スピリチュアル人間学

スピリチュアル人間学

スピリチュアルな視点から、自己啓発・成功哲学など広い意味での人間学を構築していきたいと思います。キーワードはセレンディピティそしてシンクロニシティ。

古今東西の宗教・哲学・精神科学の知識を拾いながら、喜助愛楽な人生が創造できますように。

『自分の心の状態が、未来を創造する。』
この言葉を皆さんと共有できたらという思いで、このブログを編集しています。
自分とは何か。こころとは何か。未来とは何か。創造とはどういうことか。

スピリチュアル(霊的)な知識をもとにさまざまな科学仮説、成功哲学、時事話題等ご紹介していきたいと思います。
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スピリチュアル人間学

自宅庭で咲き出した、寒椿です。

ダイレクト・インストラクションという教育方法は、一斉発声という手法で生徒たちの集中力を増しています。
それだけでなく、一緒に学んでいると言う連帯感・仲間意識も少なからず醸成されていると見るべきです。

少し話しはずれますが、世の中の「成功哲学」では、「目標や目的を紙に書き出して、声を出して読み上げる」と言う手法も良く見出されます。
声に出すことは、実は自身の潜在意識に働きかける重要な手段だからです。

常日ごろ、やたらと頭の中は、「おしゃべり」でいっぱいです。ああでもない、こうでもないと。
いわゆる雑念。妄想だらけ、魑魅魍魎の住処になっていませんか?
そういった、役に立たない「思考」の中から、自分にとって望ましい思考を選別した上で、「声」に出す。つまり言葉を選ぶ。
そういった習慣が、自分自身の「思考パターン」を形成し、やがては習慣となり、物事が成就していくのです。
マザーテレサの言葉として、有名ものがあります。

思考に注意しなさい、思考はやがて言葉になるから。
言葉に注意しなさい、言葉はやがて行動になるから。
行動に注意しなさい、行動はやがて習慣になるから。
習慣に注意しなさい、習慣はやがて性格になるから。
性格に注意しなさい、性格はやがて運命になるから。

話をDIに戻しますが、DIでは、授業中に子供たちの「雑念」を消し去っている。そういう見方ができるのではないかと思います。
つまり、教室全体に、フロー状態を作り出していると言うわけです。

大人でもそうですが、人の話や講義を聞いているとき、心の中で、常によそ事を考えたり、あるいは、反発を感じたり、反論をしてみたり、分からないなぁと自問自答してみたり、まったく集中できていない場合が多いのではないでしょうか?

古代の日本に最初に現れた学問は、「仏教」ではないでしょうか?僧は「経」を学び、暗誦しています。
漢語で書かれたお経を、音読みしても、私たち一般人には何を言っているのか全く分かりません。
しかし、インドでは当時のインド語で書かれ、暗誦されていた筈ですし、中国では漢語に訳されたお経を読んでいたはずです。
当時では、「経」というものが最高の学問であったわけです。

声を出して、読み上げる。大勢で唱和する。田舎に行くと、お坊さんと一緒にお経を唱和したりする光景を見ることがあります。
この方式は、古い役に立たないやり方なのか?それとも、フロー状態を作り出す、スピリチュアルで有効なやり方なのか?
じっくり考えてみる必要がありそうです。

最近紹介した、セレンディピティーなチベット医・小川康さんは、自著「僕は日本で、たったひとりのチベット医になった ヒマラヤの薬草が教えてくれたこと」のなかで、チベット医学の勉強の仕方について語っていました。
チベット医学校「メンツィカン」では、筆記試験だけでなく、暗誦の試験があると言うのです。
しかも、とてつもない分量・・・・・もちろんチベット語で。

『薬草実習から戻ると大学は後半戦に突入し、メンツィカン名物「暗誦試験」にむけて全員が準備にとりかかる。教典と解説書、あわせて九十分も早口言葉のスピードで暗誦する姿は究極の芸といってもいい。
雨季が明けた穏やかな気候のもと、武者震いをしたくなるような緊張感に包まれるこのメンツィカンの十、十一月が僕は妙に好きだ。
<中略>
しかしながら当初、暗誦は困難をきわめた。
今年の課題である約二万文字を暗記するだけならば問題はない。しかし、それが口から淀みなく言葉となって流れだすというところには、なかなか到れない。
どうしても二時間以上かかってしまうのだ。さすがに同級生たちは、軽々と暗誦し、余裕の表情を見せる。
筆記試験はできてもこればっかりはオガワには無理だろう」と勝ち誇っているようにもみえて悔しかった。
一人だけとり残されているような孤独感。やっぱり外国人にはチベット医学を学ぶ資格がないのかという絶望感。しかしその危機感は、またも尋常ならぬまでのエネルギーを僕に与えてくれた。僕はなにかに憑かれたかのように暗誦の練習に打ちこんだ。口が思うようにまわらないときは、悔しくて何度も自分の膝を叩いた。そして試験まであと十日と迫ったとき、ついに劇的な変化がおこった。突然、ロからおもしろいように「四部医典」の言葉が流れだしてきたのだ。苦痛は喜びに変わる。暗誦をしていると疲れるどころか頭が澄みわたってくるではないか。僕はすっかり晴舗の虜になってしまった。(上記著作から引用)』

