葉村久士:小沢維新は終わらない!


(The Journal 2010年6月21日) http://p.tl/KnT4


『小沢一郎の魅力―書生気質の蒸気機関車』(葉村久士 著)


 鳩山内閣が総辞職して菅内閣が誕生、政治の方向性が大きく変わろうとしている。

 昨年9月、鳩山政権は順調に船出したものの、総理の"故人献金"と"陸山会問題"がメディアの餌食になり、"普天間問題"が総理の資質を問われる問題になって退陣に追い込まれた。しかし、優柔不断に見えた姿はともかく、鳩山はアメリカの意向に異を唱えた総理として記憶されることになろう。鳩山の本音は自主防衛論だったが、菅総理が日米合意を踏襲すると明言して、その目論みは封印された。鳩山の"常時駐留なき安保"と同様の見解を持つ小沢幹事長も道連れになった。アメリカはまだ日本を押せば引く国と見ている。原理原則論者で辺野古移設に絶対反対だった小沢の新政権への対応が注目される。


■官僚に取り込まれた菅内閣

 民主党は、予算と特別会計をあわせた200兆円を超える金額の10%を削減して、消費税を4年間は凍結すると国民に約束した。しかし、政権について自民党が主張した『そんなことは不可能』という本質を悟り、消費税論議を解禁する方向になった。その本質とは財務官僚の財政再建論であり、官僚主導体制は不可避との判断だ。閣内に入った人たちの大多数は、官僚に取りこまれてしまった。その人たちはメディアがホープと後押しする若手が中心で、国民との約束を反故にしても意に介さないようだ。

 09年総選挙の民主党のマニフェストに、特別会計、独立行政法人、公益法人をゼロベースで見直すとあった。見直しを正確に解釈すると、反対が強ければ存続する可能性を秘めている。評判になった"事業仕分け"は条件闘争に過ぎず本筋の政策論ではない。案の定、事業仕分けは華々しく立ち上がったが、廃止・縮小と天下り禁止・官僚の減給を含めて、全体の5%とか10%の見直しにしかならないだろう。内閣の顔ぶれからして、新政権が歳入の不足分を増税に求めてひた走ることは明らかだ。

 対する小沢のウェブサイトに記載されている基本政策は、自由党時代に発表した『日本一新11基本法案』が根底にある。『特殊法人、独立行政法人、実質的に各省庁の外郭団体となっている公益法人等は原則として、すべて廃止あるいは民営化する。それに伴い、それにかかわる特別会計も廃止する』というものだ。また、個別補助金の全廃もうたっている。日本銀行以外は例外なしに廃止・民営化する小沢の私案は、生き残りをかける官僚の壮絶な抵抗を徒労に終わらせるだろう。

 小沢はまず予算の削減ありきで消費税の増税に真っ向から反対だ。目指すところは官僚支配からの脱却にある。消費税を上げず、官僚天国を是正する政策は国民にとって望むところだが、過激な社会の変化を伴うことは想像に難くない。激変を恐れる官僚やメディアは穏便な改革を目指し、意のままになりそうな菅政権を後押しするだろう。


■55年体制復活を許すな

 菅内閣の基本方針は小沢はずしにあり、その役割は目先の辻褄あわせだ。軽量内閣に真の改革が達成できるはずがない。程々のところで着地点を探る55年体制の悪しき慣習が甦りつつある。

 55年体制に真っ先に疑問を投げかけた政治家は小沢一郎だった。彼は初当選した時から脱官僚を主張していたと語っている。金権政治の元祖と言われる田中角栄に仕え、政治の裏を知り尽くした彼は、自民党に限界を感じて離党した。メディアは角栄の再来と評するが、彼によれば角栄は反面教師ということになる。

 小沢は政治家が強いリーダー・シップをとるべきだと主張する。失敗すればリーダーが責任を取るべきであるし、民主主義の原点は選挙だと、ことある毎に語っている。また、主権は国民にあり、政治家は国民に付託された存在との正しい認識を持つ。そして、彼の最大の長所は、5年、10年先を見つめる稀有な人物ということだ。
民主主義とは多数決の論理である。その当たり前の論理に反し、メディアや一部の政党は少数意見を尊重するのが民主主義かのように主張する。少数意見への配慮はあって然るべきだが、度が過ぎては物事が決まらない。選挙は過半数を占める戦いだ。何十年も少数でありながら、尊重しろとの論理に疑問を持たざるを得ない。

