あー、まだ月曜日か。

この言葉を使った人は一体何人いるのでしょうか。
世の中の人間の習慣は恐ろしいもので、もはや規律による支配ではないでしょうか。
一週間というシステムがあって週末が二日間休みという構造が、人間の言動や行動を支配している。
いうなれば、日常の構造だけでなく、行事など大きなくくりにおいても、そうです。
人間が選択しているようで、全く選択的でない。
そうとらされている。
しかし、その様なシステムを作ったのは人間で、しかしながら今となってそれを操作できるモノは存在しません。

話は変わりますが、男子トイレに小便器がみっつならんでいる場合、
最初の一人のほとんどが、真ん中を使いません。
それは真ん中だと次にくる人と必ず隣り合ってしまうから。
そう考えると、真ん中の便器は両脇に比べてかなり使用頻度は低い。
便器が三つというだけで、人の行動はすでに選択的でなくなっている。

これらは過剰な意識かもしれません。
しかし、その様な日常の中の潜在的な支配に目を向ければ、うまく何か仕込む事ができるはず。
志木駅にいるストリートミュージシャン。

真っ赤なチェリー 真っ赤なチェリー 舐めて
真っ赤なチェリー 真っ赤なチェリー 噛んで

耳に残って離れないエンドレスリピート。

そもそろストリートミュージシャンはなんで外で歌うのでしょうか。
1.家だと苦情くる
2.そんな気分
3.聴いてほしい魂の叫び
4.仲間を求めて
5.プロ志望
6.スカウト希望
7.ロマン
8.趣味
9.ツアー中
10.世界を変えたい
11.自分を変えたい
12.そして変わらない

うーん。。

それでも街並みに彩を与える貴重な役割を担っていると思います。
溢れ出した活動を許容できる環境が減っている中で、
何の変哲もないところが計画されたものよりも、
活き活きしているのが悔しい感じがします。

atelierEM-マネキン

マネキン人形

日本が如何に高齢化/肥満化してきているかが垣間見えるディスプレイ。
需要が取って代わってきているのに加えて、
服がきれいに見れるかよりも、生活者が共感できるかが重要な時代だと改めて思い知らされます。
先日キースへリング美術館へ行ってきました。
いいなと思った点はヘリングの目論見、
好きじゃなかった点は展示構成です。

まずはいいと思った事から。
ヘリングは基本的に子好きな方だったようです。
売っていた本をさーっと見た時に、子どもは純粋で汚れを知らなくて美しいという様なことを語っていました。
子どもも、ヘリングのポップで鮮やかな色彩が好きらしく、ヘリングが子どもに囲まれている写真や活動歴からも分かります。
しかし、ヘリングが作品を通して訴えてきたことは、「ライフ」(たぶん、人生/日常/生き様というような意味で使われている)におけるダークな側面で、異常な性欲や差別、暴力、欲望などが中心です。
それを輪郭のみの人間や犬(のようなもの)によって描いています。
もちろん、一見ポップな印象を与える彼の作品では、子どもがそれを「好き」の決め手にしているとは考え辛く、下手すれば気づいてさえいない場合もあります。
もちろん、ヘリング自身それは分かりきっていたと思います。
しめしめと思っていたのでしょうか。
それとも子どもの主観を通して、汚れた世界や自分を含めた人間を慰めていたのでしょうか。
その作品と作家のギャップが、単純な二面性芸術に落ち着かないところが好きです。

次は好きじゃないところ。
展示構成。
とくに、闇の展示室/希望の展示室という対局となる展示室があるのですが、
その通り暗い展示空間と明るい展示空間。
それによって、作品のパワーを最大限に強化しています。
だけれども、ヘリングの作品は往々にしてヘリングの軸となるもの(結局同じもの)を訴えてきたのにも関わらず、
展示空間によってあそこまで作品のベクトルを操作してしまうのはどうでしょうか。
おかげで、両者にあった作品の印象は反対。
ホワイトキューブで展示することは全く正解だとは思いませんが。
もともとサブウェイアートを拠点にしていた作家なのでなにが正解なのか私は分かりません。
ヘリングは自分の作品が美術館に展示されていることをどう思うのでしょうか。

こんな感じです。
今回は不明瞭な感じですが、最終的には楽しかったです。
全然更新していませんでした

もうだめぽ

というわけで前身のブログで書いたことを再アップ(おいおい)


$atelierEM-ハイネケン


今回は色のお話です

といっても狭義ですが

最近この世の中には本当の色で見える物質は存在しないのではないか

と思いました

例えばこのハイネケンダークという海外ビール

ボクはこのビールが大好きなんですが

それはおいといて

瓶の色はざっくり言うと茶色です加えて半透明

健全な視覚能力の人はそれを疑うことはしません

この瓶は茶色

けれど光が当たっているところは何色ですか

そこも本質は茶色です

しかし光が当たることで白っぽくなっています

人々はそれは光が当たっているからそうなっているがそれは茶色

だと思います

しかし色をビットでとらえると例えばこの写真のように

そこは茶色ではなく白です

これはD・カッツという哲学者の人が言うところの表面色に関係しています

つまり本来の茶色を見ていてもそれは本来の色ではないのです

脳では都合良く処理されますが

実際に認知しているは本来の色ではない

つまりこの世のすべての色は完全に本来そのものの色で認知することは不可能

「色彩は空間的性質を持っている」   D・カッツ

色の現れ方は空間性と運動感覚(身体性)によって決まると言います

色彩はそのものの色とおかれている空間と光によって決まる(認知される)

つまり色とは本来の色ではないのです

現象 体感 認知

単体概念ではなく複雑概念であり多元的に決まるもの

決まるというのは認知されるということですね

けれど一つだけ本来の色が見れる色を発見しました

それは黒です

金沢21世紀美術館に訪れた時

カプーアの部屋という部屋がありました

部屋の中は薄暗く斜めの壁の中央に黒い楕円がありました

それはまるでブラックホール

描かれているのか貼られているのかくりぬかれているのか

一体どれが正しいのかまるで分からない

ここで光の話にうつりますが

人間は光がモノにあたってそれが反射した反射光によってこの世界を見ています

つまり光があろうがなかろうが

反射しなければその空間やモノは見えない

石上純也氏の修士設計で光が反射せずに一方向にしか流れていない空間を提案していました

つまり光が流れていく方を向くと何も見えない

反対を向くと光が向かってきますから空間が見える

自分(の眼)を境にして体感として空間が切れている

カプーアの部屋のそれはまさしくそれだと思いました

描かれているのか貼られているのかくりぬかれているのかが分からない

つまり光も空間もものの色も全く分からないということです

それが黒

だから唯一黒は人間が本来の色を認知できる色ではないか

でもそうすると

「色彩は空間的性質を持っている」というD・カッツの定義に反することになります

するとそれはもはや色ではないということになる

確かに色とは本来の色が見えなくても少し変わって見えるもの

カプーアの部屋のそれは見えていないだから何かわからない

表面なのか穴なのかまったく分からない

ってことは本来そのもののまま認知できる色は存在しないのか

どうなんでしょう

カプーアの部屋での体験は

見えない展示品というおもしろいものでしたけど