*小春日和* ~お空から舞い降りた天使~

*小春日和* ~お空から舞い降りた天使~

ここは2週間という短い時間を力いっぱい生きた我が家の娘、亜純のお部屋です。

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ここは2週間という短い時間を力いっぱい生きた我が家の娘、亜純のお部屋です。
少しでも多くの人に亜純が誕生したことを、亜純が存在することを
知ってもらいたくて、

同じような経験をしてどうしていいかわからず、孤独に震えているママたちに
『ひとりじゃないんだよ』と伝えたくて、

そして、みんなにも自分自身にも亜純からのメッセージを伝えたくて、
『あすみちゃんの記録』として残しました。


管理人・あすみママの記憶をたどって文章にしたものです。
間違っていることもあるかもしれません。
ご理解のほどお願いします。


HP作成初心者なのでお見苦しいところもあるかと思います。
何かありましたらメール教えて頂けたら嬉しく思います。

誹謗・中傷、ひやかし等は固くお断りします。


管理人・あすみママ
2003年2月17日


2001年10月 長女を出産して1年と8ヶ月がたっていた
妊娠の兆候があり市販の妊娠検査薬で検査した。
結果はやっぱり強い陽性。
パパと大喜びでもう一度確認。「明日病院行ってくるね」と 嬉しくて胸がドキドキしていた。

上のこの時からお世話になっていた近所の産婦人科に行った。
8週目に入っていた。
嬉しくて 嬉しくて 早速母子手帳をもらいに行った。
2度目の妊娠だったけど 長女の時は切迫流・早産で10ヶ月中ほとんどが安静だったため
不安で毎日泣いていたので今回もやっぱり不安はあった。
それでも上の子は37週目に無事生まれたし 大きな病気をすることもなく育っていたので
 今回もきっと大丈夫だと変な自身があった。

妊娠・出産はあたりまえだと思っていた。
流産さえしなければ 無理さえしなければ元気な赤ちゃんが当たり前に生まれてくると思っていた。

本当に初期の頃に少し出血があったけど 流産止めの注射をして 安静にしていたらすぐにおさまった。
お腹の張りもあまりなく 順調な妊娠生活に私は満足していた。
上のこの時のちがって とっても順調だった。

16週に入った頃始めての胎動があった。
上の子を見ながらの忙しい毎日を過ごしていたので お風呂の中だけが
唯一お腹の赤ちゃんとのコミュニケーションの場だった。
上の子の時よりも胎動が激しく 特にお風呂の中では赤ちゃんも気持ちよかったのか 
お腹の形が変わるほどボコボコ蹴っていた。
24週に入った頃からは布団なのかに入るとまたボコボコ蹴って 
痛くてなかなか眠りにつけないこともありった。
本当に元気な赤ちゃんだった。

26週を過ぎた頃から少しお腹が張るようになってきていたが 検診では
「二人目だからこんなもんだろう」
ということだったので それほど心配はしていなかった。
28週頃には女の子だろうと言われた。
先生は「次は男の子がよかったんでは?」と言っていたが 
歳の近い姉妹というのに憧れていたので 私は嬉しかった。
おそろいの服を着せて そっくりの姉妹を連れて歩くことを想像したりして 楽しみにしていた。
とにかく調子がよかった。

でもこの頃から上の子が風邪をひいたり体調を崩すことが多くなり 
小児科通いが続いたためか頻繁にお腹が張るようになった。
病院に連れて行く途中でお腹が張ってしばらく動けなくなることもあった。
3月の末には嘔吐下痢症になり脱水になり救急病院にお世話になったが 
私はひどいお腹の張りがあったため病院にはついていけず
自宅で心配しながらパパからの連絡を待っていた。
しばらく毎日近所の小児科に通った。
やっと嘔吐下痢がおさまってきたと思ったら 引き続きインフルエンザにかかった。
上の子が心配なのに なかなか思うように動けない自分。
毎日イライラしていた。
そしてこの時私のお腹の張りは本当にひどかった。
でもなかなか産婦人科には行けずパパが休みの週末まで待った。
ひどいお腹の張りは心配だったが この時はまさか赤ちゃんに何かある・・なんてことは考えもしなかった。
「もうすぐ8ヶ月・・・もしこのまま陣痛になって生まれてしまっても大丈夫だろう・・・」そう思っていた。
赤ちゃんの病気のことどころか 未熟児の大変さも全くわかっていなかった。
30週に入った土曜日 やっと上の子をパパに見てもらって検診に行った。
とにかくお腹の張りと 上の子がインフルエンザにかかっていることを
伝えなければ・・・と思い診察室に入った。

