自宅庭で咲き出した、寒椿です。
ダイレクト・インストラクションという教育方法は、一斉発声という手法で生徒たちの集中力を増しています。
それだけでなく、一緒に学んでいると言う連帯感・仲間意識も少なからず醸成されていると見るべきです。
少し話しはずれますが、世の中の「成功哲学」では、「目標や目的を紙に書き出して、声を出して読み上げる」と言う手法も良く見出されます。
声に出すことは、実は自身の潜在意識に働きかける重要な手段だからです。
常日ごろ、やたらと頭の中は、「おしゃべり」でいっぱいです。ああでもない、こうでもないと。
いわゆる雑念。妄想だらけ、魑魅魍魎の住処になっていませんか?
そういった、役に立たない「思考」の中から、自分にとって望ましい思考を選別した上で、「声」に出す。つまり言葉を選ぶ。
そういった習慣が、自分自身の「思考パターン」を形成し、やがては習慣となり、物事が成就していくのです。
マザーテレサの言葉として、有名ものがあります。
思考に注意しなさい、思考はやがて言葉になるから。
言葉に注意しなさい、言葉はやがて行動になるから。
行動に注意しなさい、行動はやがて習慣になるから。
習慣に注意しなさい、習慣はやがて性格になるから。
性格に注意しなさい、性格はやがて運命になるから。
話をDIに戻しますが、DIでは、授業中に子供たちの「雑念」を消し去っている。そういう見方ができるのではないかと思います。
つまり、教室全体に、フロー状態を作り出していると言うわけです。
大人でもそうですが、人の話や講義を聞いているとき、心の中で、常によそ事を考えたり、あるいは、反発を感じたり、反論をしてみたり、分からないなぁと自問自答してみたり、まったく集中できていない場合が多いのではないでしょうか?
古代の日本に最初に現れた学問は、「仏教」ではないでしょうか?僧は「経」を学び、暗誦しています。
漢語で書かれたお経を、音読みしても、私たち一般人には何を言っているのか全く分かりません。
しかし、インドでは当時のインド語で書かれ、暗誦されていた筈ですし、中国では漢語に訳されたお経を読んでいたはずです。
当時では、「経」というものが最高の学問であったわけです。
声を出して、読み上げる。大勢で唱和する。田舎に行くと、お坊さんと一緒にお経を唱和したりする光景を見ることがあります。
この方式は、古い役に立たないやり方なのか?それとも、フロー状態を作り出す、スピリチュアルで有効なやり方なのか?
じっくり考えてみる必要がありそうです。
最近紹介した、セレンディピティーなチベット医・小川康さんは、自著「僕は日本で、たったひとりのチベット医になった ヒマラヤの薬草が教えてくれたこと」のなかで、チベット医学の勉強の仕方について語っていました。
チベット医学校「メンツィカン」では、筆記試験だけでなく、暗誦の試験があると言うのです。
しかも、とてつもない分量・・・・・もちろんチベット語で。
『薬草実習から戻ると大学は後半戦に突入し、メンツィカン名物「暗誦試験」にむけて全員が準備にとりかかる。教典と解説書、あわせて九十分も早口言葉のスピードで暗誦する姿は究極の芸といってもいい。
雨季が明けた穏やかな気候のもと、武者震いをしたくなるような緊張感に包まれるこのメンツィカンの十、十一月が僕は妙に好きだ。
<中略>
しかしながら当初、暗誦は困難をきわめた。
今年の課題である約二万文字を暗記するだけならば問題はない。しかし、それが口から淀みなく言葉となって流れだすというところには、なかなか到れない。
どうしても二時間以上かかってしまうのだ。さすがに同級生たちは、軽々と暗誦し、余裕の表情を見せる。
筆記試験はできてもこればっかりはオガワには無理だろう」と勝ち誇っているようにもみえて悔しかった。
一人だけとり残されているような孤独感。やっぱり外国人にはチベット医学を学ぶ資格がないのかという絶望感。しかしその危機感は、またも尋常ならぬまでのエネルギーを僕に与えてくれた。僕はなにかに憑かれたかのように暗誦の練習に打ちこんだ。口が思うようにまわらないときは、悔しくて何度も自分の膝を叩いた。そして試験まであと十日と迫ったとき、ついに劇的な変化がおこった。突然、ロからおもしろいように「四部医典」の言葉が流れだしてきたのだ。苦痛は喜びに変わる。暗誦をしていると疲れるどころか頭が澄みわたってくるではないか。僕はすっかり晴舗の虜になってしまった。(上記著作から引用)』
ここには、セルフ1の思考を超越し、セルフ2の超人的な技を開花させたと見られる記述が見られます。
また、フロー状態に到った様子も窺がえます。
私たち凡人には、暗誦という作業は壁が高いとしても、字面を見ながらの音読なら、容易にできるはずです。
本を読むのが、苦手な人はぜひ、音読してみましょう。
法要などで、お坊さんの読経を聞いているとき、考えたことがありました。
スピリチュアルでは、瞑想を推奨しています。思考をとめるもしくは、休ませることで、ストレスから開放されるのです。
東洋系の宗教もまた、瞑想や座禅、陽明学では静座で、思考をとめて無とか空の境地を体験することを目指しています。
現代のお坊さんの多くは、瞑想などとは無縁だと思いますが(失礼)、お坊さんが読経をしているとき、瞑想に近い「心の状態」になっているのではないかなと思ったのです。今思えば、「フロー状態」ですが。
暗誦や音読をしているとき、余分なことはきっと考えられないでしょうから。
私たち凡人は、カラオケで好きな曲を歌っているとき、やはり無思考のフロー状態を疑似体験しているのかもしれません。
今の子供たちは、数人で4時間も5時間も歌っているらしいです。
カラオケは、メロディーとリズムがついた「音読」です。(中には歌詞を見なくても歌える達人もいますね)
ガルウェイ氏の「インナーゲーム理論」のなかでも、セルフ1の活動を抑えるために、見えていることを「声」をだして追う、というやり方が紹介されていました。テニスのボールの動きを目で見て、「弾んだ!、打った!」とか声を出しながら、プレーする。ゴルフなら自分のクラブヘッドの動きを感じながら、「引いた!トップだ!」といって声を出す。むかしの漫画の「チャー・シュー・メーン」と近いですね。
中村天風師の言葉。
『一日の人生に生きるときに、お互いに勇気づける言葉、喜びをわかちあう言葉、聞いても何となく嬉しい言葉を言い合おう。』
『毎晩寝がけに、私はこう言っている。「今日一日、本当にありかとうございました。本当にうれしく、ありがたく、これから休ませていただきます」。』






