本ブログ7/20エントリー <≪昼休みに大使館の応接室で花札賭博、外務審議官の丹波實氏を通じて官房機密費100万受け取った、と佐藤優氏が告白!≫に対するインナーマザー様からのコメント



佐藤優は八百万の神々を守る「千尋」のような使徒


「創価学会については警戒するのは当たり前のことで、この記事全体と、佐藤氏の意図はよくはわからない。ただ佐藤優氏は、創価学会に対して、しばしば擁護している論説が見受けられる。この記事も全体としては、何を言いたいのか明確ではなく、この西田氏に対してのスキャンダル記事を書きたかっただけなのか、とも思えるし、創価学会マネーが動き、反学会的人物の攻撃材料に使われたのか、と疑いたくなるような内容である。」との日々坦々様の疑問は当然だと思います。

私も最初は佐藤優氏の思想がよく分らなかったのですが、彼の書籍をいくつか読み解くとモンテスキューの「法の精神」がキーワードになっていることが分かります。

明治維新以来、国家の実態は官僚です。国家が直接、一人ひとりの国民を束ねて行くのがファシズムです。官僚機構である国家と国民の間に緩衝材となる中間団体があることでファシズムを防ぐことが出来ます。国家は中間団体が邪魔なので戦前、組合や宗教団体を弾圧しました。大本教やひとのみち教団、創価教育学会も攻撃されました。佐藤優氏はカルバン派のプロテスタントですがキリスト教も国家の餌食になりました。

モンテスキューは国家と国民との間に「中間権力」があることで国家の強権支配に歯止めがかかると言います。佐藤優氏は、家族、学校、地域コミュニティー、フォーラム、NPO、NGO、労組、業界団体、宗教団体などの中間団体が官僚ファシズムの暴走に対する安全装置になるという思想です。この中間権力、中間団体として創価学会を捉えているのです。

足利事件の冤罪も、小沢捜査の言いがかりも、霞が関官僚の強制捜査権が暴走した現象です。まるで戦前の特高警察が思想弾圧をした歴史が反復しているように見えます。

85年以降の新自由主義によってあらゆる共同体がバラバラにされて来ました。家庭崩壊、学校崩壊、コミュニティーが解体され労働力が流動化しました。周りを見回すとアトム化された個人が官僚システムによって直接統治されている状態が分ります。地下鉄の「監視カメラ作動中」というワッペンなど国家による直接統治のシンボルです。あんなものは昔はなった。このような「見えない支配」から息苦しい閉塞感が生まれ、人心が荒廃して来たのだと思います。マスコミの劣化や官報化も、マスコミという共同体が破壊されてきた病的症状なのです。

佐藤優氏は、住みやすい社会とは「多元性と寛容さ」によって担保されると言います。複数の中間団体が機能する社会で国民が居場所を見い出す。国は君民共治が国体の本義で、官僚は君と民に奉仕する司であらねばならない。これが本来の日本のかたちだといいます。
それに対して官僚は税金の収奪と労役・兵役という動員によって支配しようとする「外部の共同体」なのだと言います。この見えずらい「外部性」がクセモノで、官僚は官僚機構が社会の一部であるかのような偽装をすると言います。

佐藤優氏は、国家と社会はカテゴリーが違う「別もの」として見る視座を持っています。そのうえで、予見できる未来において国家のない世界はあり得ないというリアリズムから「必要悪」としての国家の歩留まりを模索しています。そのためにはまず社会と国家の「出自の違い」を可視化する必要がある。社会常識と乖離した官僚のスキャンダルを告白するのは「出自の違い」を見せているだと思います。そして、思考する世論へいっしょに考えようとシグナルを送っているのです。「国家(官僚)の側から国民をファッショするのではなく、社会(国民)の側から日本を強くするにはどうすればよいか。中間共同体のある社会は国の暴走を食い止め、本当の意味で日本を強く寛容にするのだ」という言外のメッセージを伝えているのだと思います。