まず 先生にお腹の張りが頻繁なことを伝えながらベッドの上に・・・。
「うん・・・ちょっと張ってるな・・後で内診してみるわな」と言われながら
いつものようにドップラーで赤ちゃんの心音を聞いた。
『ドクンドクン・・・』いつもと変わらず元気な心音が聞こえてきた。
そしていつものように
「うん 元気 元気」と喜んだ。

次はエコー。
これはいつも楽しみだった。
「赤ちゃんどれくらい大きくなってるかな・・」
覗き込んで見てみた。頭が写った。体が写った。動いている姿も見えた。
でもその日は なんだかお腹の辺りを慎重に何度も見ていた。
「先週女の子だと言ってたけど 何か見えたのかな?男の子だったのかな?」
何もわからないが私も一緒になって覗き込んでいた。
何も心配はしていなかった。

先生が少しずつ説明をし始めた。
お腹の辺りを指して
「ここ白く空洞になってるでしょ?これ水ね・・・赤ちゃんのお腹に水がたま
ってるわ。
でも もしかしたらおしっこがたまってるのかもしれないから もう一度2~3日
後に見せに来て」と言われた。

上の子の時もおしっこがたまってたことがあった。
でもこんなことは言われなかったので少し心配になりながらも 『大丈夫』と
思っていた。
誰に聞いても「赤ちゃんのお腹におしっこがたまってるんやわ」
「私も言われたことあるわ 大丈夫やろ」と
返ってきた。

2日後 パパに仕事を遅刻してもらってもう一度病院へ行ってみた。
きっと水はなくなってて 「おしっこやったな~」って笑い話になる・・・そう信じて
いた。
診察室に入ってすぐエコーだった。
ベッドに横になって赤ちゃんを見てもらった。
やっぱりお腹の水はなくなってはいなかった。。。
すぐに大きな病院を紹介された。紹介状を書いてもらってる間 私の頭の中は
真っ白の状態だった。
『何がおこってるんだろう・・・。どうなっちゃうんだろう・・・。』
震えてくる体を抑えるのに必死だった。
椅子に座ってられなくなって ベッドに横になった。吐きそうだった。
でも まだことの大変さが私にはわかってなかった。
上の子がインフルエンザにかかってるから・・と大きい病院に行く日を考えていた。
「そんなこと言ってる場合じゃない!」
先生に怒られた。

どうやって家に帰ったのか覚えてない。
途中知り合いの人に出会って話をしたがあまり覚えていない。
後からその人が「○○さんに出会ったけど すごく顔色悪くてしんどそうだった」と
言っていたということを聞いた。


家に帰ってからパパに話した。
パパは私のことを心配しながらも仕事に行かなくては行けなかったので
早く帰ると言い残して 出かけていった。

上の子を見ながら 頭の中は『障害』そんな言葉がグルグルまわっていた。
「私に障害児を育てることができるんだろうか・・・。守ることができるんだろうか・・・。」
「上の子がいじめにあったりしたら・・・」
と考えていた。
やっぱり まだわかっていなかった。
以前友達の子供が生まれた時 その友達が
「ちゃんと手足あってよかったわ。奇形とかあったらどうしょうかと思ったけど
普通に五体満足やったからよかったわ」と言っていたのを思い出して 
皆に何て説明しよう・・なんてことも考えていた。
ひどい母親だった。
自分をひっぱたいてやりたい・・・。

