2023年になり、新年を祝う言葉を彼方此方で目にします。ただ、僕個人はどうも新年を祝う気持ちになれません。むしろ生きていることに後ろめたさを覚えます。
こんな話を面と向かって誰かにしたら、厭がられると思うので家族にもできません。当然、友だちにも。周りに誰かが居ても、孤独感のような虚しい感覚に襲われます。
行き場のない本音をここに書いています。不思議です。親しい人間には本音を晒せないのに、誰が読むかもわからないここに本音を書いているのですから。
親しい人の前で、ある程度話を合わせる。要するに、演技をしています。それに対して、実態の無いネットの世界では自分の素を書いています。
僕は、本音と建前、或は冗談や社交辞令が非常に苦手なのですが、本音を隠して話すようにはしています。建前を言えているかは定かではありませんが。
本音を言わないのは、本心を言って引かれたり、嫌われたりするのが嫌だからです。なので、そうしないようにある程度距離を取る、壁を作っています。
本音と建前のような二面性の話で、ずっと引っ掛かりを覚えていることが2つあります。ひとつは、中学時代の先生、もう一つは大学時代の同級生です。
中学時代、僕は美化委員でした。美化委員の生徒は、掃除の時間に校門前や職員室前のトイレなど、ほかの生徒とは違う掃除場所を受け持ち掃除をしていました。当時の僕は校門前の担当でした。
ある日、箒を使って掃除をしていたとき、箒を束ねる糸がほつれていたので、用務を管理している先生に頼んで、別のものと変えてもらいました。そして、先生はこう言いました。「あとで直しておくよ、また何かあればいつでも言って」
翌日の掃除で箒を取りに行くと、箒は直っていませんでした。それでまた箒を変えてもらいに先生のところに行くと、先生は掃除中にチャンバラをやっていた2人の生徒を叱っていました。掃除は15分しかなく、先生の指導を待っていましたが、掃除時間は残り5分しかありません。このままでは掃除の時間が終わってしまう。そう思った僕は先生に声を掛けました。「すいません。箒を変えていただきたいのですが…」
すると、先生は叱っている勢いのまま、僕のほうを向いて「いまの状況がわからないのか!!」と一喝。
当時の僕は、話しかけてはいけない雰囲気があるのをわかっていました。しかし、「いつでも」という言葉を思い出して、残り時間もあるので声を掛けました。
この話は、僕が社交辞令を受け取れなかった出来事として片付けできました。しかし、本音を言えば仕事を全うするための行いで叱責された、どうにも腑に落ちない経験でした。結局、校門掃除に使う箒は僕が美化委員のあいだは直されることはありませんでした。
もう一つは、大学時代のことです。外国語専攻で学んでいたとき、僕は教職課程を履修して教員免許を取得しました。理由は勉強の延長で取れたからです。なんとも打算的ですが……。
僕の大学には悪知恵が働く人たちがちらほらいました。その中には教職課程を取る人も。そして、教職課程を取っていた彼らは、いまは首都圏の公立学校で英語教師として働いています。
僕はどうも要領が悪く、普通の人よりも倍の時間を掛けないと覚えられません。なので、悪知恵、ズルをして単位を取る人たちが許せなかった、いまも覚えていることなので、いまも許していないのですが。
悪知恵の一部を紹介します。
まず、第二外国語の期末試験のとき。僕の大学の第二外国語の期末試験は和訳問題を4題(各25点)という試験でした。試験の内容は英検準2級くらいの難度です。そして紙の辞書のみ持ち込み可でした。
外国語をやりたくなかった(?)彼らはどうしたか。彼らは、辞書のページを切り抜いてスマホが入るようにして、そこにスマホを忍ばせていました。辞書をスマホケース、或はデジタル・カンニング・ペーパーにしたとも言えます。試験当日は、どうやらGoogle翻訳でバレないように試験問題をスマホに打ち込んで訳を書いていたようです。
ほかには、英文学概論の期末試験でのことです。英文学概論では、エリザベス朝演劇〜現代英文学までおよそ500年の時代時代に活躍した作家・作品についての知識を問われる試験で、授業で言及される作家・作品を英語表記で覚えなくてはなりませんでした。シェイクスピア『ロミオとジュリエット』からオースティン『高慢と偏見』、そしてイシグロ『女たちの遠い夏』まで。文学全集や古典新訳文庫などで英文学に明るい人でも、原題、出版年をスラスラ書ける人はそうはいません。ならば、文学に興味のない人は……。
というわけで、彼らはどうしたか。ドクターグリップのシャーペンを購入したのでした。勉強するためではありません。ドクターグリップには鞘の部分にデコレーションできるスペースがあります。スペースにカンペを忍ばせたのでした。具体的には、まずコピー用紙に作家と作品名の一覧を印刷して、それを縮小コピーし、それを巻物常に細工して忍ばせて当日に使ったようです。
そんな彼らはきっと子どもたちにこう言っているはずです。「カンニングはいかんぞ」
この話、誤解しないでほしいのですが、教師の誰もが悪いと責めているわけでも、非難しているわけでもありません。たまたま、僕の周りにたまたまこういうタイプの人がいて、彼らが教員というだけです。
しかし、視野の狭い僕はこういった経験をしたことで、教員免許を取りましたが、そもそも先生と呼ばれることも、学校で先生と呼ばれる人も、どうにも好きになれません。
しかし、せっかく教員免許を取ったのだからと、最近は教員の求人に応募しては全て落ちています。不採用通知のたびに、やっぱり教員には向かないのかと思う次第です。不採用については、こういうメンタリティや経験不足などさまざまなことが原因なのですが。
こんな瑣末な事を書きましたが、どこかで心に溜まっている想いを吐き出したかった、そんなシンプルな動機で今書きました。
誰しも生きていれば、理不尽な事に悩み、苦しむ、これはわかっています。だから、僕の悩みなんて大したことないと思います。でも、周囲と比べれば大したことがないことも、僕にとっては大問題だったりします。そして、自分の心の底に溜まった沈殿物を書き出さないとどうにも収まらないことがあります。
ここに書いたのは、沈殿物のほんの一部です。