ここには、セルフ1の思考を超越し、セルフ2の超人的な技を開花させたと見られる記述が見られます。
また、フロー状態に到った様子も窺がえます。

私たち凡人には、暗誦という作業は壁が高いとしても、字面を見ながらの音読なら、容易にできるはずです。
本を読むのが、苦手な人はぜひ、音読してみましょう。

法要などで、お坊さんの読経を聞いているとき、考えたことがありました。
スピリチュアルでは、瞑想を推奨しています。思考をとめるもしくは、休ませることで、ストレスから開放されるのです。
東洋系の宗教もまた、瞑想や座禅、陽明学では静座で、思考をとめて無とか空の境地を体験することを目指しています。
現代のお坊さんの多くは、瞑想などとは無縁だと思いますが(失礼)、お坊さんが読経をしているとき、瞑想に近い「心の状態」になっているのではないかなと思ったのです。今思えば、「フロー状態」ですが。
暗誦や音読をしているとき、余分なことはきっと考えられないでしょうから。

私たち凡人は、カラオケで好きな曲を歌っているとき、やはり無思考のフロー状態を疑似体験しているのかもしれません。
今の子供たちは、数人で4時間も5時間も歌っているらしいです。
カラオケは、メロディーとリズムがついた「音読」です。(中には歌詞を見なくても歌える達人もいますね)

ガルウェイ氏の「インナーゲーム理論」のなかでも、セルフ1の活動を抑えるために、見えていることを「声」をだして追う、というやり方が紹介されていました。テニスのボールの動きを目で見て、「弾んだ!、打った!」とか声を出しながら、プレーする。ゴルフなら自分のクラブヘッドの動きを感じながら、「引いた!トップだ!」といって声を出す。むかしの漫画の「チャー・シュー・メーン」と近いですね。

中村天風師の言葉。
『一日の人生に生きるときに、お互いに勇気づける言葉、喜びをわかちあう言葉、聞いても何となく嬉しい言葉を言い合おう。』
『毎晩寝がけに、私はこう言っている。「今日一日、本当にありかとうございました。本当にうれしく、ありがたく、これから休ませていただきます」。』




イアン・エアーズ氏は、
その数学が戦略を決める (文春文庫)/文藝春秋
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この著書の中で、20数ページにわたって「ダイレクト・インストラクション(DI)」と呼ばれる教育方法について、記述しています。

その主旨は、
『DIを採用すべきかという戦いは、根拠に基づく医療をめぐる戦いと同じく、基本的には絶対計算の結果に依存すべきかどうかという戦いだ。自分が気に入らなくても統計的に有効性が確認されたやりかたにはしたがうべきだろうか?』(上記著作から引用)ということです。

ちなみに「根拠にことづく医療」とは、統計的に効果のある医療と言う意味合いで、絶対計算とは、「大量データの解析に基づく分析(回帰分析)」のことです。

つまり、統計的に有用な「結果=現実」が出ているのにもかかわらず、「専門家」たちは、その効用を認めようとはせず、自分たちの権威や権力、地位(もちろん収入も)を守ろうとしている。という強力な例の一つとして、ダイレクト・インストラクションという教育方法を取り上げているのです。

ダイレクト・インストラクションは、オレゴン大学のエンゲルマン教授が1960年代から考案した教育方法です。

特徴は、
『基本的に、教師から児童への頻繁な発問と、それに対する、クラス全体、あるいは小集団による一斉の回答から成り立ちます。一斉に声にだして回答させることで、児童に集中させることができます』
ということです。(http://www.naruto-u.ac.jp/~rcse/s_DI.html 参照、引用しました)

DIを一見して、安岡定子さんの「こども論語塾」の素読・唱和の様子が想起されました。
安岡定子さんは、知る人ぞ知るあの安岡正篤師のお孫さんに当たります。
日本人の教育の原点は、「読み、書き、そろばん」ですが、この声を出して一斉唱和するやりかたは、まさに伝統的な日本の教育方法でした。
http://www.youtube.com/watch?v=ZUukKkpjKu4&feature=relmfu 参照