二日後 実家の親に来てもらい 上の子を見てもらって
紹介状を持って大きな病院へ行った。

そこの先生はあまりのお腹の張りのひどさと子宮口が少し開いていることに驚いていた。
エコーでは赤ちゃんのお腹の水の多さに驚いていた・・・。
『胎児水腫』と診断された。30週の時だった。
障害どころか お腹の中で赤ちゃんが死んでしまうかもしれないと言われた。
もし無事に生まれても1日がヤマだとも言われた。
お腹の水がじゃまして肺や心臓が育っていないため 
生まれて自分で呼吸できるかわからないということだった。

これまで一度も考えたことがなかった『赤ちゃんの死』・・・
本当に何も考えられなかった。
頭の中は真っ白だった。
この時何を思ったか今でもあまり思い出せない。
ただそんなことがあるはずがない・・そう信じていた。
何を言われても 自分に限ってそんなことがあるはずがない・・そう思っていた。
時間とともに赤ちゃんのお腹の水はなくなって 
先生も驚くほどのすごい赤ちゃんだー!なんてことになるよ・・きっと。
そう思って笑っていたように思う。

切迫早産と検査のため即入院を言われた。
上の子のこともあったので その日は家に帰らせてもらって 
パパの実家にあずける都合をつけて 次の日入院をした。


2002年4月5日 31週目 大きな病院に入院した。
入院したら24時間ウテメリンの点滴をつけ フロアー内安静を言われた。
そして毎日NST(ノン・ストレス・テスト)をした。
最初の頃はお腹の収縮も少なく 胎動は頻繁にあった。
赤ちゃんのお腹の水は相変わらず多かったが 元気だった。
時々お腹が張ると 赤ちゃんの心拍がガクンと落ちる。
怖かったが すぐに戻るようなら心配はいらないと言われた。それでもやっぱり
怖かった。
胎動も日に日に小さくなってきた。
とにかく毎日毎日怖くて 胎動を感じるのを待っていた。

赤ちゃんのお腹に大量の水が入っているため 帝王切開で出産することになった。
おそらく普通分娩での出産は無理だろう・・と言われていたし
そして 何より赤ちゃんに負担をかけたくなかった。
その時まだ30週 出産にはまだまだ早い週数だった。
でも予定日までは赤ちゃんももたないだろう・・ということで 赤ちゃんの様子を
見ながら 
赤ちゃんにとって一番いい時期に出産するということにした。

入院して2週間目に入っていた。
お腹が見る見るうちに大きくなった。私の体重も急に増えた。
安静にしてるからかな・・なんて看護師さんと話していたが あまりにも急に増えた
ため 妊娠中毒症も心配になってきた。
血圧も上の数値が高くなった。でも下は正常範囲だから・・と毎日血圧を測るという
ことで様子を見ることになった。
お腹の張りも10分ごとにあったりしたのでもうひとつ 点滴が増え トイレ 洗顔以外
はベッドの上になった。
この頃から少し動いただけで ひどい動悸と息切れがした。
肋骨のあたりが痛くなってきて じっと寝てもいられなかった。ご飯もあまり食べられな
くなった。
少しでも動くと とにかくお腹が張った。

4月18日 この日のNSTの結果は調子がよかった。
お腹の張りも少なかった。
看護師さんから シャワーOKがでた。シャワー室に行くだけで息が切れた。
シャワー中に頻繁にお腹が張ってきて 怖くなったきたので早めにでた。
髪の毛も乾かさず ベッドに横になったらそのまま夕飯まで眠ってしまった。
お腹の張りがあり食欲もあまりなかった。
夜 部屋の皆と話していても TVを見ていても なんだかお腹が気になって落ち着かなかった。

