家の庭に母が植えたパイナップルリリーの花が咲きました。パイナップルが生るような不思議な形で。
カサブランカの花も、
百合の一種、カサブランカと白百合との区別がわかりません。
百合の種類はいくつもあるようで、私の奥さんがいろいろ植えています。
百合の花と言えば、三島由紀夫が『豊饒の海』第二部「奔馬」で、次のように書いています。
高く掲げた百合の花は危険に揺れはじめ、踊りが進むにつれて、百合は気高く立てられ、又、横ざまにあしらわれ、会い、又、離れて、空(くう)をよぎるその白いなよやかな線は鋭くなって、一種の刃(やいば)のように見えるのだった。
これは、奈良の大神(おおみわ)神社の摂社、率川(いさがわ)神社の「ゆりまつり」の様子を描いた。この大神神社の御神体である三輪山を登った後に感銘受けて書いた文字が「清明」で、大神神社境内に石碑として残されている。
この「清明」を「きよあき」と読めるが、『豊饒の海』第一部「春の雪」の主人公松枝清顕(まつがえきよあき)の「きよあき」の由来であろうと推測する。
三島は、「ゆりまつり」で配られた百合の花を大事に家に持って帰ってきたことを「奔馬」に於ける一つのモチーフとして描いている。
そして、『豊饒の海』第4部「天人五衰」の最後のシーンがこの有名な一節。
この庭には何もない。記憶もなければ何もないところへ、自分は来てしまったと本多は思った。庭は夏の日ざかりの日を浴びてしんとしている。……
ここには、「奔馬」にあった「清明」……清く明るい感じはあるが、生き生きとした感じがない。この空虚な明るさ、意味のない「豊饒」を嘆いて死んだ三島の後(1970年以降)、私たちはその後の無意味な「豊饒」と空虚な明るさを意味あるが如く生かされてきた。
そして、三島の残したこの予言通りになった。
「このまま行ったら日本はなくなって、その代わりに、無機的な、からっぽな、ニュートラルな、中間色の、富裕な、抜け目がない、或る経済大国が極東の一角に残るのであろう」
偽日本人と外国勢力に搾取されるだけの国に成り果ててしまったが、このままで終らない。最後の大逆転がある。
かつて、大陸・半島系侵略者が日本列島に来る前、三輪山は出雲族の聖地であり、出雲族の最強武力集団ニギハヤヒの拠点であった。出雲族に国譲りされた渡来系種族は、やがてその血族「天皇」を頂点とする神社体系を形成し、現在の神社本庁組織となったが、エンリル(YHWH)を祀るこの偽宗教も、天皇とともに消え失せる。そして、縄文人にとっての大地母神マザーアースが復活するだろう。
庭に咲いた百合の花はそのことを知っているのではないのか……そんな気がした。