学校関係者の皆様へ

 

活弁をご存知でしょうか。

明治29年に映画が日本に到来してから40年間は、映画には音声がありませんでした。そこで、日本ではその無声の映画を語る弁士が誕生します。

 

時に軽妙に、時に情感たっぷりに、時に面白おかしく、時に淡々と、時に歌を歌いながら・・・弁士はライブで映画を物語っておりました。

 

大衆は、弁士の語りに魅了され、どの弁士の語りを聴きたいのかによって、入る映画館を決めていたほどです。

 

そして、私は小さい頃から活弁の世界に魅了され、10歳の時に父親に弟子入りをして活弁士になった麻生子八咫(あそうこやた)と申します。

 

2019年3月現在、33歳です。

 

チャップリンやキートンやロイド、また大河内傳次郎や阪東妻三郎などの心を打つ本物の名作を、麻生八咫(あそうやた)・麻生子八咫の親子弁士の語りによって、多くの生徒さんたちにも体感してほしい。

 

そんな思いで、全国各地の学校でも、活弁公演や活弁体験教室を行っています。

 

弁士の基本は、「体から声を出すこと」。

緊張を解きほぐして自由に、そして表現豊かに発言できる人間になってほしい。

 

この度、私たちの活動をわかりやすくお知らせするために、マンガ化されましたので、ぜひご一読いただけましたら幸いです。

 

以下のURLをクリックしてください。

 

https://bracomi.co.jp/works/01

 

どうぞよろしくお願い申し上げます。

 

日本独自の話芸である活弁を、全国へ!そして世界へ!

英語での活弁も可能です。

 

お問い合わせはこちら。

http://katsuben.com/ask/

 

公式Youtubeチャンネルは、こちらです。

https://www.youtube.com/channel/UCB-1JFDGrzEYC_3fZVLCcCA?view_as=subscriber

 

お目にかかれるのを楽しみにしております。

 

麻生子八咫(あそうこやた)

今日浅草への道中、麻生八咫に早稲田小劇場時代の話を聞いてみた。


(こっそり録音したものを書き起こしたので、師匠が一般向けに言葉を選んで発言しているわけではないので、その辺はどうぞご容赦ください。単なる親子の会話なので、敬称等も気にせず喋っています。内緒で録音したのは、「録音」ということになると、畏まってしまって面白い話が聞けなくなってしまうと思ったから。電車の中での会話なので、音が悪くて正確には書き起こせませんが、なんとなく伝わればと思います。私自身の記録のため。子八咫=「子」、八咫=「八」)

 

 

※※※※

子「そういえば、早稲田小劇場には何年から何年くらいの間いたの?」

八「1979年から1981年かな。足掛け3年だけど実質2年とちょっと。」

子「なんで早稲田小劇場に入ったの?」

八「一人芝居「日傘と剃刀」を完成させたかったからね」

子「白石加代子さんが好きだったからだと思ってたけど・・・?」

八「もちろんそれもある。でも、俺が入った時は、白石加代子さんは療養中で一年間いない時期で、その後退団してしまったんだ。すぐ復帰すると思っていたし、内部事情を知るすべもなかったから、当時は白石さんが戻ってくると信じて頑張っていたんだ。下っ端の自分らには上の情報は降りてこないんだよ。白石さんがいなかったのは本当に残念だった。」

子「白石さんは、父さんの田舎の大分県でも有名だったの?」

八「もちろん。高校時代から。狂気女優、変な奴がいるっていうんで有名だった。どんな変な奴なんだろうって実際に見に行ってみると、週刊誌が面白おかしく書いているようなものでは全くなくて、「あ、これは本物だ」と思った。心をえぐる女優だった。今も白石さんは「狂気女優」というレッテルが剥がれていないもんだから、みんなそっちにいってるわな。百物語なんかが素晴らしいって言われてる。」

 

子「白石加代子さんが『日傘と剃刀』を一度やったから『日傘と剃刀』を好きになってやろうと思ったの?それとも『日傘と剃刀』が好きだったからなの?」

八「どっちもだな。でも『日傘と剃刀』を知ったきっかけは、白石加代子の『日傘と剃刀』だった。」

 

子「Tさんはアングラが好きで、民芸とか文学座とか見てられないって言ってたけど、、」

八「うん、当時は馬鹿にする人も多かったけど、文学座は江守徹を生んだじゃないか。杉村春子を生んだじゃないか。今も残っている。それが素晴らしい。」

 

子「今、演劇って一部の好きな人だけが好きっていう感じがあるじゃない?私の周りには、ほぼ演劇が好きだって言う人はいないんだよね。昔はどうだったの?今と同じくらいの割合のコアな人が演劇好きだったの?それともみんながもっと演劇に興味をもっていたの?」

 

八「昔はね、もっともっとみんな「演劇が世界を変える」って本気で信じてた。「ほんまかいな」って思うかもしれないけど、寺山修司とか、唐十郎、佐藤誠・・・黒テントのね、あと鈴木忠志だよね。やっぱでもね、弱かったのは、一人の男のカリスマだけなんだよ。だからそのカリスマが死んだらもう解散だよ。でも、杉村春子が死んでも文学座は解散しない。江守徹はまだ生きてるけど、ほとんど舞台には立たないよね、二回か三回倒れちゃってるから。でもまだ文学座の団員じゃああるんだよ、江守徹は。例えば「水戸黄門の遠野英治郎に足向けて寝られねえだろ」というのが、俳優座。とんちんかんなくらい熱くて。あの人が俳優座の財政を救ったんだよ。給料の7割、時には9割を俳優座に入れていた時もある。」(遠野栄治郎談義は長かったので今回は割愛します)

 

子「早稲田小劇場って、入る時はオーディションとかしたの?」

八「うん、した。7〜8倍かな、いや、10倍以上だったかもしれない。」

子「え!?そんなに?オーディションではどんなことをしたの?」

八「面接と演技と基礎体力」

子「へえ。基礎体力は鍛えてあったの?」

八「当時の俺は、腹筋100回、腕立て100回、ランニング10キロを毎日やってた。」

子「その10キロは獨協時代からやってたの?」

八「もちろん。体づくりは基本だから。」

 

子「そんなに一生懸命演劇をやっていて、せっかく入った早稲田小劇場に白石さんがいないって本当に残念だったね・・・」

八「入ってすぐ、「あ、失敗したな」って思ったのは、早稲小に入ってすぐに鈴木忠志って人が、「ここは鈴木メソッドを表現する場であって、それ以上でもそれ以下でもない」って言ったんだ。そこまで俺たちは鈴木忠志にのめり込んでいないっていう人たち、素敵な先輩がたくさんいたんだけど、たくさん辞めて行った。」

 

子「鈴木忠志っていうと、利賀村がパッと頭に浮かぶけど、利賀村は行ったの?」

八「もちろん行ったよ。あれは厳しいね。行く前に、「お前ら今のうちにアルバイトして1ヶ月分の生活費を稼いでおけよ」って言うんだ。でも利賀村で過ごすために「1ヶ月バイトを休みます」なんて言ったら、もちろんバイトはクビだ。しかも、食費はいくらかかるとか言われて、「え?食費もとるの?」ってみんなで思ってた。結婚とかしてたらそんなこと続けるのは無理だね。」

子「それでも演劇に全力を注ぐって・・・すごいけど・・・云々」

 

 

ちょっと疲れたので、今日はここまで。

 

次回、利賀村での様子を書いてみようかな?

能楽堂時代の話も面白いので、そっちも順々に書いてみようと思います。

 

このアップは師匠には内緒。。。怒られたら消すかも?haha

 

 

こやた。