日本の公教育では、捨ててしまった方法論が、アメリカで進化し、効果を挙げている。ということに衝撃を感じます。
しかし、アメリカでも、イアン氏の言うように、「専門家=教育学会、教育委員会等」から攻撃を受けて、なかなか広まっていないのが現状のようです。
イアン氏は、具体的にDIの効用が、科学的、統計的に有効であると言うデータを挙げています。

『DIの有効性についての証拠は、はるか一九六七年にまぜさかのぼる。ジンドン・ジョンソン大統領は、「貧困との戦い」というキャンペーンの一部として始められた早期教育プログラム「ヘッドスタート計画」のごくわずかな成果を「追跡確認」したいと考えた。「貧困な子供は成績も悪い」のを気にした教育局と経済的機会局は、どんな教育モデルがこの失敗のサイクルを破るのに最適か調べようとした。結果は追跡確認プロジェクトであり、六億ドル以上かけて20年にわたり低所得コミュニティー180区画の児童七万九〇〇○人を追跡するという野心的なものだ。こういう長期的な支援が背後にあると、絶対計算もずいぶん楽だ。当時、これは史土最大の教育調査だった。追跡確認プロジェクトは、授業計画が細かく脚本化されているDIのようなモデルから、生徒たち自身が何をどうやって学ぶか選んで自分の学習を自分で主導する構造なしの手法まで、一七種類の教育方法の影響を調べた。一部のモデルはDIと同じく語彙や算数といった基礎技能修得を重視し、あるものは高次思考や問題解決能力を重視し、また学習への熱意や自尊心を強調するものもあった。追跡確認プロジェクトの設計者たちは、どのモデルが最高かを知りたかった。それも各種法がそれぞれ主眼を置く分野での能力開発にとどまらず、全体としての能力開発を知りたがった。
ダイレクト・インストラクションの圧勝だった。教育評論家リチャード・ナドラーはこうまとめている。「試験が終わってみると、DIの生徒たちは読み、書き、算数、言語ですべて一位になった。他のどんなモデルも足下にも及ばなかった」。 DIの優位は、基本的な技能修得にとどまらなかった。DIの生徒たちはまた、高次の思考力を要求される問題にも楽々と答えた。たとえばDI学童たちは、知らない言葉の意味をまわりの文脈から類推する能力でも高い成績を挙げたまた数学や視覚的パターンで、空欄を埋めるのにもっとも適切なものを選ぶ能力も高かった。DIは自尊心の育成の面でも、いくつかの子供中心アブローチより高い成果をあげた。これは実に驚くべき結果だ。子供中心の教育法の大目的は、子供の参加をうながして、自分自身の教育を構築させる著者にしたてることで自尊心を養うことだからだ。』

このような現実が示されているのに、物事が変革していかない「現実」は、私たちを脱力させるのに十分な毒となりえます。
しかし、論点は、DIの基本要素が、音読・唱和にあるのではないかということです。

音読・唱和をしているとき、頭の中に「思考」はありません。
つまり、ガルウェイ氏が言うところの「セルフ1」が作用しない状態だということです。
もっといえば、DIとは、「インナーゲーム理論」の実践版教育方法であるのではないかと言うことです。
NHKラジオで放送された、小川康さんのインタビュー。聞いた方も居られるかもしれない。
小川康さんは、日本人で初めて「チベット医」になった方です。

東北大学の薬学部を卒業した氏は、堅実な人生を捨て、『興味と風の吹くままに職を転々とした』そうです。

そして、たまたま電車の待ち時間に立ち寄った本屋で『なにげなく手にした』という、「チベット医学入門」という本の中の『読者の一人や二人はインドのダラムサラにあるチベット医学校に入学し、"直接伝授"による教育を受けてくださるよう願っておきたい。そして―この"秘められた"高嶺の医学の真髄を会得して、日本に伝えていただきたいのである』
という一文に出会ったのです。
ちなみに、ここに出ているチベット医学校は、正式には、チベット医学暦法学研究所「メンツィカン」と言います。

ギザブロー氏の場合は、歯医者の待ち時間に「本」に出合いました。
小川康さんは、電車の待ち時間だったのです。
ボーっと待っていてはだめですね。

その後、小川さんは、28歳のとき、小さなリュックだけを背負って、独りインド・デリー行きの飛行機にのりこみました。
つても、頼りも無く、チベット医学を学ぼうと言う「強い意志」もまだなかったと言う小川さんは、「運命」に出会います。
なんと、小川さんは、デリー到着直後、詐欺・軟禁されてしまうのです。
当時はこうした観光客(日本人)への事件が多発していたらしいのです。

