検察官の暴走を見て見ぬふりしてきた裁判所の重大責任 [特捜検察負の歴史─ロッキードから小沢事件まで 魚住昭]

(日刊ゲンダイ2010/10/18)

特捜検察が暴走するのは、裁判所にも問題があります。
これまで特捜部の取り調べを受けた被疑者が、どんなに取り調べの酷さを訴えても裁判所は耳を貸そうとはしなかった。痛切な叫びをほとんど無視してきたのが実情です。
なぜ裁判所は無視してきたのか。ひとつには、同じ司法試験を通った仲間である検察官が、そんな酷いことをするはずがないと思い込んできたことがあります。
もうひとつは、検察の酷い調べを取り上げ、被疑者を無罪にするなど、検察に不利な判決を下すと、最高裁からバッテンをつけられて地方に飛ばされ、一生うだつの上がらないドサ回りをやらされるという恐怖感が裁判官にあるからです。
実際、これまで検察捜査を厳格にチェックしようとした裁判官の多くは冷遇されている。特捜検察のムリな取り調べを許してきたのは、裁判官の自己保身でもあるのです。それもこれも、結局、最高裁の責任なのです。最高裁が人事を通して、事実上、裁判官の思想統制をしているため、自然に裁判官全体が検察の言いなりになってしまっている。
本来、裁判所は捜査が適正だったかどうかをチェックしなければいけないのに、これまでほとんど役割を果たしてこなかった。この問題はかなり根深いものです。
それだけに「村木事件」で大阪地裁の裁判長が、検察官調書の大半を証拠採用しなかったのは、勇気ある決断だったと思います。さすがに、大阪地検特捜部の過ごせなかったということもあるでしょうが、私は最近、裁判所の検察に対する目つきが微妙に変わってきているような気がしてなりません。特捜部はそうした裁判所の空気の変化を完全に見誤ったのではないでしょうか。
(つづく)