 政治は奇麗事だけではすまない。枝葉末節という"木"を見て、天下国家という"森"を語らない風潮に、この国の未来に危機感を感じる。日本は存亡の危機に直面している。誰が指導者でも構わないが、小沢以外に強力なリーダーが見当たらない悲しい現実がある。庶民は現状の苦境を脱し子供たち、孫たちの将来に希望を見出せる政治を望んでいる。


■勝・西郷・大久保と小沢

 歴史は繰り返すという。幕末から明治維新に至る歴史を交え、政治家・小沢一郎の存在意義について書いてみよう。

 咸臨丸で太平洋を渡った勝海舟は幕府側の最高の識者だったが、250年続いた幕府を見限っていた。幕臣の窮屈さから、勝海舟は、坂本龍馬や西郷隆盛を焚きつけて体制の転換を期待したが、自身は江戸城の無血開城を達成して、表舞台から去る道を選択した。

 小沢は55年体制を引きずった政治では、改革断行不能と判断。自民党を離党した。一旦は政権側に立ったものの、革命的な改革を実行するには時期尚早だった。改革は早ければ早いほど、被害が少なく効果が大きいが、今日ほど日本の社会が傷んでいなかったから、先送りを選択する勢力によって、志を達成することができなかった。

 小沢は勝海舟とは異なり西郷の歩んだ"戦う道"を選択した。永い道のりを経て、昨年の総選挙で革命的な改革を達成する一歩手前まで到達した。背景には、"リーマン・ショック"による世界恐慌が有権者の意識を変えたという要素があった。

 西郷隆盛は"公武合体論"を捨て、幕府打倒を実現した。西郷は軍人が本職だった。新政府の明確なビジョンはなかったものの、旧体制を完全破壊する"廃藩置県"は西郷なくしてあり得なかった。
革命は難事業だから固い同志の絆を必要とする。しかし、新国家の建設はそれぞれの主張が対立し、同志だった人たちの離反を招くのは必然だった。"征韓論"に敗れた西郷は新政府を去り、徴兵制の施行で行き場を失った武士の立場に立った。身の処し方を見出せなかった武士を戦争によって救う、いわゆる内憂を外に転ずる方策を採った。

 対する大久保利通は、『岩倉使節団』に同行して欧米を見学し、『殖産興業』と『富国強兵』の必要性を肌身に感じて帰国した。残留組との決定的な違いは、日本の針路を決める路線の対立になり、大久保利通が征韓論に勝利して、絶対的な中央主権国家を作り上げ明治維新は完成した。

 幕末の事象を現代に当てはめれば、"公武合体論"は大連立構想で、"廃藩置県"は地方分権による300の基礎的自治体構想だ。更に"征韓論"は今後予想される政界再編を意味する。


■政界再編は必至だ

 小沢は、勝海舟の立場から西郷の成し遂げた破壊を実践。政権奪取を実現したものの、メディアの過剰報道によって窮地に立たされている。しかし、本当の勝負はこれからだ。

 征韓論のように国を二分する対立軸は、改憲と護憲、国際貢献を目指す自衛隊の派兵の可否、地球温暖化への対応、地方分権のあり方、経済の成長路線と財政の再建などいくらでもある。メディアが語る政界再編は単なる員数合わせに過ぎない。乱立する新党もキャスティング・ボートを握るための行動だ。小沢の手法も同様に見えるだろうが、征韓論と同様の対立軸を背景にしているから根本的に違う。メディアの視点から見る小沢論は、権力維持とか求心力低下とか、新聞の見出しに象徴されるように権力の権化として捉える間違った認識を基本にしている。