消灯前 担当医と少し話した後 破水したような感じがあって ナースコールをし 診察室へ行く。
破水じゃなかった。出血していた。
次の日に小児外科の先生にエコーを診てもらうことになっていたので 
点滴の数値をあげて様子を見ることに。
でも時々くるお腹の張りと 点滴の副作用と 恐怖で眠れなかった。
夜中 やっぱり頻繁にお腹が張ってくるのでもう一度ナースコール。
担当医はいなかったので当直の先生に診てもらった。
子宮口はかなり開いていた。
もう母体の方が限界だということで 点滴をひとつ減らす。
「担当医に相談してみないとわからないが おそらく明日手術になる」と言われた。
次の日 担当医と小児科の先生が来るまで 心電図とウテメリンの点滴をして待った。
怖くて震えていた。
とっても長い夜だった。
次の日の朝 9時に担当医が来て小児外科の先生に診てもらい 
午後2時頃から手術が決まった。
前日からお腹の赤ちゃんの様子が変わっていた。
赤ちゃんがむくみ始めていた。
そしてお腹の中の水が何か違うものに変わっていると言われた。
それが何なのかは未だにわかっていない。
赤ちゃんの心臓に穴が開いているかもしれないとも言われた。
そして 赤ちゃんのお腹の中に大きな空洞が3つ見られると言われ
2つは腎臓だろうと
もうひとつはわからなかった。
後 解剖結果でわかることになる。

手術の時間が決まってから 準備に慌ただしかった。
私はやっと点滴がはずれ 体が自由になった気がしたが それも
つかの間だった。
あっという間に強い陣痛が来た。
点滴がはずれたのが10時過ぎ 12時過ぎには何かをはさんでいるような
感じがあって ずっと苦しかった。
痛いというより 苦しかった。
看護師さんがお尻を押さえてくれていた。
2時頃の予定が 1時半に変わった。

職場が近かったパパが仕事を途中で抜けて来てくれた時は ちょうどベッドで
手術室に運ばれる時だった。
「頑張って」と声をかけてくれたが 返事をすることはできなかった。

手術室に入っても もう自分では何も体勢をとれなかった。
陣痛に時間の間隔はなかった。
突然何かが破裂するような音がして 破水した。
その直後腰椎麻酔されたが 陣痛の方がひどくなんの痛みもなかった。



手術中はただ ただ祈っていた。
赤ちゃんが息をしてくれることを・・・


2002年4月19日 午後1時32分
33週と2日
女の子が生まれた。

体重 3,451g   身長 44,5cm
胸囲 39,0cm   頭囲 31,5cm

33週の早産にもかかわらず 赤ちゃんは3,500g近くあった。
ほとんどが水だった。

NICU(新生児集中治療室)に連れて行かれるときチラッと見ることができた。


病室に戻ってからは 赤ちゃんの病気の説明と面会に呼ばれるまで
パパが側にいてくれた。
何を話していたのか覚えてないが なかなか呼ばれず 二人で病室で
待っていた。
眠ったのか 眠ってないのか・・・しばらくしてパパが帰ってきた。
少し眠ってしまっていたんだろう・・・
パパが赤ちゃんに会ってきたようだった。
説明も受けてきたようだった。
パパの深刻な顔を見て 何があったんだろうと怖くなった。
「まさか 赤ちゃんが死んでしまった?」
フッとそんなことを思ったが どこかで そんなことはあるはずがないと思っていた。

パパから赤ちゃんの様子を聞いた。
かなりむくんでいた驚いた・・・とのこと。
思っていた以上にたくさんの病気の説明があった。
肺がほとんど育っていない。腎臓が機能していない。心臓に穴が開いている・・・。
1日~2日がヤマということらしかった。
今もほとんど自分では生きていないとのこと。
そして 手足の指が6本ずつあった・・・。

最初パパから聞いた時は驚いた。
でも それでも生きていてくれることが嬉しかった。
一日も早く会いたかった。抱きたかった。

その日は痛み止めの注射を何回かしてもらい 傷口が癒着しないように寝返りを
させてもらいながら 少し寝た。

次の日の昼から歩く練習をはじめた。
傷が痛くてあまり歩きたくなかったが 「一人でトイレに行けるようになったら
赤ちゃんに会いに行こう」
と 看護師さんに言われていたので必死に歩いた。
夕方 NICUに車椅子で連れて行ってもらうことができた。