必死の思いで、軟禁状態から抜け出し、当初の予定よりも一日遅れで、目的地ダラムサラ行きの夜行バスに乗り込みました。そのときは、『ダラムサラを観光したらもう日本に帰ろう』と心に決めていたそうです。

しかし・・・・・。

『インド人がとってくれたダラムサラ行きのバスの席は一番後ろの中央。すなわちもっとも揺れが激しい貧乏くじの席である。
斜め前に座るショールを羽織った男性が最初から気になっていたのは、ただ単に、顔が日本の知人に似ていたからなのか、それとも運命を感じとっていたからなのか、いまもってわからない。
話しかける機会をうかがい、夜中の十一時ころ、バスが休憩所に立ち寄ったのをきっかけに「バスはいつ出発するんでしょうかね」と日本訛りのカタカナ英語で男性に話しかけた。

Rの音を強調するインド訛りの英語が返ってくる。
僕はまた軽い気持ちで質問した。「メンツイカンって知っていますか」と。

「オフコース。アイ、アム、メンツィカン・ドクター」

ドクター・ツェリン氏との出会いの瞬間。

閉じかけていた瞳が全開になり、バスのなかの風景が劇的に変わった。
エンジンの騒音が音楽に聴こえだした。バスの揺れがリズミカルに感じられ、笑いがこみあげてくる。

僕を騙してくれたインド人に感謝の念すらわきおこった。あのとき、もしインド人に騙されていなかったら…、席が違っていたら…、』(僕は日本で、たったひとりのチベット医になった ヒマラヤの薬草が教えてくれたこと  小川康:著から引用)

そうです。小川さんは、こうして、セレンディピティーに出会ったのです。
人生やはり、塞翁が馬ですね。

その後、チベット語を学び、メンツィカンに見事入学し、さらに無事卒業するまでの、苦難と喜びの10年の物語。
卒業イベントでは、4時間半をかけて8万字に及ぶ医典の暗誦を成し遂げました。

小川さんのスピリチュアルな人生に乾杯!



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天風師は、「積極的に生きる」ということを、大命題にされています。天風哲学の本質です。

しかし、天風師の「積極的」と言う言葉は、一般的な「積極的=物事を進んでするさま。」という意味ではないと感じていました。
どちらかと言うと、「自己肯定的」な意味を感じていたのです。

天風師は、言葉や自分の思考や心のあり方を、特に強調しています。

『自分の使っている言葉によって、自分の気持ちが非常に鼓舞奨励されたり、あるいはスポイルされたりする』・・「君に成功を贈る 中村天風術 金言・至言100選から引用、以下同じ」
『人間の心は、人生の一切をよりよく建設する力があると同時に、また人生をより悪く破壊する力もある』
『人生は心一つの置きどころ。人間の心で行う思い方、考え方が人生の一切を良くも、悪くもする』
『仮にも「できません」「うまくいきません」「駄目だ」とか言わないこと』

これらの、言葉に接するとき、ガルウェイさんがいうところの「セルフ1」による、自己妨害作業、自己批判や自己不信、結果への執着などが人生を悪くするという理論と一致していると感じます。

『自分の心の中に少しでも消極的なものを感じたならば、断然それを追い出してしまわなければならない。』
『自分が心配、怖れたりしている時、「いや、これは俺の心の本当の思い方、考え方じゃない」と気付きなさい。』

しかし、凡人の常、追い出すことがなかなかできない。

天風師もこういっています。
『心というものは、熟練した技師が手足のように精巧な機械を動かすように使わなければいけない』

天風師の言葉で、一番分かりやすいのがこれです。
『楽しいという心のあるときには、辛い、苦しいという心は同居しない』
『この世の中は、苦しいものでも悩ましいものでもない。本質的に楽しい、うれしい、そして調和した美しい世界なのである。』
『何事においてもその時の積極的な心の態度が、成功を生みだすことになる』
『できる人と、できていない人との相違は、要らない事に全然心を脅かされているかどうかである』

まさに、いつも楽しい状態で、生活しなさい。仕事しなさい。というのが、天風哲学の「積極的」生き方なのだと思います。
いいかえれば、フロー状態で生きろと!
フロー状態でないことが、「消極的」人生だと・・・。

『現在の人生はたった今から、でき得るかぎり完全な状態で生かさなければならない』
『心の態度が積極的になると、心の力が不可能を可能に逆転せしめる』

天風哲学に、チクセントミハイ博士らの既存の科学=ポジティブ心理学が追いついてきた。といえるかもしれません。


『今日一日、怒らず、怖れず、悲しまず』
あらためて、天風師の金言に感謝です。

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W・Tガルウェイさんは、「インナー・ゲーム オブ ストレス」の中で、以下のように言っています。

