼女にやめられちゃあ困るんだ」
 その言い方は商売をする言いまむしたった。だから相談にのる気をなくしてしまった。

 まもなく彼女は店をやめた。


 ぼくも店から遠ざかるようになった。彼女はプロダクションに所属して。レ″スソをうけてるらしいとの噂だった。そのうちラジオに出演し、名の売れた流行歌の作詞作曲家のうたでデビューした。


 新宿のレコード店で彼女のカラー写真の宣伝ポスターを見たことがある。長いドレスを着て、うつむきかげんの顔で、微笑んでいる。それは街ゆく人の群れにむかっていた。


 ぽくはレコードを買おうと思い捜した。
 そのシングル・レコードはおびただしい歌謡曲のなかにあった。買うのをやめた。
 テレビで彼女を見たことがある。


 司会者の、お決まりの新人紹介があり。ステージに色とりどりのライトがつくと、長いドレスではなく、短いスカートから向い足が駆け、ほほえみ、大げさな振り付けで歌った。


 テレビをきった。
 なんだかむしょうに腹だたしく。むしょうにわびしかった。
 うたをひとつ書いた。

 「好もしからざる女」だったきみの
 監禁された歌をきいていると
 酒さえもいらないと思ったものさ
 もういちどきみがぼくの
 退屈さを盗んでくれるなら
 すべての女と縁を切ってもいい
 
 そうさ きみの居たころの
 この部屋の扉は
 いつだって夜に向ってひらかれて
 マネキンさえ踊る陽気なブルースを歌ってたよ
 
  君が去ったあとは
  君が去ったあとは
 てんではっぴいになれないんだよ
 「飼われた女」になったきみは
 おあいそ笑いの人形でしかない
 けっこうテレビが似合うようになったね
 もう帰ってこなくてもいいよ
 どんな餌がきみを誘惑しちまったのか
 あやつっている男はどんな奴なんだろうか

 きみのいないこの部屋のステージで
 きのうから厚い化粧の女が
 味噌汁みたいな恋唄をうたい始めてるよ
 昔の仲間は寄りつかなくなったよ

  君が去ったあとは
  君が去ったあとは
  てんではっぴいになれないんだよ
           (君去りし後)
 
 ずっと後で吉田拓郎が作曲して歌ってくれた。村岡健さんたちの管がはいり。好きなうただ。


 つま恋の野外コンサート。深夜の湿りだした芝生で聴いたことがある。それは六万人の群れた陽気な若者たちの肉体にむかって射撃され、若者たちは夜明け近い解放区で踊りまくり叫びつづけた。あの暗い想い出が。こうして野で若者たちをつかのまの、うたの旅路に運んでゆく。ぽくはぼんやりと芝生に立ってタバコをふかしながら、踊り狂うさまを見ていた。肩車をくんだ青年や夢路をたどる少女や抱きあう男と女。とおりすぎた若さや懐かしさ。肉体の叫び。それは闘う姿勢ではなかったけれど、ぶっかりあう若い喜びがあった。


 ぼくはそれを見ながら「祭のあと」の最後の行をおもいだしていた。

 祭のあとの淋しさは
 死んだ男にくれてやろ
 祭のあとの淋しさは
 死んだ女にくれてやろ
 もう怨むまい もう怨むのはよそう
 今宵の酒に酔いしれて

 

 

 

 

 

『うたのことばが聴えてくる』

 

 

また会おうぜ あばよ

 

 吉田拓郎との十数年間の歌創りが終った。ぼくはそうはっきり感じたので、ぼくらの歌を聴いてくれた人たちに、終結宣言を伝えておきたい。何かつまらん感情のゆきちがいがあった訳ではない。そういうのは馴れ合い好きなケチな男たちのいざこざで、少しましな男ならむしろ距離を置くことで、相手と厳しくつきあおうとするはずだ。


 この文を書きはじめるまえに、数時間、吉田拓郎と創った歌たちのことを想い出していた。作品は、創り終ったときから、すでに過去になってゆくもので、歌手はそれを歌いつづける苦業が待っているけれど、ことば書きのぼくにはいつも先しかない。


 終結宣言を書く気になって、さすがに感傷的になり、めずらしく過去の拓郎との歌たちを想い出していた。そして、これで終りにする決心をして、初めて、強い友情に似た感情が湧いてきた。


 友情、なんてことばは文字にするだけで恥かしい。しかしここではそう書きたい。巷では吉田拓郎の友人は小室等ということになっているけれど、ぼくから見ると、あれは兄弟、という種類のもので、小室くんが拓郎の歌に、何か新鮮な刺激を強く与えたことはないと思う。友、と呼べるのは、相手の新しい可能性をひきだしてゆくことを常に考えてる関係で、ごく日常的なつきあいならともかく、何かを創る場合、身近にいるいないで測れるものではない。