初めて会う赤ちゃん。でもすぐにわかった。
上の子にそっくりだった。お姉ちゃんが生まれた時のことを思い出した。
生まれた時よりもずいぶんむくみがマシになっていたようだった。
それでも大きくて とても33週の早産だとは思えないくらいだった。
ただムチムチとした感じではなく キンキンだった。
小さな体には 呼吸器がつけられ おしっこの管がつけられ たくさんの点滴がつけられ
胸には空気を抜く管がつけられていた。
肺が無理をしているため 穴が開いて 空気が漏れてしまってるそうだ。
本当に痛々しかった。
そして負担をかけないように 眠らされていた。
目を開けてるのを見たのは2~3回だけだった。

6本指の手足を何度も何度も撫でた。
人の指が5本だと決まっていることが不思議に思えて 6本指が愛しく思えた。

明日(あす)を生きてほしい・・・いつも明日(あす)を見つめて生きてほしい・・・
明日も生きていてほしい・・・そんな想いを込めて
亜純(あすみ)と命名した。

私が入院している間は 毎日2回の面会時間に 必ず会いに行った。
パパも仕事帰りに毎晩 会いに寄ってくれた。
私たちにできることが何もなかったのが苛立たしかった。
ただ亜純の側にいて 亜純に触れてやることしかできなかった。
「頑張ろうね・・・一緒にお家帰ろうね・・・」
ずっと声をかけていた。

でも正直ずっと怖かった。
いつNICUから急変の連絡が入るかとビクビクしていた。
面会に行くのも怖かった。
生きている姿を見て安心したが それでやっぱり急変するかも・・という不安が
いつもあった。
一度 面会に行ったとき 亜純の周りを先生や看護師さんが囲んで処置をしていた。
何かあったのかと怖くなって その場に立ちすくんだこともあった。

それでも側にいたかったし 側にいることしかできなかた。
まだとてもおっぱいが飲める状態ではなかったけれど
いつか飲めるようになった時にはしっかり母乳をやりたいと思って
毎日3時間おきに搾って届けた。
管を使って鼻から飲むことになると言われていたが その日を信じて
必死に搾った。
願いを込めて搾った。

出産から7日目 私が退院する日がきた。
一人残して帰るのは辛かったが いつか一緒に帰れることを信じて
「おっぱいを搾って持ってくるね」
「一緒に頑張ろうね・・・」
そう言って帰った。


退院後は面会もあったし 上の子のこともあったのでしばらく
パパの実家にお世話になることにした。
それでも病院まで電車を乗り換えて1時間近くかかった。

退院してからはお姉ちゃんにべったりだった。
インフルエンザにかかっていて不安だった時に 突然母親が入院して
おばあちゃんの家にあずけられて
2歳2ヶ月のお姉ちゃんの不安はかなりのものだったと思う。
私がトイレに行こうものなら 泣きながら必死にさがしていた。
片時も私から離れようとはしなかった。
そんなだったから なかなか面会には行けないでいた。
決してお姉ちゃんせいではない。
私がお姉ちゃんを泣かせて 行くことができなかった。
退院してすぐに連休に入ったので パパの車で一緒に面会に行った。
お姉ちゃんはNICUの中に入れなかったので パパと交代で面会した。
お姉ちゃんは窓ごしだった。
わかってるのか わかってないのか・・・とにかく早く帰りたがった。

この日の亜純は いつも通りに眠らされていたが むくみもずいぶんひいていた。
肺の穴もふさがったみたいで 胸の管もとれていた。
おしっこも自分でしているらしく 管はとれていた。
少しずつ良くなっているような気がした。

まだ良くなったといえる段階ではなく いっぱいいっぱい機械の力を借りて
生きている・・・と言われた。
それでも 今は生きている。必死で生きている。
亜純の生命力を信じるしかなかった。