 考え方の違う政治家が同じ政党に同居するから、政治は先送りの選択しかあり得なかった。決断する体質は政界再編によって可能だ。また、決断しなければ日本は国際社会から取り残される。誤解と誹謗に耐えながら小沢は真の政界再編を実現するため奔走してきた。今後、小沢が大久保の立場になれるかどうかは、参議院選以降の政局によって決まる。

 小沢は武闘派の西郷と異なって明確な国家ビジョンを持っている。枝葉末節をあげつらう勢力は、小沢のビジョンを否定する論陣を張らなければいけない。対立する政党ならいざ知らず、言論界が重箱の隅をつつく現状に目が当てらない。この点でも55年体制に慣れきった悪弊が罷り通っている。

 政界再編は国家のあるべき姿を模索し、場当たり主義の是正を目的とする。国の体質を変えるためには、過去との決別が最低条件だと思う。メディアが過去を引きずり、政治家や官僚が前例主義を踏襲して何が変わると言うのか。変化を受け入れなければ、この国は座して没落する道を免れない。


■小沢には国家ビジョンがある

 メディアは「小沢一郎は過半数を取って何をしたいか分からない」と異口同音に指摘する。民主党支持だと思う気鋭の学者ですら、『彼にはやりたいことがないのではないか』と発言しているが、"小沢潰し"を目的とする意図的な嘘が見え隠れしている。彼らが小沢の主張を知らないはずがない。

 小沢には『日本改造計画』以下の著書があり、主張は首尾一貫している。その主張は並の政治家と比較すると明らかに異質だが、明確な意図を有している。何をしたいか表明しない政治家より、主張を明確に語る政治家は安心だ。間違っていると思えば、反対者は論破すればよいし、国民は選挙で"ノー"と言う方法がある。

 小沢は書生気質と言われるほど純粋な理想主義者だが、もう一方の現実主義者の面が現れるとき豹変したかのように見える。メディアには旧い体質の方法論しか目に入らず、剛腕とか独裁とか論評する。しかし、小沢の理想と遅々として進まない現実を照らし合わせれば、大久保利通と同様の斬新主義を踏襲していることが分かるはずだ。

 小沢は権力欲が強いと報道されるが、単に仁徳天皇のエピソードを実現したい政治家だと思う。私は彼と同世代だが、小学校か中学校の教科書に、仁徳天皇の話が載っていた記憶がある。

 ある時、仁徳天皇が皇居から四方を眺めると、人々の住居から煙が昇っていない。それを見て、住民が貧しいと思い、三年間、税金を免除したら、民家から煙が上がるようになった。『高き屋に登りて見れば煙立つ民のかまどはにぎはひにけり』という仁徳天皇の歌は善政の結果を表した有名な歌だ。この逸話の延長線が、選挙の『生活が第一』というスローガンだった。


■9月以降、小沢は必ず復活する

 政権奪取の道のりは、鳩山の言葉を借りるまでもなく小沢なくしてあり得なかった。ここまでの流れを作った努力に対して率直に労を多としたいと思う。しかし、小沢主導の改革なくして改革は元の木阿弥に終わり、国民に淡い期待を抱かせただけになる。それどころか、ばら撒きとも言われる歳出の拡大は、改革による歳出の削減を前提にしている。改革を中途半端にして歳入欠陥が生じれば、酷税が待ち受けていることを国民は認識すべきだ。

 報道によれば、小沢は『9月までは何もしない』と語っていると言う。新内閣の成立と共に、消費税の税率アップの論議が賑やかになってきた。原理原則論者の小沢が"黙して語らず"はあり得ない。総理大臣の座を奪取し、先頭に立って改革路線を進める決意を固めたと見るべきだ。

 ところが、小沢へのアゲインストは止みそうにない。鳩山との同時辞任で、菅内閣の支持率が一夜にしてV字回復したのは、不思議としか言いようがない。国民は表紙が替わっただけで態度を豹変させるほど単純だろうか。"小沢改革"による地方分権によって、致命的な打撃が予想される、メディアの誘導との見方はうがち過ぎだろうか。

