平日午後の一般練習。


熱中症の危険性が示唆され出してから、部活動時に必ず入るようになった飲水休憩。
(平成の御世では信じ難い話だけれど、恐ろしいことに、ほんの数年前までスポーツ中は絶飲食が基本だった)
そして二次性徴による体格差、体力差が顕れ始める中等部。
練習量も内容も異なる男テニと女テニなのだが、この休憩インターバルは時々重なる。
そう。
毎回、ではなくたまに、でもなく、『さりげなく』時々。
スポーツに青春を捧げている(筈の)青春学園在学中少年少女達。
彼等彼女等にだって、レストタイムにくらいは潤いが欲しいのだろう。
一部の(しかし確固たる)派閥による、涙ぐましい調整がその裏にある。
部活顧問も敢えて口出ししない。
いわゆる暗黙の了解、というやつだ。

仲良く隣接しつつも、清く正しく別々の部室とコートを保有する男女テニス部。
その所属部員達が交流を持つささやかな時間が、この時だ。
安定の鉄面皮鬼部長グルーピーに、最近急増中の生意気スーパールーキーにわかファン、そして女子のアンダースコート萌えなお年頃男子の皆さん。

本来ならばクールダウンする時間に俄然、活気付くのが彼等彼女等だったりして。
そんな桃色(古式な呼称で失礼)な雰囲気が噂を呼ぶのか。
硬庭部直近の桜が『かの』カップル誕生の『伝説の樹』とか呼ばれているわけだけれども。

エスカレーター式私立在学生といえど、毎日毎回缶ジュースを購入するわけではない。
つつましく水道水で流した分を補給したりもするのだ。
1999年春において、既存のスポーツドリンクが甘過ぎ味が濃過ぎ、というのも理由のひとつ。
発汗量に対して過剰な糖分の摂取を、身体が拒否してしまうのだ。
なのでカルキ臭くてなまぬるい水に、良いとこの子女も結構、早くから馴染んでいく。

僕のような中流公務員家庭育ちのように、清貧を心がけているのでもなく。
心に咲いた桜の蕾を膨らませて、意中の異性を待ち受けながら延々洗顔洗眼洗髪を繰り返している男女達。
むしろ水道局の会計課の小父さん小母さんにお叱りを受けること必須。
そんな獲物の物色に鵜の目鷹の目な面子から、そっと外れていくと大抵残された場所は決まって来るわけで。

僕が彼女を見付けるのは、大体において今、此処。
幾何学模様のように綺麗に編み込んだ長いおさげはゆらゆら揺れて。
肉付きが良くなる前の、ほっそりと伸びやかな脚はたどたどしいステップを踏みながら。
卵型の小顔に大きな瞳、控えめな口唇は毎度のごとく、『困った』というよに結ばれて。
華奢な腕は(申し訳ないけれど)素人丸出しな開き具合でラケットを重そうにスイング。
嗚呼、やっぱり今日も居た。

「やぁ、調子はどうだい」

竜崎桜乃さん。
僕等の男テニ顧問竜崎スミレ先生のお孫さん。
今時珍しい控えめで(卑屈め、という意地悪な見方もあるけれど)大人しめな(いじられ易い、とも言える)新入部員。

「乾先輩、こんにちは」

悩みながら思い出しながら繰り返す素振りを止めて、律儀に挨拶を返してくれる。
はにかんだ(自信の無い、とも言い換えられる)笑みを添えて。
こぼれる真っ白な糸切り歯。

健康な歯列は健全な家庭のステータス。

惜しげもなく晒してくれるそれ。
僕の女テニ内部の評価を知っているなら、まず取らない行為。
そして、前回の『あれ』を覚えているのなら、まず留まらないであろう、この場面。

だからこそ、集団行動が基本の運動部で何時も独り、なんだろうけれど。
コートの方から黄色い声援が弾けて、此処まで響いて来る。
鬼部長が伝家の宝刀を抜いた、か。

盛り上がっているな、あっちは。

「休むのも部活のうちだよ。
水分はちゃんと摂った?」

そして、こっちはこんなに爺臭いんだよな。
何しろ【安全牌】ですから、はい。

「はい、大丈夫です。
お気遣いありがとうございます、先輩」
「熱心だね」
「そんな、それは教えて下さる先輩達の方ですよ。
なのに私ったら・・・。
時間が経つと、教わったことが全部抜けちゃいそうで」
「先輩によって指導要領が違ったりしてるんじゃないのかい?」
「えぇ、私の飲み込みが悪いものですから。
色々言葉を分かり易く言い直したりしてくれて」
「入れ替わり立ち代り?」
「そうです、皆さん本当に親身になってくれてます」