それからまた次のパパの休みの日まで面会に行けなかった。
また3日後に会いに来る予定をしていた。


亜純のことが気になってしかたなかったが お姉ちゃんと過ごしてる時間は
不安から逃れられる時間だった。。。
面会に行く予定の2日前 5月1日の夜電話がなった。
夜10時をまわっていたかと思う。
病院からだった。
「お父さんかお母さんどちらかでいいので病院まで来てください」といわれた。
まだ仕事から帰ってないパパに連絡したがなかなかつながらない。
タクシーを呼んで病院に向かおうとしてた時にパパから電話がなった。
病院から連絡があったことを伝えると
近くにいるから自分が寄ってくると言った。
父か母どちらかでいいと言われてるから 緊急じゃないだろう・・・そう願っていた。
お姉ちゃんが私のあわてぶりを見て泣き出していた。すごくすごく不安だった。
すぐにでも病院に飛んでいこうかと思ったが パパが家で待っててと言ってたので 
震えながら連絡を待っていた。
まだ 『死』が本当にあるとは思っていなかった。
気になってしかたがなかった。
パパからの連絡を待つ時間が長かった。
時計の音だけが家の中に響いていた。

パパからの連絡があったのは12時前くらいだったと思う。
亜純の心拍が一度50くらいまで下がったそうだ。
パパが行った時には70くらいまで持ち直していた。それでも70というのはかなり低い。
パパの指を握ってくれたと話していた。
眠らす薬をやめていて目はしっかり開いていたそうだ。
そしてその目からは涙がこぼれていたそうです。

今は落ち着いたからということで家に帰された。
パパから話を聞きながら 体が震えた。
その日は怖くて眠れなかった。
でも 一度ここまで来て 持ち直したからもう大丈夫。
二度とこんなことはない・・・必死に自分にいいきかせていた。
明日になったら順調に回復していて驚くはず・・そういい聞かせながら 
もし亜純が死んでしまったら・・・ということを考えていた。
考えただけでも気分が悪くなってきて きっと自分は気を失うか 気が狂うだろうと思った。
きっと全然面会に行ってやれなかったから 寂しかったんだと思った。
寂しくて頑張れなくなったんだと思った。
私のせいだと思って涙が出てきた。

次の日には病院に連絡してその後のことを聞いてみよう。
面会にも行こう。そう思っていた。
朝7時前 また電話がなった。
今度は二人で来てくれと言われた。
頭の中はパニック状態。あまり意味のないことをひたすらしゃべっていた。
病院に向かう車の中でも ずっとしゃべっていた。
怖いことは考えたくなかった。

早朝の静かな病院に着くとすぐにNICUに通された。
亜純がつけている呼吸器はちからいっぱい動いていた。
亜純の胸が苦しそうに上下に動いていた。
体全体が振動していた。
体はまたむくんでいた。おしっこが出ていないらしい。
背中にはタオルがはさまれていて 体を少し左に傾けられていた。
そうしていないとまた心拍が下がるそうだ。
この時心拍は50だった。
先生から説明を聞いても全く頭に入らなかった。
ただ 『亜純を助けてください』 それしかなかった。
奇跡が起こって助かる・・ってこともありますよねと聞いた。
何でもよかった。
亜純を助けてくれるなら何でもすると思った・・・。
ここまで頑張っていることが奇跡に近いらしかった。
しばらく側についていたが 今すぐ・・ということではないのでということで別室に連れて行かれた。
他の赤ちゃんの測定や 報告があるからだとか。
時計を見たら9時だった。

次 NICUに呼ばれた時亜純の心拍は30くらいになっていた。
すごくすごく苦しそうだった。
亜純を保育器から出して 抱かせてもらった。
「最期はお母さん抱いてあげてくださいね」と言われていたが 
抱くことはしたかったが 
それが最期と言われると返事はできずにいた。
亜純を抱いた時 赤ちゃんってこんなに小さかったんだと思った。
赤ちゃんの感触を忘れていた。
やっと亜純をだけたことが嬉しかった。
でもこれで本当に死んでしまうんだと思うと震えてきて 涙があふれてきた。
必死に生きる亜純の姿を見ていたら涙が止まらなくなった。
すごくすごく苦しそうに息をしている亜純を見ていたら「もういいよ・・・」そう思えてきた。
「そんなに苦しまなくてもいいよ。もう十分頑張ったよね。」
「ごめんね」
「ありがとう」
何度もそう言った。