 吉田拓郎への今のぼくの感情は、彼の大好きな(ぼくも無論好きだが)プロレスにたとえれば、アントニオ猪木とスタンハンセンの関係である。日常的に馬鹿な話をして笑いあうようなつまらないつきあいじゃない。しかしいつもあいつのことが頭から抜けないのだ。そして相手の必殺技をさらに上まわる殺し技を、客の前で、リングのまえで披露してみせる。


 ぼくはそういう風に、拓郎とのつながりを考えてきた。ぼくは多分人いちばん人恋しい人間だ。だから、多くの人だちとは、かなりべったりとしたつきあいがある。だけれど、拓郎とはリングのつきあいでいたかった。リングでつきあえて、おまけに一緒に何かを創れる関係なんて、めったにあるもんじゃない。そいつは最高のファイトに似ている。


 拓郎とぼくとの日常的なつながりは全くない、といっていい。まさか、と思う人が多いかも知れない。ふたりでいつものように酒を飮んだり電話で話したりを想像していた人たちが多かっただろう。そんな風にしてもよかったかも知れない。なぜしなかったのかは、ここでは最高のファイトということだけにとどめたい。拓郎はインタビューなどで、そのことにふれられると、何かつまらないことをくちばしっていたけれど、あれも他意はなく、そのとおりで、彼はどう答えていいものか、とまどっているのがわかるのだ。


 その種の「くちばしり」を読むたびに拓郎が「岡本ちゃん近くに来いよ」と言ってるようで胸が痛んだ。今、気づいたのだがぼくのことを「岡本ちゃん」と呼ぶ人間は、数えてみたら三人しかいない。それだけ古いつきあいとも言えるが、彼の独得の呼び方に彼の持っている天性の親しみを感じるのだ。


 拓郎は、今、初めて言うけれど、なかなかいい男ですよ。彼が音楽やことばの面で才能を輝かせながら、大きく歌を変えてゆく、とは思わないけれど、しかし彼は状況を変えてゆける男だと思う。状況を変えてゆける男はめったにいないのだ。それをある明るさをもって変えてゆける男は、さらにごくまれだと思う。彼のここ数年のいらつきをみていると、それは敵のいなくなったいらつきだと思う。ぼくもまたそうで、長く休戦していたけれど、表面の幸せそうなにぎわいとは別に、ひじょうにおっかないものが進みつつある。


 拓郎は日々何をしていたのかぼくは知らないけれど、ぼくのほうは、もっぱら歌から離れたところで、調べたり、人と会ったり、種々な場所に行ったりしていた。それは思っていたより時間がかかってしまったけれど、この一年ほどまえから、ずっと過激になり、トレーニングも積んで、もういちどリングにもどりつつある。ぼくは吉田拓郎が、今後、本気でやってゆくことは、歌以外の状況を抱えながら広げてゆくことだと思うけれど、彼は今、何を考えているのか、彼のスタッフたちは、拓郎に音楽以外のどんな強烈な刺激を与えているのか、知らない。


 終結宣言ついでにひと言いえば、吉田拓郎を歌以外の場につれてゆけて、拓郎をうちのめす状況を眼のまえでみせる男たちが彼には必要で、そうではないスタッフは、むしろもういらない、とぼくは思う。


 沢山の歌手たちの日常をぼくは見てきたけれど、それはつまらないもんですよ。なにもない日にはレコード聴いてるか、楽器弾いてるか、テレビみてるか、友だちらしい人と雑談してるか、女とつきあっているか、そんなものだ。で、何か状況を知るのは、テレビか新聞か噂ぐらい。つまらん、と思うね。


 拓郎との歌創りで、何かやれそうだ、と思ったことが一度だけある。「アジアの片隅で」を創った時だ。それ以前「襟裳岬」を創ってから、ぼくらは約六年ほど新しい歌を創っていなかった。ぼくが旅に出てしまい、うたとは生活するほどの仕事以外、縁を切ってしまったことがあるからだ。(その間ぼくのニセ者と称する男が出現し、あちこちで酒を飲んでいたのはお笑いだったけれど)、ぼくの気持は完全に休んでいて、「君の朝」という歌が広がったりしたけれど、まァそういうこともあるさ、といった程度の作品しか創っていない。


 六年ぶりに拓郎の呼ぶ声がして「シャングリラ」というLPに参加した。実はこの時、すでに「アジアの片隅で」は作品が出来ていた。ぼくはLPに入れるべきだと考えたけれど、レコーディングはされなかった。長すぎたからだが、拓郎とリングで対する気になったぼくは肩すかしを食った。一年して「いつも見ていたヒロシマ」と「アジアの片隅で」「まるで孤児のように」「いくつもの朝がまた」と並んでリングに立ったような気がした。まわりの歌たちは、ふやけていたけれど、吉田拓郎はそうあるべきだというのが、あの歌たちを通じての、彼へのぼくのメッセージだったのだ。


 「アジアの片隅で」のLPが出て、三ヵ月ほど経ったある日、ぼくは拓郎のスタッフである、陣山くんに「次のLP予定は?」と尋ねた。無論拓郎との次のリング戦の対戦のために必殺技を考えるためだ。LP予定は多分・・・と陣山はあまり早く、ぼくがたずねるので、笑っていたっけ。


