越えられない壁はない。
乗り越えられない困難はない。
ずっと、そう思ってきた。
お前と一緒だったから。
お前が、隣にいてくれたから。
――空白時間――
「嘘、だろ……」
自分で発した言葉が、まるで現実感を持たずに、夜闇に消えた。
だが、目の前の兵士が、静かに首を振る。
その後ろには、木の箱が台車の上に置かれていた。ちょうど、人一人が入れる大きさの。
「ッ…!」
始めは、その箱をただ茫然と眺めていた少年だったが、不意に何か糸が切れたように、勢い良く玄関を飛び出した。
「おい、リン!」
「信じたくない気持ちはわかるが…」
呼びかけられても、少年、リンは、弾き飛ばさんばかりの勢いで木箱の、棺の蓋を開けた。
その中に横たわっているのは、自分と同じ顔をした、だが、穏やかにさえ見える、少年の遺体だった。
「ライト…」
呼びかけて、頬にそっと触れて、だが、氷のように冷たくなった肌の感触に、リンはとっさに身を引いた。
冷たい。
心の中で、改めて反芻する。
信じたくない。信じられるわけもない。
つい数日前、確かに、無事に戻る、と、戦地に赴いていった兄が、まさかこのような形で家に戻ってくるなど、考えられるだろうか。
「ライトには、王帝陛下から勲章が与えられるそうだ。戦地で、最も功績を上げたと…」
「んなもんもらって何になる!? ライトが戻ってくんのかよ!?」
思わず怒鳴るリンに、兵士たちは口ごもってしまう。
当たったってしょうがない。
そんなことは、わかっているのだ。
だが、この抑えきれない感情はどこにぶつければいい?
いつもだったら、些細なことで怒鳴ることもあったリンをたしなめるのはいつもライトで、なのに、そのライトの口が、二度と開くはずもない。
「リン、そろそろ……」
棺の前でうなだれたままのリンに、心配そうに兵士が声をかけるが、彼は黙って立ちあがると、ライトの体を抱え、兵士たちに背を向ける。
「勲章なんかいらない。そう、王帝陛下に伝えてくれ」
それだけ言うと、リンは勢い良く足で蹴って扉を閉めた。
『こら、リン、いい加減にしろ。お前、何回扉壊してると思ってるんだよ?』
すぐ、ライトの小言が頭をよぎる。自分が抱えている彼からは、寝息すら聞こえないというのに。
「そうだ、勲章なんかいらない。俺が、俺達が欲しいのは、たったひとつだけ…」
独りごち、リンはライトの部屋のベッドに彼を寝かせると、夜闇に溶けてしまいそうな、真っ黒なマントを取り出した。
「俺が、助けるよ、ライト。お前だけは、失いたくないんだ」
今度はライトに呼びかけるように言って、リンは、そっとライトの冷たい手を握った。
「だから、ちょっとだけ、待ってろよ?」
そう言い残すと、リンはそっとライトの手をベッドに戻し、部屋を後にした。
「本当に、大バカ者だ、お前は」
血まみれのシャツと、体中に刻まれた悪魔の紋章を見ながら、ライトは静かに独りごちた。
あの、ハットゥシリの内乱で、自分は確かに、心臓に弓矢を打ちこまれた。
感覚的に、あの時悟ったのだ。あぁ、自分は死ぬんだ、と。
だが、今こうしてここにいるのは、リンのせい、と言うべきか、リンのおかげ、というべきか。
「全く無茶しやがって。国の禁忌の“再臨(アセト)”の書を盗み出せる人間なんか、国内に俺とお前しかいないだろう」
そう言うが、もちろん、眠る弟から返事はない。
“再臨”の書。
この国、というより、この世界に伝わる、半ば伝承のようなもの。ラヌス経典の中の一節に記されていた、唱えれば死者をも生き返らせるという、呪文書だ。
それを、リンはこともあろうか、王墓から盗み出し、そして、自分を復活させた。
「全く、無茶ばかりしやがって」
言いながら、ライトは、汗で顔に張り付いたリンの前髪を払ってやる。
“再臨”を唱えたことによる魔力の浪費と、禁忌を犯した罰として、その身に“再臨”の書を封じられた重圧で、リンは気を失ったまま意識を戻さない。
そして、体中に刻まれた、七つの大罪を象徴する、悪魔の紋様。
その全てが、今のリンを苦しめる。
だが、
『お前を失う、なんて、考えられなかったんだよ!』
目を覚まして、怒鳴った自分にリンが言った、悲痛な叫び。きっと、立場が逆なら、自分も同じことをしていただろう。
「リン、ごめんな?」
聞こえていないだろうことは理解していても、言わずにはいられなかった。
今まで、たった二人で生きてきたから。
親の顔も、よく覚えていない。ただ、宮廷魔道士だった、というのは覚えていて、そのおかげで、兄弟は幼い頃から魔術学校に通い、不自由なく暮らして来られたのだ。
「う…、ライト…」
小さく呻いて、リンが兄の名を呼ぶ。それに応えるように、ライトは弟の手を強く握った。
「もう、お前から目は離さねぇよ。俺が、側にいて、お前を見守っててやる」
それは、自分にも言い聞かせる言葉だった。
リンを失いたくない。
それは、自分も同じだから。
「今度は、俺がお前を護る番だ」
言いながら、固く握った手は、無意識だろうか、リンに握り返されて、それが、お互いの決意のような気がした。
もう、二度と離さない。
離れない。
言葉にするのは簡単だけど、それ以上の確かな絆がここにはあるから。
今日も、明日に向かって歩いていける。
二人で一つの、たった一人の兄弟だから。