だから頑張らないと、と微笑んで。
それから何時も通りにぴょこん、と頭をひとつ下げて。
きっちり編んだおさげも揺らして。
そして、先輩『達』から教わったフォームのおさらいを、再開する。
本当に一途に、練習熱心なんだよな。
この一本気な処、海堂と張るかもしれない。

・・・全然さらえてない辺りは、ダントツで竜崎さんらしいけれど。

仮入部期間が終わってもう随分経つ。
毎日同じことを教わっているのに、哀しい程フォームが無茶苦茶だ。
肩が力み過ぎで、手首に頼り過ぎで、肘に負荷がかかり過ぎで、腰は高過ぎで、膝なんか伸び切っちゃってて、足底(そくてい)はもう、無残にべっ・ちゃり!と地に着いてしまっていて。

はっきり言おう。
これ程の熱意と生真面目な練習量。
感服する。君は凄いよ、竜崎さん。
けれど。
だけれどね。

それが・・・全く!!技量の成長に反映されていない。

そんな僕の無遠慮な視線と、無言の意味に気付きながら。
弧を描く両頬を(名前の表す通り)桜色に上気させながら。
それでも素振りを続ける彼女。

やっぱり・・・健気?

毎回のパターンなら、僕は此処できびすをかえすんだけれど。

「ちょっといいかな、竜崎さん」

パターンを壊して、声をかけてみる。
彼女との距離、僕の歩幅で七歩半。
一歩、二歩と詰めながら。

「はっ、はいっ!なな何でしょう?」

盲(めくら)滅法な腕遣いが、瞬時、ぐにゃりと歪む。
朱を通り越して、頬どころか首まで真っ赤に染まるのは。

この間のこと、忘れてたわけじゃないんです。

言外のレスポンス。
受け止めながらも、距離を縮めてもう一歩。

「心に仕舞って置くべきと想っていたんだけれど」
「え。
・・・えぇっと」

続けざまに一歩。

「でも」
「は・・・、はい」

加えて一歩。

「我慢、ってよくないよね」
「えっ?っ、え、えっ」

最後の半歩。

「だから」
「あ、あのあのあの」

僕と彼女は差し向かい。
184に達した僕が、ようやく151㎝な彼女へ屈み込めば。
彼女に影が差して。

「い、いいい乾先輩!?」

襲い掛かっているように、見えなくも。

「正直になることにしたんだ」
「!?!?!?!?!?!?!?!?!」

音声に表せない悲鳴は、僕が自他共に認める『八つ手級』な右手を伸ばしたから。
そのまま比べるなら、ラケットを握り締めた彼女のそれは。
とても、か弱げで、儚(はかな)くて、小さくて。
本当に、紅葉の掌(たなごころ)とは良く言ったものだ。

「捨てた方が良いものもあるんだよ、竜崎さ」
「きゃぁあああぁああっっ!!!!」

パシン。

小気味よい音が、同時にふたつ。

僕の左頬と、もう片方は。
後ろに開いた僕の左手。
そこにおさまっているのは、レモンイエローのダンロップ。

うん、問題なくキャッチ。
計算通りの球速。
想定内の手指へのダメージ。

やるな、スーパールーキーめ。

受け取った試合球のサーバーには振り返らず、彼女とのゼロ距離もそのままで。
奴さんが今、どんな表情をしているのか。
想像にとどめるのも楽しみのうち。

「・・・。
・・・・・・。
・・・・・・・・・・。
っ、
ぇ?ぇえっ??」

僕をはたいてしまった結果、離れたラケットは僕の右手に。
ちょっとだけジンジンする左手には握った試合球。
双方をニ三回当てて、テンションを確認。

「うん、このボールなら丁度いい。
悪いな、わざわざ」

呆気に取られたままの彼女。まだ真っ赤。
僕の言葉に、視線は(自分ではたいてしまって)距離の取れた僕の顔と、僕の肩越しのサービスの主へと行って戻って。

「一度、女子から言われたこと全部。
そっくりそのまま忘れた方がいい」
「・・・。はぃ?」
「うん、本来男子部員が女子部内のことに口出しすべきじゃない。
と想って黙っていたんだけれど。
正直なところ、そろそろ我慢も限界かな、と」
「え」
「男子部でも同じ考えの奴がいるんでね。
そうだろ?」

背中越しに、賛同を求めれば。

「・・・・・・・・・・。
オンナノコ、ってのは口から教えちゃいますからね。
伝える内容が同じでも、別の奴が言えば受け手にはまったくの別物になる。
混乱するの、当たり前っしょ」