私は創価学会が嫌いです。いやな思い出もあります。創価学会の強さも影響力も承知しているつもりです。ただし、国民の代表である代議士を難癖捜査・逮捕するような官僚機構の暴走の方がもっと怖い。毒をもって毒を制するというパワーバランスの意味で、創価学会という中間権力・中間団体を認めたい。
反社会的行動と反国家(官僚)的行動を分けて考えることで、創価学会が著しい反社会的行動をとっていないかぎり、寛容したい。この観点から社会の側にある創価学会という共同体は、社会の外部である国家官僚の直接統治を防ぐバッファーになる、という考え方に立ちます。

公明党は社会の側から(つまり国民から)選ばれた社会の代表です。小泉・竹中が官僚(財務・法務・検察・警察)と一体になって進めた新自由主義の暴走があの程度ですんだのは、創価学会がストッパーの役目を果たしていたからだと思います。自公政権ではなく自民党独裁だったらもっと疲弊・荒廃した社会になっていたと思います。


日々坦々様が佐藤優氏に対して持つ「主催者や報道各社、出版社などの意図を忖度してリップサービスをしているのかな、と疑問に思うほど、主義・主張が散漫としている」という印象は、以前の私も持っていました。ところが最近ようやく、佐藤優氏のインテリジェンスのなぞが見えてきました。

佐藤優氏にとって「敵以外はみんな味方」なのです。私など人間が小さいものですから「味方以外はみんな敵」にしてしまうのですが、佐藤氏は閉塞感の「本当の敵」を見抜いています。佐藤優氏にとって「敵」は資本主義の最高段階で現れる新自由主義なのです。マルクスが言う「疎外」です。人間が作った貨幣、システム、商品によって人間が支配されてしまう「物象化」と闘っているのです。かといって共産主義を目指しているわけではなく、金融資本主義を脱構築して生産の哲学に立った資本主義を目指しています。

佐藤優氏はキリスト者です。キリスト教は偶像崇拝を禁止しています。近代以降の人間が陥っている呪縛は貨幣への物神崇拝だという視座を持っているのです。お金は権力と交換可能な神がかりの「商品」ですが、もともとは商品交換の便宜に過ぎない。お金はモノであって神ではないという揺るぎない思想を持っているのです。「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に」という信仰です。

佐藤優氏は「思考様式の翻訳家」です。右から左まで、同じ事を違う言葉で言っている。だから分かり合えない状態を翻訳・換言し、つなげているのです。壊れたドアの蝶番を修理するような仕事です。右翼に伝わる言葉と左翼に伝わる言葉を使い分けているのはブレや迎合ではなく翻訳なのです。天皇陛下をカッコ()に入れれば問題意識は左右一緒なのです。(尊王精神と君民共治を欠いた)資本の暴走による貧困格差、(尊王精神と君民共治を欠いた)官僚の暴走による国民管理など、共通の課題なのです。

また、佐藤優氏はこんな言い方をよくします。「新自由主義に乗っかる形で内側から壊していく」と。

新自由主義とは、宮崎駿監督の「千と千尋の神隠し」に出てきた『顔なし』という白いお面をつけた黒い神様のような存在なのです。映画の中で『顔なし』は他の神々や食べ物を食い尽くして自己増殖していきます。まるで顔(実態経済)のない嘘っぱちのリーマン金融工学の『金融資本』のように膨らんでいきます。
そこで千尋は『顔なし』の要求にこたえて接待します。そして毒饅頭を食わせる。『顔なし』がばら撒いた金の礫は泥の偽装品だとバレます。『顔なし』の体も元の実態に戻ります。
佐藤優氏は財界雑誌から労働雑誌まで論考を書きまくっていますが、千尋と同じことをしているように見えるのです。八百万の神々たちが多元的に寛容でいられる日本を取り戻すために。そして現在暴走している官僚機構は多元的な神々(中間共同体)によってバランスがとられて、本来の強い日本が再生する。佐藤優氏は日本の多元性に寛容された日本人であり、キリスト者であり、お母様の血を引く琉球人でもあるのです。日本の古神道と親和的な複数の魂を持つ八百万の神でもあるのです。神仏習合の視点から言えば観自在菩薩のように思考様式を翻訳できるのでしょう。

私は彼をそう捉えています。