『太陽がいっぱい』と聞くと私の心の中に、あの音楽とともにあの強烈な映像が蘇ってくる。この映画でアランドロンが演じる主人公トム・リプレーの生き様が私自身の生き様とよく似ているからだ。

 貧しい育ちのアランドロンは幸せるになるために自分の持つ全ての力と全ての知恵を働かせて、一瞬たりとも気を緩めず邁進する。追い詰められた者が必死に生きようとする姿が少年から青年にかけて苦境の中で生きてきた私と似ている。それに加えてニーノ・ロータの哀しい曲が心の奥に沁みわたり氷結する。坂本龍一も自らの葬儀で流すために制作していたプレイリストに『太陽がいっぱい』のニーノ・ロータの曲が2曲も選ばれていた。彼にどんなこだわりがあったのだろうか?

 これは以前から思っていたことだが、誰がこのような原作となる小説を書いたのか?少し調べてみるとアメリカのパトリシア・ハイスミスという女性の小説家で、彼女は自ら同性愛者と言っている。それゆえか多様な立場から物事を考えられる才能ある作家なのかも知れない。このような現代の社会の一面を鋭く切り取った多様性ある小説が次々生み出されるアメリカは凄いと思うが、この小説を基に名作映画に仕上げたルネ・クレマン監督も凄い。彼は私の大好きな映画『ロミオとジュリエット」も手掛けている。哀しく感動的な物語を作り上げる才能に富んだ偉人だ。なぜこのような半世紀に以前に製作されたこれらの作品に心惹かれ、離れられなくなるのか?それは私の限界であり、この時代に生きてきた76歳の老いた人間の宿命なのかもしれない。

 

 ところで、アランドロンのような著名人の名前を聞くと、私の担当していた番組『アタック25』を思い出す。それはその人が有名になったその時々に問題として取り上げてきたからだ。番組が始まったのは1975年、それ以後もアランドロンはフランスの有名な俳優として人々に関心を持たれ続けてきた。そのためよく問題になった。例えば「アランドロンが主演した名作『太陽はいっぱい』の音楽を担当したイタリア人作曲家は誰でしょう?」などと彼に関するの問題だ。それだけでなくアランドロンと司会者の児玉清さんが同年配の二枚目俳優であることからよく比べたりもした。児玉さんが70歳を迎えた際、司会の児玉さんは元気に活躍しているが、アランドロンはどうしているのだろう?などと、そんな会話がスタッフの間で交わされた。

 特に最近、テレビや新聞で過去の時代を彩った作家やミュージシャン、俳優たちその他の有名人が死去したと知ると、たちまち彼らが活躍した時代が蘇り、当時のアタックの会議や収録風景を思い出す。それだけでなく自分の生活のあれやこれやのシーンも浮かび上がる。そんな遥か昔の想いに慕っている自分を知った時、老いたなと寂しくなる。しかし、46年間続いた長寿クイズ番組に関わっていた者にとっては必然な嬉しい連動作業なのだろう。ホッ!