『その存在を認識するかどうかに関係なく、私達は皆、インナーゲーム(内側のゲーム)をプレーしています。
私達はアウターゲーム(外側にあるゴールに到達するため、外の世界の障害に打ち勝っていくというゲーム)のまっただ中にいますが、同時に内側でも障害と向き合っているのです。恐怖、自信喪失、欲求不満、苦痛、動揺・・・こういった障害は、私達が能力を最大限に発揮して最大限に楽しむ上で邪魔になります。』
チクセントミハイ博士の言葉を使えば、自分自身の内側で、恐怖、自信喪失、欲求不満、苦痛、動揺・・・といった障害が起きているから、フロー経験を体験することができないのだ、と言うことができると思います。
そして、ガルウェイさんは、自己内部の自己妨害作用を最小限にとどめるための、技術・考え方を提示しているのです。
ガルウェイさんは、もともとテニスのコーチでしたから、はじめは「インナーゲーム オブ テニス」という書籍で、このインナーゲーム理論を世に問いました。
つづいて、「インナーゲーム オブ スキー」、そして「インナーゲーム オブ ゴルフ」を著しました。
このインナーゲームをゴルフに応用すると言う試みは、ガルウェイさん自らが実験台となって、進められたドキュメンタリー仕立てになっていて、とても参考になりました。
近著では、ビジネス・企業環境において、インナーゲーム理論を活用した「インナーゲーム オブ ストレス」を著しています。

インナーゲーム理論の特徴は、『私達の中には、セルフ1とセルフ2という「2つのセルフ」が存在します。』と仮定したことです。
そして、「セルフ1」を、頭の中で思考している自分であり、その思考こそが、自分自身の『恐怖、自信喪失、欲求不満、苦痛、動揺・・・といった障害』を積極的に発生させている存在だと見做したのです。
何かしようとするとき、私たちは、頭の中に声がすることに気づきます。「失敗するかも・・・・。」とか、「怒られるかも・・・。」とか、「どう見られているかな?」とか、頭の中は、おしゃべりでいっぱいになります。これこそが、ガルウェイさんの言う『ストレスメーカー』=セルフ1なのです。

『ストレスメーカーは、あたかもあなたの声で話しているかのように話します。たとえば「私はとってもバカ・・・・・・私は出来ない・・・・・・私は失敗者だ・・・・・・誰も私を好きになってくれない・・・・・・私には価値がない・・・・・・」ストレスメーカーはこのように巧みに判断します。
これらが真実でない時でも、あなたは誤って的確な自己査定として受け取ってしまうのです。
ストレスメーカーは自己攻撃の達人。自分ヘの攻撃は、ストレスメーカーが持つ切り札です。
あなたのあらゆる行動に異議を唱え、いかにあなたがダメかを主張し、あなたの欲望を笑い、あなたを無情にも裁きます。しかも、それらが真実であることをあなたに確信させるように行われるのです。』

さて、このストレスメーカーであり、プレッシャーメーカーでもあるセルフ1をどうしたらいいのでしょうか?
コーチとしてのガルウェイさんは、具体的な方法を考えました。
『セルフ1を静かにさせる一つの方法として、「セルフ1を、(セルフ2の邪魔にならない)何かに誘惑し、そこに興味をクギづけにしてしまう」という、精神集中のテクニックを開発した。
セルフ1が何かに興味を奪われている限り、セルフ2ヘの妨害作業は急激に減少し、発揮される能力は飛躍的に増大するのだ。』  

つまり、どうしてもあれこれとつまらないことを考えてしまうセルフ1を特定のものに集中するようにさせて、頭の中のおしゃべりをとめる。と言うことなのです。
「インナーゴルフ」のなかで、著者は『動くものの方が、セルフ1の注意を集めておくには、はるかに有利だ。動くものは―クラブ・ヘッドである。クラブ・ヘッドこそスイングのリズムも、必要なタッチも、すべてを集約している、ゴルフの根源的要素なのだ。ここにセルフ1をとどめておけば、すばらしいフィード・バックが得られるはずだ。
しかし、クラブ・ヘッドは、テニス・ボールと違って、スイング中の動きすべてを目で追うことは出来ない。もしセルフ1をここにくぎづけにしようとするなら、「感じる」ことで、 クラブ・ヘッドを追わなくてはいけない。
クラブ・ヘッドの動きを常に「感じる」ことが出来るだろうか。私は打ちっ放しの練習場へ出かけて行って、実験した。初めの内は、ヘッドがどこにあるのか、さっぱり感じられなかった。ただ、ボールを「打つ」ことに捕われず、単純にスイングした時の方が、よりはっきりと、ヘッドの動きをつかむことが出来た。』

