「緊急事態宣言」
そういう字面だけ聞けば、「なんか大変なことが起きてしまっている」感が、結構の高さである感じがしただろう。
しかし、「強制力がない」ことや、「罰則がない」という知識を与えられてしまっている昨今では、その言葉の持つ「ヤバさ」感は、コロナ前より急速に薄まっていることだろう。
これもひとえに、さかんにマスコミュニケーションが「強制力がない」ことや、「罰則がない」こと押しの報道をしてくれたおかげだ。
もし、それらを知らなければ、私たちは騙されて、外出などしたら、逮捕されてしまうかもしれないと勘違いして、今よりも家に籠ってしまっただろう。
或いは、サーフィンをしたり、パチンコに行ったり、家族総出でスーパーに買い物に行こうという人が、ここまでたくさん居なかったかもしれない。強制力などないのだから、自己判断、自己責任で行動してよいのだと、民衆は目覚めたのだ。
正しいことを把握しておくことが、我々の自由という権利を、国家権力の思うままに放棄してしまうところでした。
政府の言うことを鵜呑みにせず、自己責任で行動する自由が我々にはあるのだと、いうことをマスコミュニケーションは教えてくれた。
さて、39の県で、緊急事態宣言が解除され、どのTVショウでも大々的に報道される中、我々は、どう行動すべきか。
もちろん、政府の言うことなど鵜呑みにせず、自己責任で行動する自由に目覚めた民衆のことだ、自粛を選んできた人々は、外出自粛を続けるだろうと、予想が建てられる。
しかし、ここで、どういう訳か、
「政府が解除すると言っているのだから、そうしよう。そうしていいんだ!」
と、政府の言うことを鵜呑みにしてしまう輩も多く発生し、街に、海に、山にと繰り出す人々が多くなってしまうような予感を禁じ得ない。
政府の言うことを鵜呑みにせず、自己責任で行動する自由が我々にはあるのだ。
と、思って外出していたということに、いささかの疑問が出てくる。
もしかして、民衆は
「政府の言うことを鵜呑みにせず、自己責任で行動する自由が我々にはあるのだ」
と、思っていた行動していた訳ではなく、ただ楽な方へ、自分の欲望に都合のいい方へと、流れていただけではないだろうか。
などと、意地の悪いことを考えてしまったりする。
外出自粛と言っても、強制力はない。だから、自由にする。
緊急事態宣言が解除したならば、自粛してきた人間も、自由にすにしていいんだ。
民衆は、政府を信じているのか? 信じていないのか?
正しくは、信じていないし、信じてもいる。
都合が悪ければ、信じない。
都合がよければ、信じて、己の行動の責任を国家に押し付けることができる。
その信念は、状況に応じて変幻自在。
ああ、人間は本当に自由なのだ。
言われることに従うか、抗うかも自由なのだ。
正しい情報、正確な報道。
真実でさえあれば、影響力など考慮に入れることなどすることなく、すべて報道する。
それが正しい報道であり、それが正義である。
正義の代弁者であれと、マスコミュニケーションには包み隠さず、強調して世間に爆発的に伝えるという使命がある。
さて、緊急事態宣言解除の報道を受け、人々の外出意欲は高まっているだろう。
明日のニュースは、きっと緊急事態宣言解除で、外に繰り出す人々の群れを嬉々として映し出すことだろう。
どんな殊が起きても、マスコミュニケーションは、それをそのままお茶の間にお届けするのが、自由であり、使命なのだ。
人々の解放感をあおったとしても、マスコミュニケーションは正しいのだ。
それによって、ふたたび緊急事態宣言が出るようなことになったとしても、そんなことには「強制力はない」のだと、また声高に啓蒙すればいいのだ。
ニュウスのネタは尽きないのだ。
報道 → 人々を扇動 → 人々の行動を報道 → 感染再拡大 → また報道
ああ、永遠のループ。
これは、くいっぱぐれない。
素晴らしい仕事だ。
明日からのニュウスが、楽しみである。
そして、私たちは、一体どこへと転がっていくのだろうか?
ところで、とある国では、外出した人々を棒でひっぱたくという行為が国家権力によって挙行された。
あるいは、腕立て伏せをさせる、スクワットをさせる。と、いった懲罰。
これの根拠は、明確に示されていたのだろうか?
国家の命令に従わざる者は、棒で百叩きの刑に処する。もしくは腕立て伏せ、スクワットなどの労苦を与えるものとする。
などというように、明記されていたのであろうか。
と、思いにふけるこの夜である。
しみじみ。