素っ気無くも、ストレートな返答が。

それをレシーブして、僕。

「そして『分からないなら』と、ただでさえ複数居る教え手が、更に言い回しを変え続ければ。
教わる側はなおのこと、理解から遠ざかっていくだろうね。
蓄積していくのは『こんなに教わっているのに』という罪悪感と、
『他の皆は出来ているのに』という、置いてけぼりに対する焦燥感だけだ」

ひとつ、頷いて。
呆然と空いた両手を開きっぱなしの彼女へ、小さく笑ってみせる。

「テニスの上達法って何だと思う?」

ボールを添えて返すラケット、僕には軽過ぎるけれど。
彼女には棍棒並みに感じる筈。

物理的にも、心理的にも。

「・・・毎日の練習、ですか?」

受け止めながら、竜崎さん。
残念でした、と首を振って僕。

「リラックスすること。
構えず力まず馴染むこと。
ボールの弾む力に、インパクトするラケットの感触に、跳ねるコートの硬さに」

ちょっと説教がましいな。
これが大石なら、不二なら、また違うんだけれども。
まぁ、僕だからなあ。

しっかり受け渡せた、と確認して。
初めて彼女から大きく距離を取って、身を起こす。
五月晴れの空。

「ここまでは、僕の屁理屈。
建前だね。
一番大事なことがあって、それだけは忘れちゃいけないんだ」

手にした男子部のボールと、女子部員用のラケットと、赤くなった僕の頬と、僕の背後の、彼女にとって誰より大切な大切な王子様を、順番に見ながら、彼女は。

「大事・・・」
「うん、大事だ」
「他の何よりも、ですか?」
「そう、何よりもだよ」

そうだろ、越前?

「それって」
「分かるかい?
今の君に、一番必要なこと」

そして、今一番遠いであろうこと。
僕の回りくどい謎々に、付いて来てくれる彼女。
う~ん、と真面目に考え込めば、寄る柳の眉。

「いいえ。
・・・私、何だか先輩にはこればっかりですけど」

降参します、と正面の彼女が柔らかく溜め息をつけば。
背後から生意気な声が生意気なことをずけずけ。

「へたっぴへ教えるには一番へたっぴな遣り方っすよね・・・。
ま、どこまで分かってやってんだか」

当てこすったのは僕にか、女テニにか。
 

僕は背筋を伸ばし、両手を腰に軽く添える。
背後の『奴』へ、続けろというサイン。
彼女の視線も釣られて僕を越え、そちらへ。

いいさ。
ここはお前に譲るとしよう。
例え彼女への風当たりの原因がお前だからとしても。
それを差し引いても、僕がお前を許せなくても。

なんたって、お前は彼女の『王子様』なんだからな。

一拍の間。
飲水休憩終了まで、一分切ったかな。

「楽しめばいいんじゃない?」

溜めて溜めての回答は、あっさりばっさり。

「え、えちぜんく」
「強いて言うなら。
前に言ったイースタングリップ、さ」

瞬時、再三赤面する彼女に、さっくりざっくり。
ただし、決して立て板に水、にはならないよう。

「指一本分空けろ、ってあれだけは覚えてるみたいだから。
そこだけ守っとけばいいんじゃない?」

はい、ジュニアチャンプのレクチャータイム終了。

僕も頷いて同意を示す。
あらら、竜崎さんてば耳まで真っ赤っか。

「じゃ、じゃあ私、それじゃどうしたら」
「取り合えず、だね竜崎さん」

此処からは、青学私設コーチの出番だ。

「は、はい」
「ドリブルしてみようか」
「・・・。

はっ、はぃっ?!
え、えぇえ!?

ど、ドリ・・・」

おお、予想二割増しの反応。
飽きない娘(こ)だ、つくづく。

「そう、ドリブル。
バスケの授業でやるから分かるだろ?
あれをテニスでやってみようか」

ドリブルが分からない日本人中学生は希少だろうけれど。
あえて、手真似で示してみせる。
指導とは、言葉が一割、サインが九割。

そう、大事なのは。
『君に伝えたいんだ』という熱意と、誠意。
そして・・・添えられるならば、控えめな好意。

「そのラケットで、ボールを床に撞(つ)いてみて。
越前はああ言っているけれど、ぶっちゃけグリップも忘れていいから」
「先輩、それは流石に乱暴じゃないっすか」
「楽しめばいいんだろ?」

天才チャンプに、ささやかな返球。
エースとなったかな?