そして、ガルウェイさんは、念願の80切りを短期間でやってのけたのです。
まさに、チクセントミハイ博士がいう「フロー状態」を、自分自身の工夫で作り出せると言うことではないでしょうか。
フロー体験とグッドビジネス―仕事と生きがい/M. チクセントミハイ
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 チクセントミハイという一見変わった名前のハンガリー出身のアメリカの心理学者がいる。「幸福」、「創造性」、「主観的な幸福状態」、「楽しみ」などの研究者で、この分野はポジティブ心理学と言うらしい。
チクセントミハイ博士の研究で、目に留まったのは「フロー理論」である。

 博士は、「楽しむということ」という著作の中で、まず自己目的的なパーソナリティーについて論じている。
自己目的的とは、内発的な動機(モチベーション)において行動し、内発的な報酬(経験そのものや、それによる学びなど)に価値を置くような意味である。
 自己目的的なパーソナリティーを持つ人とは、自己目的的な経験をしている人たちであるとし、『自己目的的経験は、それ以外の生活が往々にして退屈であるのとは異なり、退屈ではない。同時に「通常」の生活の中では意識の中にしばしば入りこんでくる不安を生み出すことがない。退屈と心配とが相殺し合っていることから、自己目的的経験は行為者をその活動に完全に没入させてしまうものの一つとなる。その活動はたえず挑戦を提供する。これから起こることや起こらないことに対して、退屈や心配を感ずる時間がない。』と記述している。
 そして、博士は、『我々はこの特異でダイナミックな状態―全人的に行為に没入している時に人が感ずる包括的感覚―をフロー(flow)と呼ぶことにする。フローの状態にある時、行為は行為者の意識的な仲介の必要がないかのように、内的な論理に従って次々に進んでいく。人はそれをある瞬間から次の瞬間ヘの統一的な流れとして経験し、その中で自分の行為を統御しており、更にそこでは自我と環境との間、刺激と反応との間、過去現在未来との間の差はほとんどない。フローという語は我々が今まで「自己目的的経験」と呼んできたものである。』として、自己目的的経験を「フロー経験」と命名したのだ。
 博士は、こうも言っている。
『目標の達成は人の行為を評価するために重要であるが、それ自体が満足をもたらすのではない。人に行為の遂行を継続させているのは、不安と退屈という二つの変数の彼方にある行為の経験、つまりフロー経験なのである。』

 フロー経験は、誰にでもある。夢中になってときがたつのも忘れる。人の呼びかけが聞こえないほど何かに集中しているなど。スポーツやゲーム、レクリエーションなど「遊び」の要素の中で、容易に体験できるものだ。
しかし、博士はもっと踏み込んで考察している。「日常生活」や、「仕事」の場においても、フロー経験は成り立つと。
『一つの活動の楽しさは、その活動の構造が、その人の技能を環境の要求に合致させるかどうか、彼の注意を集中させ、明瞭なフィードバックを与えるかどうか、更には彼の行為を支配し、自我意識を消失させるか否かにかかっているようである。』
つまり、活動の領域、仕事か家事か遊びとか、そういったものは、本質的にフロー経験を排除する要素ではないと言っているのである。

 ここのところは、大いに気に入った。
 博士は、マイクロフローという概念を提示し、日常生活の些細な場面でもフローという状態は見出されるとした。

 たとえば主婦。家事を生き生きとこなし、いつも部屋を綺麗にしていることが、自然とできる人と、掃除をしていないと、誰かから文句を言われるから、仕方なくしている人との違いがここにある。
 掃除だけではなく、料理やこまごまとした家事一般についても言えるし、子供たちの勉強や部活、あるいは社会人の仕事についても、いきいきと楽しそうにしている人と、疲れ切っていやいやしている人との差を、フロー状態であるか、そうでないか、という観点で見ることができるのだ。

 博士はこういう。
『第一に考察し直されるべき点は、仕事と遊びという頑なな二分法である。「仕事」と「遊び」が二つの分離した、相反する状態ですらあるということは、これ以上の証明を要しない自明のこととされているようである。しかし我々の調査から得られた事実はすべて、根本的な相異は文化的に規定された活動としての「遊び」と「仕事」との間にあるのではなく、「フロー」経験(それは遊びに典型的に現われるが、仕事にも同様に存在する)と、不安や退屈の経験(それはいつでもどこにでも生ずるが、行為ヘの挑戦の機会があまりにも少なすぎるか、あまりにも多すぎる活動に現われるようである)との間にあることを示唆している。・・・・
 フローという概念は、仕事や一般的な生活様式に対する文化的定義を、それらが実際に考えられている以上に柔軟なものとして眺めることを可能にする。それは苦役や不安がなぜ必要なのかという疑問を我々に投げかけ、日々の生活がより自由になる方法を示唆する。日常とは無関係な「遊び」のみが楽しく、真面目な日常の仕事がつらい試練であるべきであると考える理由はもはや存在しない。
 仕事と遊びの境界線は、人為的に引かれたものであることをひとたび我々が理解すると、我々は物事を手の内のものとし、生活をより生きがいのあるものにするという困難な作業を、容易に始めることができる。』  (注:『』内は、すべて著作からの引用)

