オタクに上下は存在するのか

オタクに上下は存在するのかというのはたびたび議論されている。
それらについていくつかの考えを列挙して行こうと思う。
 
 
 
上下はある!という考え方
偉いオタクとそうでないオタク、強いオタクと弱いオタクといったオタクに上下はある!という人はいるだろう。
古参がいるから新参がいま楽しめるんだ尊敬しろとか、たくさんお金を落としたファンは優遇されるべきだとか。
まず上下が存在するとはどういうことでしょう?
上下があるということは、ある基準があって、それをもとに上か下か判断していることになります。
つまり、上下が存在するというのは何か特定の価値体系を前提として初めて判断され得るもの。
そしてその価値体系の数だけ別の上下の判断はあり得えます。
つまりファン歴、貢いだ額、知識量、好きな気持ちの重さ…などいくらでも基準は持ち出せる。
さてどれが正しい?
古いファンや貢いだファンが偉いと言うのはどうだろう?
例えばファン歴20年のオタクにはどうやっても高校生は敵わない。
落とした金額もバイトができる大学生と高校生では不公平だ。
知識や気持ちはどうやって比べる?
うーん、どれが正しい?となったときどうなるか。
それは泥沼での相手の叩きあい。
なぜなら、どの価値体系を正しいとするかはその人のアイデンティティにも関わるため泥沼と化す
古参のオタはファン歴を基準としたがるし、お金や歴の浅いオタクは気持ちを基準としたがる。
それは負けられない戦いだ。
なぜなら負けを認めてしまうと自らのアイデンティティを失ってしまう。
負けを認めてしまえば自分のやってきたことは価値のないものになってしまう。
歴が長いのがいいとなったら貢いだお金は無駄だし、知識量があった方が上となったら注いだ愛は偽りの愛になってしまう。
どんなに不利になろうが、どんなに卑怯だろうが、どんな手を使ってでも 引き下がれない。
こうして覇権の奪い合いに発展し泥沼化する。
 
 
 
 
 
 
 
上でもあるし下でもある!という考え方
そもそも上か下かの選択肢が二つという前提がおかしい!という人もいるだろう。
オタクに上下があるかというのにも、善人は善であり悪人は悪であるというような、善悪二元論が根底にあるように思える。
人間は多面的であり複数の属性を有するので、その文脈によって善であり悪であるという場合も往々にしてあるはずだ。
例えば大金を業界に落として貢献したがマナーの悪いファンはどうだろう。
金銭でいえば善人であり、道徳でいえば悪人である。
ではどの基準を持ち出してよいのか、何個持ち出せばよいのか、むしろ複雑化してないかなどの疑問が残る
 
 
 
 
 
 
 
 
横一列だ!という考え方
一方、上下がないと考えるのは覇権の奪い合いに疲労し、みんな違ってみんないいというような立場を取る場合もあるだろう。
相対主義的な立場をとれば争うことがなくなるというメリットがある。
しかしこれではここで議論が止まってしまい進歩がなくなってしまう
我こそは最強のオタクである!とみなが叫び合う。
やがて誰も聞く耳を持たなくなるだろう。
 
 
 
 
 
 
 
上下など必要無い!という考え方
或いは、ある一定の価値体系にかかわりなく、ただあるだけで満たされている(fulfilled)という立場なのかもしれない。
好きでいるだけで満たされている。それで見返りはいらない。誰からも認められなくていい。
しかし果たしてそんなことが人間に可能なのだろうか
それはもう厳しい修行を経てやっと到達できるものなのではないだろうか。
上下はある派に巻き込まれて、お前は貢いでないとか愛がないと言われても私はただ好きなだけでいいという立場でいられるのだろうか?
 
 
 
 
 
 
 
上と下という物自体がない!という考え方
オタクに上も下もない。みな平等に「価値」は無いという考え方
それはある価値体系でのゼロポイントということでなくて、そもそも価値体系なんかまやかしでそんなもんはないから価値という概念が存在しない。
つまり価値0とは、ファン歴が0年とかお金儲けのためだけで愛はないとか、そういう何かしらの基準でのゼロ地点ということではなく、そもそも基準というものはこの世に存在しない
しかし基準の存在しない世界で生きられるだろうか
生まれた時から背が高いとイケメンだとか、身体のやらかい表現がダンスではうまいとか決めてくれたからこそなにかが選らべるようになる。
基準がなくなれば好きかどうかもわからなくなってしまわないだろうか?
 
 
 
 
 
 
 
さてどうする?
いくつかの立場を紹介してきた。
どれにもメリットがありデメリットがある。
もちろん他の立場もあるだろう。
けれどそれにも反論はできてメリットとデメリットがきっと存在する。
で、結局どうすればいいのだろう?
みな正しくみえるしそうでないようにも見える
これらを踏まえたうえで。
メタな視線から当事者への享楽的な回帰。
これが最適解なのではないかと思う。
必死にアイデンティティを守る戦いから抜け、それでいて基準を失うことなく、かつ現実的である。
ではこれからはその立場でいるために必要なことについて考えて行こうと思う。