2002年5月2日 午前10時5分 たった2週間という短い命を終えた。
とっても穏やかに 眠るように息を引き取っていった。
やっと楽になれたんだね・・・。


呼吸器やいろんな管をはずしてもらうため 待合室に移動した。
皆が歩けるか心配してくれたが 私はしっかりしていた。
倒れもしなかった。
自分はなんて強いんだろうと思った。

待合室で待っていたら バスタオルにくるまれた亜純が来た。
沐浴の用意をしてくれて お風呂に入れさせてくれた。
初めての沐浴。
生まれてから一度もお風呂に入っていなかった。
顔・お腹・背中・手足・お尻・・・全て愛しかった。大切に大切に 撫でるように
洗ってやった。
病院の肌着を着せてもらって おくるみ代わりのバスタオルにくるんで
もらって抱いていた。
呼吸器やらをはずしてもらい 
やっと楽になった亜純の表情は笑っているように見えた。
パパが亜純にキスをした。
いつもお姉ちゃんにするのと同じように。
私もした。
亜純の顔を忘れないように 重みを忘れないように 香りを忘れないように
必死で抱きしめていた。

その後先生からは 解剖の話があった。
これ以上辛い思いさせるのも 体を傷つけるのも嫌だった。
でも 少しでも何かが分かると 次の妊娠の参考になるから・・・と勧められた。
すごく迷った。
自分の実家に電話して 両親にも聞いてみた。
もし解剖して何かが分かるなら 亜純にとってそれは最後の親孝行になる・・
亜純に親孝行させてやってもいいのでは・・・?
と言われ 解剖してもらうことにした。

解剖は時間がかかり 次の日に迎えに行くことにした。
ずっとひとりぼっちで病院においていて また病院に一人残して行ってしまった。
遅くなっても待って 連れて帰ってやればよかったと後悔している。


次の日 朝一番に亜純を迎えに行った。
霊安室で眠る亜純はもう冷たくなっていた。
亜純のために買っていたベビー服を着せてもらい お姉ちゃんのお下がりの
おくるみをまいてもらった。
冷たくなった お姉ちゃんにそっくりの亜純を抱いたら
また涙が出てきた。

NICUの看護師さんがたくさん来てくれて「亜純ちゃんを抱かせて」と言って
抱いてくれた。
いっぱい頭を撫でてくれた。
「よく頑張ったね」
「亜純ちゃんは頑張りやさんだったね」
「家に帰ったらママといっぱいお話してね」
と言って泣いてくれた。
ずっとこらえていたものが溢れて 涙がとまらなくなった。
私にも「お母さんもいっぱいいっぱい泣いて 今日は亜純ちゃんと一緒に過ごしてね」
と言ってくれた。

あすみは確かにここで生きていたんだ・・・そう思った。


冷たくなった亜純を抱いて家に帰った。
あの日通った道を 亜純と 青い空を見ながら帰った。

病気が分かって 急に入院することになったので 家はあの日のままだった。

家に着いたら亜純から離れられなかった。
ずっと側にいたかった。ずっと抱いていたかった。
パパがお葬式の段取りを進めてくれた。

5月3日 お通夜
5月4日 お葬式
身内だけで行った。
あまり覚えていない・・・。

火葬場で亜純が炎の中に入って行くのが嫌で 
いつまでも離せなかったのだけ覚えている。
このまま倒れてしまえたらどんなに楽か・・・と思った。

2時間近く待ったと思う。
小さい赤ちゃんだから 骨はほとんど残らないだろうと言われていたが きれいに残った。
さっきまで眠るように横になっていた亜純の姿が 
粉のような骨になってしまったなんて信じられなかった。
これは亜純じゃない・・・そう思いたかった。
息がつまった。
胸が苦しかった。
まさか自分の子供の骨を拾うことになるなんて思ってもいなかった。
ひとつ残さず拾いたかった。
必死になって拾った・・・。