 この著作を読んでみて、「なるほど、そうだったのか」と得心するものがあった。

ひとつは、最近目にした「インナー・ゲーム理論(テニスコーチのW.ティモシー・ガルウェイ氏が、1974年に著作 "The Inner Game of Tennis" の中で発表した考え方)」である。
そして、もう一つは、長年敬愛する中村天風師のいう「絶対積極」という概念だ。
アニメ師 杉井ギサブロー

 アニメ師「杉井ギサブロー」氏が、NHK第一ラジオ「すっぴん・インタビュー」に登場されていました。

 氏は、東映動画を経て、虫プロに入り、鉄腕アトム、ルパン三世などのヒット作を世に出した中心メンバーとなるのですが、1974年に「まんが日本昔ばなし」の立ち上げに携わったあと放浪の旅に出たそうです。

 氏によれば、アニメでは、「人間の情感を表現できない」という限界を感じてのことだったそうです。

 その旅の途中、氏は、あだち充の「ナイン」を読んで、せりふを使わずに情感を伝える新鮮さに感動したと言います。

 その23日後にアニメ仲間から、相談があるから寄ってくれといわれ、会いに行くと、「ナイン」をアニメ化できないだろうかという相談だったのです。

 氏は、引き受けます。

 1983年「ナイン」が封切され、その後も数々のあだち作品をアニメとして世に出すことになったのです。

 10年の放浪のたびは、あだち充漫画との出会いによって終わりを遂げました。

 あだち充の漫画との出会いは、まさにセレンディピティーと思いませんか?


『エジソンは超能力者として評判のヘレナ・ブラバッキーと出会う。(略)彼女が主宰する霊界との交信セミナーに出席し意見交換を重ねるうちに、エジソンは「自分は千を超える発明をし、世界の発明王などと言われているが、実際は、自分が発明したのではなく、宇宙という大きな存在からメッセージを受け取り、自分なりの記録をとったにすぎない。つまり、自分自身が自然界からのメッセージの受信機であった」と言うようになった。人間の肉体は自然や宇宙の一部であることは間違いない事実である。その点からすると、エジソンのこの思想遍歴は科学と人間の関係をバランスのとれたものにする上で、極めて今日的に重要なヒントを与えているといえよう。(快人エジソン 奇才は21世紀に甦る 浜田和幸著)から引用。』

 エジソンの名は誰でも知っていますが、本当のエジソンを知っているのかと言えば、危ういものです。
 現在でもアメリカで偉人トップにランキングされるエジソンは、スピリチュリストだったのです。

 こんなこともあります。

 アメリカでの電力事業が、エジソンによって始められたときは、直流送電によって行われていました。発電システム(DC)と家電システム(DC)が直結していたのです。

 エジソンは、直流送電システム(DC)を推し進めていましたが、ウエスティングハウスとニコラ・テスラが交流送電(AC)を開発し、結果的にエジソンのシステムは敗北して、今現在の交流送電システムが世界中に広がりました。
 送電の際、電圧が高いほど送電損失が免れるということで、交流の場合は、高い電圧からの変電が容易なのに対して、直流送電は、直流の変圧が困難だったことから、当時は、送電コストが高くついたからです。

 つまり現在の大規模発電、広域送電システムは、テスラ側の発想だったということです。
 エジソンの発想による電力システムが進化し、世界に広く行われていたら、原子力発電所はできなかったのではないかなどと、思うこのごろです。

 エジソンは、こうも言っています。

『われわれはこの世に存在するものの真のパワーを全くといっていいほど理解していない。
われわれが知っているつもりのことでも、本当は一パーセントの一千万分の一もわかっていないのである。
これからの機械文明を生きるには、心を進化させることが必要だ。
人間はあらゆる存在からパワーを感じることができるようにならねばならない。
そうすれば、宇宙のエネルギーは不変であり、人間の魂はもちろん、すべての存在は結びついているとがわかるようになるだろう。
例えば、わたしの発明はすべて宇宙という『マスター・マインド』からのメッセージを受け止め、練り上げただけなのだ。 (快人エジソン 奇才は21世紀に甦る 浜田和幸著)から引用。』