「一回でも二回でもいいよ。
自分の手で握ったラケットが叩くボール、バウンドする地面、また跳ね上がってくるボール。
それを体感して、覚えていこう。
どうかな?出来そうかい」

ついつい、でかい図体で小首を傾げる僕。
比して、小さな小さな彼女の顔に浮かんでいるのは。
高校数学の難問を小学算数の解法で解けてしまった、という表情で。

「スポーツなのに・・・遊びみたいですね」
「そう。遊びながらが良いんだ」

僕の後ろの奴にも、異論はないみたいだ。
奴の性格からして、同意なんてしやしないだろうけど。

「慣れてきたらドリブルしながら、そこの水道まで行って帰ってみて。
歩けたら競歩で。次は走ってみて。
それもクリア出来たら、ラケットのスムースとラフ(表裏)にチェンジしながら交互で。
これも物足りなくなったら、トスして落とさず、打ち上げ続け(リフティング)へレベルアップ」

まずは身体に覚えさせることだ。
言葉の洪水でパンク寸前の頭と、萎縮し切っている自分自身の心に。
教えてやることだ。

何よりも、テニスは楽しいんだ、ってことを。

「・・・女テニにも初心者の一人二人、いるっしょ。
誘い合ってさ、競争してみたら?
案外面白いかもよ」

なるほど。
孤立している現状を打破するのにも繋がるな、確かに。
なかなか好いサポートじゃないか。

「へたっぴ仲間同士、競えばお互いに伸びるから」

・・・・・・・前言撤回。こいつは。

「とにかく、まずはそのガチガチぶりを何とかすることだね」

最後まで憎まれ口を叩く小さな暴君の声が、休憩終了の合図に重なって遠ざかる。
ぴったり一分。
悔しいけれど、こういうところは流石だよなあ。

「あ、ありがとう越前く」
「オレじゃないだろ。
それは先輩に言いなよ、竜崎」

じゃあな、と極めてから去るあたりが、もう同じ男として何ともはや。
奴に僕が勝っているのって、もしかして牛乳の摂取量だけだとか言われそうだ。

意地で僕も振り向かないけれど、直ぐ斜め下には、うっとりと見送る御姫様の夢見顔。
そうだよな、名前で呼んでもらえたんだもんな。
こうなるよなぁ、やっぱり。

嗚呼、【安全牌】返上の日は何時になるやら。

「じゃあ、そろそろ僕等も行こうか」
「は」

いわゆる『お星様』のお眼々になっていた竜崎さんに、申し訳ないけれど声をかけ。
何回目かの赤面を見せられる僕。
慣れない娘だな、つくづく。

そしてほとほと諦めないよな、僕って。

紅潮を繰り返し過ぎて、眉に溜まった汗がひとしずく。
ぽとりと垂れてアスファルトへしたたった。
のが、何かの結晶が散ったようだ、とは思わずも。

まあ、可愛いとか言うんだろうな、桃色好きな男子部員なら。うん。
きっと、あいつ等なら言うだろう、あいつ等なら。うん。

下へ向いた視線を意識して巡らせてみる。
春特有の、深みのない、届きそうな蒼い空。

「きゃ!もう皆入ってます!」

気付けば既にインパクト音と声出しが両コートから。
・・・コーチも罰は罰、なんだろうな、やっぱり。

「乾先輩、行きましょう」
「うん、そうだね。
それじゃ」

今更だけれども、ダッシュで互いの方向へ別れようとしたら。

「あ、あの!先輩!」
「うん?」

慌てながらも、凛とした声が。
振り向けば、優しく、抱き締めるよに抱えたラケットとボール。
僕を見上げるのは、小さな小さな彼女。
小さな顔に、意志のみなぎる大きな瞳。
もう、そこには迷いも力みも無い。

あの日の宵闇が、ふと甦る。

「ありがとうございました。
それから・・・ほっぺ、ごめんなさいっっ」

ぴょこん、とおさげを揺らしてお辞儀をひとつ。
翻るスカートに細い脚。
そのまま決して速くないけれど、生真面目に走り出す彼女。

「・・・。

気を持たせてくれるね、竜崎さん」

・・・僕は年上希望の筈・・・だ、よな。だった、よな?

こちらは毒気を抜かれて、棒立ちのまま。
女テニのコートへ、ペコペコしながら駆けていく、器用な彼女。
それを何故だか最後まで見守ってしまった僕だけ、水飲み場に残った。

このあと結局。
僕と彼女はそれぞれ遅刻の罰で、見上げた空の青さの下、仲良く伴走することになって。
一部の男女から恨みやっかみを買う羽目になるんだけれど。

そして。

その中には・・・もしかしたらあの生意気な後輩が。
表面上は何時ものクールな素振りを崩さずに。
けれど。
内心は穏やかではなかった、かもしれない。
・・・・・・んだけれど・・・・・・


それはまた、僕の気付かぬ、別の話。