亜純を亡くしてから どうやって過ごしていたのかあまり覚えていない。

家に帰って 今までのように生活するのが辛くて そのまましばらく
パパの実家にお世話になっていた。

亜純のお骨は 家にあるとあまり気持ちのいいものじゃないと
お葬式の次の日には
お寺に持って行くように言われた。
その時の私は「ハイ」というしかできなかった。
どうして嫌だと言わなかったのか とっても後悔している。
最後の最後まで私は亜純を守ってやることができなかった。

何も考えられなかった。
どうしたらいいのかもわからなかった。
亜純をたった一人で行かせてしまったことが かわいそうでならなかった。
できることなら一緒に行ってやりたいと思った。
でも こっちにはお姉ちゃんがいる。
これ以上お姉ちゃんに寂しい思いをさせたくもなかった。
ただ 寂しくて 悲しくて 不安で泣きたかった。

でも 私がいつまでも泣いていたらお姉ちゃんにとって良くないと言われたので
泣けなかった。
お姉ちゃんが寝てから 布団の中で声を殺して泣いた。

周りは何もなかったかのようにどんどん普通の生活に戻っていった。
私も必死について行った。
でも お腹がすく自分が許せなかった。
人と喋って笑っている自分が許せなかった。
自分が普通に生きていることが許せなかった・・・。
常に 亜純に申し訳ないという思いがあった。

祖父母がお姉ちゃんのことをかわいがってくれればくれるほど
亜純がかわいそうに思えた。
同じ姉妹なのにどうして亜純はかわいがってもらえないんだろうと悲しかった。


心の中では皆に 「亜純が生まれたこと知ってほしい。」
「亜純が生きたこと覚えていてほしい。」
そう叫んでいた。
でも 自分が忘れていってしまうんじゃないかって怖かった。


ただ亜純が帰ってきてほしくて 亜純を抱きたくて・・・。
自分が何かをすることで帰ってきてくれるのならどんなことでもする。
でも何をしても無理なことで 神様に願っても無理なことで・・・
そして亜純が死んでしまったことをあらためて実感する毎日だった。


毎日 気を紛らわすためにお姉ちゃんを連れて出かけた。
そして 一段と落ち込んで帰ってきた。
外に出ると
「元気そうでよかった」
「元気になった?」
「もう大丈夫?」
毎日聞かれた。。
何が大丈夫なんだろう。

「まだ若いんだから大丈夫」
「次の子また産めばいいんだよ」
若いからって何が大丈夫なんだろう。
次の子が生まれれば 亜純は帰ってくるの?
もし 生まれ変わりがあったとしても その子は亜純自身じゃない。
亜純は2度と帰ってこない・・・。

毎日毎日 布団の中で声を押し殺して泣くだけだった。
誰にも亜純のことは話せないでいた。
一人ぼっちだと思っていた。

亜純と同じ時期に生まれた赤ちゃんを見ては胸が苦しくなった。
日に日に成長していく人の赤ちゃんを見て 亜純の今の姿を想像しても
分からなかった。
私の赤ちゃんはいつまでも 生まれた日のままだった・・・。


近所にお子さんを亡くされた方がいた。
初めて 私の亜純の話を 涙を流しながら聞いてくれた。
「亜純ちゃんに会わせてほしい」と家に来てくれた。
どんな励ましの言葉より嬉しかった。

亜純が生まれたことを認めてくれて 亜純の死を一緒に悲しんでくれる・・・
それだけでよかった。

その方に『誕生死』(流産・死産・新生児死によって子供を亡くした親の会)
のHPのことを教えてもらった。
パソコンを買い 必死に勉強した。
それからは 毎日パソコンにかじりついた。