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暗黒物質

暗黒物質は、「あの世」の存在か?
電磁相互作用をしないため通常の観測手段では検出できないのが暗黒物質。つまり、目に見えない物質が、宇宙全体の構成要素の24%を占めるというのです。ちなみに目に見える通常の物質は、宇宙全体のたった4%しか占めていないらしい。
この暗黒物質の正体を探るために、最先端の科学者たちが研究を進めていますが、確からしい理論は見出されていません。
スピリチュアルな観点から想像すると、この目に見えない物質の正体は、「あの世」ではないかと。超ひも理論でいうところの、5次元から11次元の世界のことではないかと思うのです。
超ひも理論で予測されている5次元以上の世界。これらの世界が、なぜ見えないかというのは、科学者たちから仮説が出ています。
それは、「光子」そのものが、4次元世界に閉じ込められている存在であって、5次元以上の世界とは、相互作用できない=見ることができない。という仮説です。
「重力」だけが、5次元以降との相互作用ができる可能性があるということで、逆に言うと「重力」は、5次元以降に漏れている、もしくは5次元から漏れてくる、可能性があるわけです。

暗黒物質の存在と、5次元以上の世界とが、密接に連関していると感じるのは、私だけでしょうか?

3月11日の大地震と大津波では、TVを通してリアルタイムでその惨劇が私たちに届けられました。
今日も、被災地では救命・捜索、救援活動が続けられています。
被災者の方々には、お悔やみとお見舞いを申し上げます。

私たちは、映像を見、何もできない自分に大きな無力感を感じています。
只ただ、ひとりでも多くの人命が救われ、かつ避難者のかたがたと救援活動の方々の安全・無事を祈らずに入られません。、

そう。私たちは、祈ることができます。

私たちのこの祈りは、必ず通じます。
具体的に、また物理的に何もできなくても、私たちの祈りには「力」があると思っています。
被災地で、多くの避難者の方々が、身近な安否不明の人々の無事を祈っているように、私たちも名も知らぬ人々のために祈りましょう。

そして、祈りとともに学ぶことができます。
個人が、地域が、行政が・・・ありとあらゆる立場で、この大きな悲劇から、同じような悲劇が起こらないように、学ぶことができます。

大きな被害を受け、電気も無く電話も通じないとき、自分はどうしたら「大切」なものを守れるか?
その瞬間に判断し、行動するために、学ぶことができます。
今、被災地で何が起こり、これから何がおきていくのか・・・・・・、そしてどうすればよいのか。
しっかりと記憶にとどめ、考えていくことを続けなければなりません。

今は、一般人としてできることは、祈ることと学ぶこと以外には大変限られていますが、徐々に私たちの身近な生活に影響が見出されるようになります。

現に直接多くの人命が失われた沿岸地域だけでなく、内陸部の東北・関東北部では、ライフラインや社会インフラに多大な損傷を受け、通常の生活は困難を極めています。
さらに、関東全域で、計画停電が実施され首都圏では日常生活や企業活動におおきな影響が出ています。

人命だけでなく、莫大な量の「資源」が一瞬にして失われたことの意味を考えなくてはなりません。
製油所・発電所をはじめとしたエネルギー資源だけでなく、住居や家財をはじめ、数十万人分の生活資源も同時に失われているのです。

私たちは、被災地やその周辺の方々の復旧や復興に支障を生じないように、身近な資源を浪費しないように、すぐにでも学び、考え、実行しなくてはなりません。

可及的速やかに、せめて最低限の安全で安定した生活を、被災者の方々が送ることができるように、私たちはそういった広範な資源を節約しなければならないと思います。
それによってすべてを失った被災者の方々に、優先的に資源や製品が届くことを祈るのです。

被災地では、家屋や家財が失われただけでなく、「土地」そのものも失っってしまったと思われます。
農地が海水に洗われた集落では、当分の間、農地として不適合であるばかりでなく、地震によって海水面より地盤全体が低くなってしまっています。
都会であれば、土地を処分して生活再生の糧にするという選択肢もありますが、沿岸部の方々には、むずかしい話です。

また、被災者の方々の仮設住宅も住み慣れた被災地に建設が困難な場合、被害を免れた家屋や世帯であっても、無人にちかい集落で生活していくことができるでしょうか?
まさに集落が人々の生活の場であり、仕事の場であったのですから。

壊れた家屋や、港湾施設、河川・道路などを被災前の状態に作り直すだけでも甚大な資金と時間がかかりますが、今回の震災では、そのままの復興はありえません。

辛抱強く、復興計画とその実行を「待たねばならない」ことが必然です。

直接的に、具体的に被災者の方々の役に立つことのできる人は限られていますが、
私たち誰もが、辛抱強く「祈り続ける」ことと「学び続ける」ことは、できると思うのです。