 そして数力月かけて、二十三曲の歌を創った。連絡を待つのは最高だ。相手にこちらから教えないのはリングだからで、必殺技を教えるのは八百長である。


 しかしスタッフからの連絡はなかった。LP「無人島で・・・」は片面が拓郎で片面が松本隆。何度かそのLPを聴いたけれど「アジアの片隅で」をさらに広げてゆく、ある状況を創っていける歌は一曲もなかった。
 終ったな、というのが、この終結宣言を書く気になった動機だ。


 吉田拓郎は、松本隆と何処に行き何を創ってゆくのか、それは知らない。二人の間で、歌以外の何か語られているのかも無論、ぼくは知らない。もう終ったのだ。

 

さらば吉田拓郎。「また会おうぜ、あばよ」って歌を創ったっけ。コンサートは観に行くよ。君はぼくの親友だったのだから。

 

 

 

 

あとがき

 

 

 岡本おさみさんが著書で吉田拓郎との「訣別」を書いたのは、1984年でした。その『うたのことばが聴えてくる』から約二十年、このコンビが復活しました。2003年にリリースされたアルバム『月夜のカヌー』です。岡本さんはこの「復活の事情」について、週刊誌に寄稿しています。以下はその記事から、一部を抜粋引用させてもらいました。

 

 岡本さんはまず、拓郎との最初の出会いについて述べ、そして次に、訣別を本に書いてしまったことを悔いていると、半生の言葉を記しています。また、『月夜のカヌー』についても語っています。

 

 

 

 拓郎とはいつも作品を通じてモノを作ってきました。きっかけは「渋谷ジャンジャン」。僕が拓郎のライブをセットした。ただ、2回目から、彼はしゃべる内容も曲順も全部自分で決めてしまっだので、僕は何もやることがなくなってしまった。そこで、彼のような文体の詩なら書けると考え、ノート一冊分作って、それを彼に「気に入ったら使って」と渡した。拓郎はその中から何曲か歌ってくれました。それ以降も僕が詩を渡して5年くらいして曲が付いたこともある。マスコミは「吉田拓郎の新曲」と呼んだ。面白いです。

 

 〈岡本さんは、著書『うたのことばが聴えてくる』(84年)の中で、《吉田拓郎との十数年間の歌創りが終った……ぼくらの歌を聴いてくれた人たちに、終結宣言を伝えておきたい》と書いた。激しい言葉だ〉

 

 ひどいことを書いたものです。しかし、僕から見て彼が違う方向に向かったので、決別というより作品を作っていくスタンスとして一度終わったと感じたのだと思う。

 

 こじれた関係になったことは一度もない。べ夕べ夕と酒を飲んで付き合うというのでもなく、いつも作品を真ん中に置いて、気に入れば彼が歌う、気に入らなければ歌わない。そんなふうに続けてきました。

 

 『月夜のカヌー』は、拓郎からメールが来ました。「久しぶりにやらない!?」。一言で言えばそんな内容です。「それなら、どういうのがいい」。僕はメールを打った。返信が来ました。「僕もある年齢になっだので、今、日常を歌わないとまずい気がする。等身大のものをやりたい」。続いて「朝起きるとこんなことをやってるんだよ」と生活の報告が届くようになった。拓郎と僕とはそれほど世代が違うわけではない。僕の日常生活とダブればいい。そう考えて手探りで書いていきました。とにかく、1回目の作業が終わったということでしょう。

 

 「吉田拓郎」という人間の日常が全部見えるわけではありません。けれども、想像はできます。ちょっとこれは違うと線は引ける。「白いレースの日傘」という曲を書きました。海だ。日傘をさした女性がいる。でも、今の彼は海に入らないに違いない。20代なら、必ず海に飛び込んだ。女性が波と戯れている。彼はそのまま座って見ているでしょう。それが、今のスタンス。子供がガヤガヤと騒いでいる。ある年齢になると父親はその様子をじっと見ている。こんな切り囗で僕らの世代の日常と詩をつき合わせていったのです。

 

 拓郎はもっと初々しいものが欲しかったのかもしれません。でも、そんなこと確認しなかった。いつものように、気に入っだ詩だけに曲をつけ、残った詩はそのまま持っていてくれればいい。この関係は変わらないでしょう、永遠に。

 

 拓郎は現在、全国ツアーの最中です。このために詩を書いてほしいと頼まれました。しかし、彼が肺がんであると知り、もう書けなくなってしまったのです。病気はすごく重たいもの。それを考えながら、再度、日常を潜り拔けるなんて絶対に無理。遠慮させてもらいました。東京でのライブを聴きました。とても元気そうでうれしかった。2人の共同作業はのんびり次に向かっていくでしょう。

 

 

 

 

『 岡本おさみと吉田拓郎 』

 

 

 

岡本おさみさんは、2015年11月、逝去されました。あらためてご冥福をお祈りします。