 起死回生のための一案は、小沢が参議院選挙の比例区に出馬することだと思う。前回の参議院選挙では、負ければ政界を引退すると訴えて勝利した。その覚悟があれば、今回は国民に信を問う決断をして、改革への執念を見せてほしい。獲得票数にもよるが、総理になる、すなわち革命的改革を実施するには不可欠の条件だ。また、メディアの反小沢キャンペーンを信じない有権者が、多数いることを証明してほしいと思っている。その願いは本人の意向次第だが、立候補と言う姑息と捉えかねない手段によらずとも、小沢は不死鳥のように必ず復活するだろう。それが、9月の民主党代表選挙か、それ以降かは定かでないが、時代が小沢を必要としているからだ。以下にその理由を書く。


■時代は小沢を求めている

 小沢の推進する地方分権は、国と300程度に分割する基礎的自治体のみの二極体制構想だ。国は地方に財源を移譲するから、政治家が選挙区への予算配分に関与する余地はない。これは、従来の悪しき慣習を一掃し、国の形を根本から変える政策だ。地方分権は都会と地方の格差を是正し、人口移動を伴う社会構造の激変が予想される。

 地方分権と言えば道州制の議論が根強い。しかし、国という大きなピラミッドを、小ぶりなピラミッドにする論議に過ぎない。八つ程に分割した和が従来と同等になるようでは全く意味がないし、新たな官僚社会が出現するだけだ。県よりも大きい州知事を狙う人たちもいるだろう。そんな目論見を許してはならない。地方分権は行政区を細分化し、互いに競い合うことによって地方の自立を促すことに意義がある。

 地方分権の実施は、衆議院選挙で比例区を廃止して、300の小選挙区のみに改正する案も浮上する。現状のように与野党が拮抗する状態では、比例の80議席どころか40議席の削減も難しい。しかし、定数削減は確実に政治家の質の向上に繋がる。常在戦場の緊張感が政治家を鍛えるからだ。政治改革は国民の悲願でもある。

 選挙制度の改革は重い意味を持つ。何故なら、300の議席の内、2割の新人が当選すると現職議員は240人になり、比例による復活というまやかしもない。当選者は現議席定数の丁度半分になり、現職の2人のうち1人が落選する理屈だ。当然ながら自称・他称を問わず、大物とか有望とされる議員も該当者になる。

 前述したように、革命的な改革とは過去との決別を意味するし、それを成し得るのは人材だ。田中真紀子が『20年も30年も議員をやって何もできなかった議員が、これから何かができるはずがない』と語っていた。この発言は、過去を引きずり、前例を踏襲する人物に改革はできないことを意味する。単に若手を登用する意見は間違っている。当選回数を重ね知名度がある(メディアが推奨する)政治家も必ずしも有能ではなく、逆に改革の妨げになっている人たちがいる。

 高速道路の料金値上げの発表に注文をつけた小沢を、二律背反だと訴えた前原誠司国土交通大臣はいただけない。政治家は不可能を可能にすることを要求される職業だからだ。また、過半数を得るための複数擁立に反対する人たちも、自己保身の発想を捨てきれず55年体制のぬるま湯体質を抜け出してない。  

 戦わずして勝利はあり得ない。改革を実行するのは、政治年齢ではなく先見性と確固たる信念を有する人材に尽きる。その意味で、現役の政治家の大半が失格である。

 選挙制度の改革は、選挙区の区割りを大幅に変更させる。新選挙区は現在の人口比例から面積を重視した区割りが予想され、都市部の議員が大幅に減少する。現在、憲法判断を問われている一票の格差は、財源を移譲する地方分権によって、国会議員が地方の利益を代弁する存在でなくなることにより、クリアできるはずだ。新選挙区への移行は、国民が本物の政治家を見分ける絶好のチャンスになる。

 小沢維新の目標は旧体制の一新だ。まず破壊して、それから新しいキャンパスに絵を描く。政治を変えなければ日本は二流国以下に転落する。国民はそれを許容しないし、政治は国民の期待にこたえるべきだ。そのためには、菅内閣の後退姿勢をたださなければならない。小沢は革命的改革を実現するため、必要欠くべからざる人材である。

 5年後の小沢に政治生命は残されていないかも知れない。その時、明治の伊藤博文のような時代を担う人材を育てていれば、小沢維新は完結する。