統治システムと日本人の在り方~全面的・継続的な改革を目指す~

『法律文化』2002年11月号  http://bit.ly/doQVfK


今までの官僚主導による中央集権的統治の機構は機能不全を起こし、構成員のモラルは低下しています。中央官庁の役人は補助金を分配することによって自らの権益を確保しようとする。そのような役人に依存する政治家がいる。機構から変えていかない限り、役人の汚職も、政治家の汚職もなくすことはできません。僕はいつも国家公務員の諸君に言うんですよ。君達は、何のために青春を犠牲にしてまで受験勉強して官僚になったんだ。君達が50万円、100万円の補助金を割り振って威張っているようなことを考えていたら、日本の行政、政治はよくならない。もっと天下国家のことを考えてくれ、と。国の政府は国家の基本たるもの、外交、安全保障、治安、基礎的社会保障、そういう国の骨格の部分だけやればいい。仕事はいくらでもあります。例えば天災、安全保障、治安、金融、エネルギー、さまざまな分野で起こり得る危機がありますが、憲法以下現行の法律の体系に非常時の規定ができていません。危機管理をはじめ、国は国として成すべきことに力を注ぐ。身の周りの生活のことは自治体に任せればいいんです。

金も権限も渡す。地方の判断で道路を作りたければ、つくればいい。必要ないなら、止めればいい。いちいち中央政府が、審議会やら第三者機関を開いて問題を先送りにせず、地方に判断を任せることです。そういった思い切った改革も、自由党に過半数の議席をいただければ、いっぺんに実現してみせます。

本には自治の伝統がない、という言い方がされますが、そんなことはありません。歴史的には日本の中央集権は、しっかりした地方自治の上に乗ったものです。大化の改新以来江戸時代に至るまで、領主は土地・人民の所有権を有していたわけではなく、その権力は要するに徴税権でした。村落は自治組織で運営され、殿様は年貢を取るだけ。だから大名の国替えが上手くできたのです。領主が領地領民を所有していた西欧なら、いかに専制君主だろうと、簡単に国替えなど命じられません。無理強いするなら、戦争を覚悟しなければならないでしょう。

今日の官僚制は正に明治以来のものです。当初は欧米に追いつき追いこせという中で、近代化の遅れた日本のためにはどうしても政府が主導しなければならなかった。即ち中央集権の官僚組織も必要であったし、またうまく機能していましたが、やがて硬直化してしまった。大正バブル※3とその崩壊にはまったく対応できず、昭和期は失敗を続ける。行き着いた先が敗戦です。ところが、財閥と軍閥は滅びましたが、“官僚閥”だけはマッカーサーの目を逃れて生き残ってしまう。それでも戦後の冷戦の東西対立構造と高度経済成長の時期にはうまくいったんです。

戦後の半世紀は東西対立ということに助けられ、日本は米国のヒゴの下に幸運な時代を経て経済大国になりました。しかし、冷戦構造が終焉すると、日本を取り巻く環境が激変しました。政治的には、国際社会を舞台に経済大国としての役割を果たさなければならない。経済の分野はグローバル化の波に洗われている。理念なき官僚国家は機能不全を起こしていますが、官僚支配はますます強固になり、今や個人生活に至るまでその支配が及んでいます。
 現在の日本は、大正バブルの崩壊期と同じような局面にあります。戦後半世紀の手法は通用しない。だからこそ、自由党は全面改革を主張しているんです。その場しのぎの弥縫策では日本は救えない。革命的改革。僕はこれを断行しなければならないと思っています。 世界に通用する人材の育成

自由党が政府委員制度の廃止を提案した時、役人は、答弁しなくてよくなって喜んだかというと、喜ぶどころか、猛反対で、何としても旧来の制度を維持したいと言う。それは結局、役人が自分達の言いたいことを言うため、国会も含めてすべてを操り、権力を維持したいがためのものです。政治家の方も情けないことに、役人のメモがないとしゃべれない。

要するに、戦後の日本はたまたまそういう社会で生きていけたからですよ。昭和史の失敗もケロリと忘れてね。歴史的に国家形成の過程を見ても、ヨーロッパ諸国と比べて、日本は平和で豊かです。四方を海で守られ、外敵の侵入は少なく、気候は温暖で、食糧にもそれほど困らない。だからリーダーはいらないし、理念も政治もいらない。コンセンサス社会で成り立った。「和(やはらぎ)を以て貴(たっと)しと為す」。有名な聖徳太子十七条憲法の第一条ですが、第十七条にも同じ精神が謳われています。「それ事は独り断(さだ)むべからず。必ず衆(もろもろ)と与(とも)に宜しく論(あげつら)ふべし」とあります。日本の社会にはそのような日本的民主主義が染みついています。ここ半世紀、たまたまコンセンサス社会、談合社会でうまくいった。平時ならそれもいいでしょう。しかし改革が必要な時、それでは通りません。

 大正バブルの崩壊後、日本人は自分達で考え、自分達で決断することがなかった。路線変革を導くリーダーも認めようとしなかった。行政官僚も軍部官僚も責任をとらない。その結果、アジア諸国に災厄をもたらし、多くの貴い生命を犠牲にしてしまいました。この歴史の轍を踏んではならない。戦後もアメリカに頼り切り。政治はアメリカ任せ、経済は技術と市場を与えられました。日本人は勤勉で、頭も良く、手先も器用だが、自分で決めることができないんです。

 今なおそういう精神風土に生きています。“政・官・業のトライアングル”というが、戦後の権力体制-これは国民を含めてのことですが、癒着、馴れ合い、なあなあで食べてきた。その生き方が行き詰まったということです。国や地方の借金は雪だるま式に増え、財政は破綻の淵です。その危機にあって、出てくるのは「聖域なき構造改革」というスローガンだけ。具体的な設計図がない。難しい問題はすべて玉虫色に染めて、先送り。戦前、失敗したにもかかわらず、再び同じ過ちを繰り返そうとしているにすぎません。徳川幕府はなぜ倒れたか

徳川慶喜が登場した時、庶民は混乱を救う人物として歓迎したそうです。幕府には老中阿部正弘始め多く人材もいました。「公武合体」というスローガンもあり、軍事的にも圧倒的に有利だった。ところが門地門閥、300年の制度疲労によって、何もできない機構になっていきました。そのため、権力構造に組み込まれていなかった薩長連合を中心とする外様の雄藩によって、あっけなく倒されたわけです。