誰の助言も聞く耳を持たず、
誰の吉凶禍福にも関心を持たないなら、
その魂は、己が立ち位置も心をも、押し計る基準を持たない。
純真無垢である事はまことに麗しい一面、その無知の故に業火の炎にでも飛び込んでしまう「過ち」を犯すだろう。
それ故、知識を得るという事は、重要な事だ。
知識はやがてその人の「ちから」となり、熟成の度合いに応じた鎧ともなるのだから・・・
もしも、私達の魂が
何万年も、生き続けていて、過去世の体験の全てを記憶していたなら、どれだけ夥しいほどの知識を持って居たか・・・
だが、それは邪悪な存在達に依って、封印されて来た。
転生を繰り返すごとに、過去の記憶・知識・叡智は、封印され続け、より酷い「盲目」にされる。
この、今日までの地球人類の「制御された知覚・記憶」即ち、仮想現実であり、設計のある事を受け止めなければ、私達は、無意味な努力を原初の「無知」なる状態から、やり直すしかないのだ。
現実が限定された知覚を以て、多くの真実を観えなくされている事に気が付かなければ、ヒトは、どれだけ自己を俯瞰し、中庸を保ったつもりで居ても、尚且つ、暗闇の中で、前の見えないサングラスをかけて、「手探り」を続けている事に気が付かない。
この闇が支配する仮想現実の中で、
権威ある学者、宗教者、或いは医者や王家・伯爵・政治家たちが述べる知識の90%は、知的障害にされ、知覚に制限を受けているヒト種に、更なる「洗脳装置」としての情報を垂れ流している。
それらの知識の多くは、無価値な「雑音」に過ぎない。
貴方の頭の中の思考・マインドもまた、無価値な雑音を響かせている。
では、私達は何を信じればいいのだろうか?
釈迦は、「自帰依法帰依」(自らを拠り所とし、法を拠り所とせよ)と教えたが、一般人にとってこれは、まるで「取り付く島もない」説明には違いない。
忘れてはならない事は、既に己が、白痴に近い発達障碍児にされてしまって居る・・という事だ。
こんな事は誰も認めたくはないだろう。プライドが許さない・・・だが「受け入れる受け入れ無い」は、その人個人の選択の問題。
だが、もしも、貴方が、少しでも自我の何たるかを認識しており、自らの進化の為?に、少しでも他人の助言を聞き入れる「意思」があるなら、人によっては「天使・聖霊」の「微かな囁き」を聴くかもしれない。
本来なら必要のない筈の、この見えない世界からの「助言」は、現実が欺瞞だらけのmatrixで構成され、その中で「青息吐息」の人類の苦難を乗り越えさせるための、選択すべき「道標」を示す事の必要条件であるからだ。
だが、この作業は、実はとんでもなく、難しい作業である。
何となれば、個々人により、その魂の穢れの度合いが違い、盲目度が違い、理解度が皆、違うからであり、指紋と同じく等しいものは何一つとて無い・・・
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もしも、宇宙の構造・生命の隠された真実を知らないままに「真理」を「法」を解くなら、そのものの言う「真理」は「マヤカシ」である。
彼らが説く「真理」は、限定された知覚領域に基づく「偽りの自然・宇宙・自然法」だからだ。
そのことに誰が、己独自の知識・裁量をもって、到達し得るだろうか?
では一体、誰の言説に真実があり、「真理」に触れているのか??
それを知ることが出来るのは、その人が一生をかけて厳しく自らに問い続けた場合にのみに、限られるのかもしれない。
…合掌…